第八話 金色の土地
峠を越えると、世界が白く変わっていた。
昨夜の初雪が、山あいの村々にうっすらと積もっている。空はまだ鉛色だったが、その下に広がる景色は、王都とはまるで違う静けさをたたえていた。石造りの質素な家々。煙突からのぼる細い煙。凍てついた畑と、それでも青々とした常緑の森。華やかさは、どこにもない。けれど、荒んだ土地でもなかった。人の手が、丁寧に入っている。
傷ついた腕を吊ったまま、セオドール様は馬を進めた。領内に入ってから、彼の背に、わずかな変化があった。張りつめていた肩の線が、心もち、ゆるんでいる。ここが、彼の帰る場所なのだ。
村の入り口にさしかかると、畑仕事の手を止めた老人が、こちらに気づいて顔を上げた。
「おお、領主様! お戻りで!」
しわがれた声が、雪の朝に響く。たちまち、家々から人が出てきた。厚手の外套にくるまった女たち、頬を赤くした子どもら、鍬を担いだ男たち。誰もが、セオドール様の姿を見て、顔をほころばせる。
その光景に、わたくしは息を呑んだ。
人々の胸に、色が灯っている。金色。若草色。澄んだ青。敬意と、親愛と、信頼。それも、ひとりやふたりではない。村じゅうの人々が、セオドール様へ向かって、温かな色を灯していた。まるで、雪の朝に無数の灯りがともったかのように。
「氷の辺境伯」。冷酷で、人を寄せつけないと噂されたあの人へ、この土地の人々は、これほどの想いを向けている。噂とは、なんと当てにならないものだろう。あるいは、色を視ることのできない人々でさえ、この人の本当の姿を、ちゃんと知っているということなのか。
「領主様、お怪我を?」
女のひとりが、吊られた腕に気づいて声をあげた。
「かすり傷だ」セオドール様は短く応じた。「峠に、野盗が出た。街道を、しばらく見回らせる」
「まあ、大変な。ところで、そちらのお方は?」
女の視線が、わたくしへ向いた。物珍しげな、けれど棘のない目だった。
「客人だ」セオドール様は、それだけ言った。「城で、しばらく預かる」
余計な説明はしない。破棄された令嬢だとも、後見だとも言わない。ただ「客人」と。その一言が、なぜか、こわばっていたわたくしの肩を、そっと軽くした。この土地では、王都の醜聞は、まだ誰も知らない。
村を抜け、城下町へ入る。
石畳の道の両脇に、小さな店が軒を連ねていた。パン屋の窓からは、焼きたての匂いが白い湯気とともに流れてくる。鍛冶場では、槌を打つ音が高く響いていた。決して豊かではない。けれど、人々の顔には生気があった。
市場のかたわらで、母親らしき女が、幼い娘に何かを手渡していた。娘が、ぱっと顔を輝かせて母を見上げる。その二人のあいだに、金色の光が、あたたかく揺れていた。見返りを求めない、まっすぐな愛。
わたくしは、その光景から目を離せなかった。
王都の夜会で、あれほど着飾った人々のあいだに、こんな金色を、一度でも視ただろうか。羨望の紅と、値踏みの鈍色と、偽りの無色。あの華やかな広間にあふれていたのは、そんな色ばかりだった。宝石も、絹も、金糸の刺繍も、色を装うことはできても、色そのものを生むことはできない。
なのに、この貧しい辺境の、粗末な市場の片隅に、こんなにも惜しみない金色が灯っている。継ぎの当たった上着の親子のあいだに。凍えた手で花を売る老婆と、それを買う若者のあいだに。パンを半分に割って隣の子に分けてやる、小さな子どもの手もとに。
わたくしは、生まれて初めて、この目に映る世界を、美しいと思った。人の想いが視えることを、呪いのようにしか感じてこなかった。けれど、こんな景色を視られるのなら、この目にも、少しは意味があるのかもしれない。
胸の奥が、しんと痺れた。目の奥が、じわりと熱くなる。わたくしは、それを悟られまいと、深く息を吸った。冷えた空気が、焼きたてのパンの匂いを含んで、肺を満たした。
「どうかしたか」
セオドール様が、こちらを振り返った。わたくしが立ち止まっていたことに、気づいたらしい。
「いえ」わたくしは、慌てて首を振った。「ただ……あたたかな町だと、思っただけですわ」
それは、世辞ではなかった。心からの言葉だった。セオドール様は、しばらくわたくしを見つめ、それから、ふいと前を向いた。
「……そうか」
低い声に、なぜか、かすかな安堵の響きがあったような気がした。むろん、色は視えない。気のせいかもしれない。それでも、そう感じたことが、なぜだか嬉しかった。
やがて、城下町の奥に、それはそびえていた。
ヴァレンシュタイン辺境城。王宮のような煌びやかさとは無縁の、灰色の石でできた無骨な城だった。分厚い城壁と、雪をかぶった尖塔。長い年月、北の脅威から領地を守り続けてきた、武人の城。飾りらしい飾りはどこにもない。けれど、その古びた石の一つひとつが、幾世代もの守りの重みを負っているように、どっしりと据わっていた。見上げると、雪雲を背にした尖塔の高さに、思わず首がのけぞる。
城門の前で、セオドール様は馬を止め、こちらを振り返った。
「歓迎の宴も、着飾った侍女もいない」彼は、ぶっきらぼうに言った。「だが、ここには君を裁く者もいない。好きに過ごせ」
着飾った侍女も、宴もいらなかった。裁く者がいない。ただそれだけで、この城が、ずいぶんと居心地のよい場所に思えた。
城門をくぐる。冷たい石の匂いと、遠くで焚かれる薪の匂いが、鼻をかすめた。跳ね橋の鎖が軋み、重い扉が背後で閉ざされる音が、腹の底に響いた。
この城で、新しい日々が始まる。色の視えないあの人と、金色の灯る土地で。
けれど、城の中庭に足を踏み入れたそのとき、出迎えに並んだ家人たちのなかに、ひとり、場違いな者がいるのに気づいた。旅装の男だ。城の者ではない。その胸に灯る色は、ここの人々の温かな金や青とは、まるで違っていた。慇懃さの下に沈んだ、鈍く濁った色。何かを探るような、値踏みの色。
セオドール様の表情が、その男を認めたとたん、目に見えて険しくなった。
「……なぜ、貴様がここにいる」
低く押し殺したその声に、わたくしは、たどり着いたばかりのこの城で、早くも不穏の影が差すのを感じた。男が誰なのか、まだわからない。ただ、あの濁った色だけが、雪の白さのなかで、ひどく異質に浮かび上がっていた。




