第七話 盾になる背中
最初の矢は、風を裂いて飛んできた。
セオドール様の剣が、それを弾いた。金属のぶつかる甲高い音が、谷にこだまする。矢は明後日の方向へ跳ね、岩に当たって砕けた。
「馬車の陰へ!」
彼の怒鳴り声に、わたくしはネルの手を引いて馬車の車輪の陰へ転がり込んだ。冷たい土の匂いが、鼻先をかすめる。心の臓が、耳の奥で早鐘を打っていた。
野盗たちが、喊声をあげて斜面を駆けおりてくる。数の上では、圧倒的にこちらが不利だった。護衛は、セオドール様ただひとり。御者は腰を抜かして震えている。
けれど。
最初の一人が斧を振りかぶった瞬間、セオドール様の姿が、ぶれた。
速い。目で追えないほどだった。彼は最小限の動きで斧をかわし、柄の側で相手の首筋を打った。男が声もなく崩れる。返す刀で、二人目の剣を受け流し、三人目の膝を蹴り砕く。派手さはない。無駄がまるでない。獲物を狩る獣のような、静かで的確な動きだった。
彼の体には、やはり色がない。恐れも、昂りも視えない。ただ、その剣だけが、わたくしとネルの前に立ちはだかる壁になっていた。何度斬りかかられても、彼はけっして、馬車の陰から離れなかった。前に出て敵を追わず、あくまでわたくしたちを背にして戦っている。守る、という一点だけが、その動きのすべてを貫いていた。
わたくしは車輪の陰から、その戦いを見ていた。見ていることしか、できなかった。手のひらに爪が食い込むほど、拳を握りしめて。ネルがわたくしの肩を抱き、震えを分け合うようにして、身を寄せている。助けを呼ぼうにも、こんな山中に人の気配はない。頼れるのは、たった一人のあの背中だけ。もし彼が倒れれば、次はわたくしたちの番だ。
やがて、立っていた野盗が三人に減ったころ。頭目らしき大男が、卑劣な手に出た。まっすぐセオドール様に向かうと見せかけ、その脇をすり抜けて、馬車の陰へ、わたくしへと、刃を向けたのだ。
時が、ひどく遅く流れた。
振り下ろされる刃。逃げる間はない。わたくしは、とっさに目を閉じた。
鈍い音がした。けれど、痛みは、なかった。
おそるおそる目を開けると、セオドール様の背が、目の前にあった。彼は身を投げ出すようにして、大男とわたくしのあいだに割って入っていた。その左腕から、赤いものが滴っている。刃を、みずからの腕で受けたのだ。わたくしを庇うために。
彼は呻きひとつ漏らさず、歯を食いしばったまま、そのまま柄頭で大男の顎を打ち砕いた。骨の砕ける鈍い音。最後の敵が、白目をむいて崩れ落ちる。
谷に、静けさが戻った。風の音と、自分の荒い息だけが残る。血の匂いが、鉄錆びのように濃く、あたりに漂っていた。
残った野盗たちが這うように逃げ去ったあと、わたくしは震える足で立ち上がった。
「辺境伯様! お腕が」
セオドール様の左腕からは、外套の袖を裂いて血が流れていた。それでも彼は、痛みなど感じていないかのように、まず周囲を見回し、伏兵がいないことを確かめてから、ようやくこちらを向いた。
「怪我は、ないか」
問われたのは、わたくしのほうだった。血を流しているのは、この人なのに。
「わたくしは、なんとも。それより、お腕を早く」
ネルが手早く布を裂き、傷を縛る。わたくしは、震える指でそれを手伝った。彼の腕は、思っていたよりずっと硬く、熱かった。触れた指先に、脈打つ血の熱が伝わってくる。生きて、動いている、人の腕。それがつい先ほどまで、わたくしの命の盾になっていた。傷は深くはないようだったが、それでも、布を巻くそばから、じわりと赤が滲んでいく。
セオドール様は、手当てのあいだ、じっと動かなかった。痛むだろうに、眉ひとつ動かさない。ただ、包帯を巻くわたくしの手もとを、灰青の目で静かに見おろしていた。何を思っているのか。その視線の意味を、わたくしはやはり、読み取ることができなかった。
「なぜ」わたくしは、つい口走っていた。「なぜ、そこまでして、わたくしを庇うのですか。腕を斬られてまで」
後見人だから、と言われれば、それまでだ。けれど、義務でここまでする人がいるだろうか。命を懸けてまで。
セオドール様は、しばらく黙っていた。それから、視線を逸らすように谷の向こうを見て、短く言った。
「……君を、無事に届けると決めた。それだけだ」
それきり、彼は口を閉ざした。決めた、という言葉に、どんな想いが込められているのか。色が視えれば、一目でわかっただろう。金なのか、若草なのか、それとも義務の色すらないのか。
けれど、視えない。何度視ようとしても、あの背中には、色の一片も灯らなかった。命を懸けて庇ってくれた、その本心すら、わたくしにはわからないのだ。
もどかしかった。生まれて初めて、色が視えないことが、これほど歯がゆいと思った。
その夜、ようやくたどり着いた山中の小屋で、わたくしは眠れずにいた。
暖炉の火が、セオドール様の寝顔を、赤く照らしている。傷の手当てを終え、疲れて眠り込んだその顔は、昼間の峻厳さが嘘のように、あどけなく見えた。
「妙な話だと思わない?」わたくしは、隣で薪の番をするネルに囁いた。「色が視えないのに、あの背中だけは、なぜか信じられる気がするの」
ネルは、火をかき混ぜながら、ふっと笑った。
「そりゃあ、お嬢様。色より確かなものも、この世にはあるってことでしょうよ」
色より、確かなもの。
その言葉を、わたくしはうまく呑み込めなかった。色こそが真実だと、ずっと信じて生きてきたから。人の言葉は嘘をつくけれど、色は嘘をつかない。だから色さえ視えれば、誰にも騙されずに済む。そう思って、この目だけを頼りに生きてきた。
けれど今日、わたくしを守ったのは、視えない色ではなかった。目の前にある、傷ついた腕だった。血を流してもなお、けっしてわたくしの前を退かなかった、あの背中だった。色では、証明できないもの。それでも、確かにそこにあったもの。
眠るセオドール様の、包帯を巻かれた左腕に目をやる。あの傷は、わたくしの代わりに負ったものだ。そう思うと、胸の奥が、うまく言葉にならない熱を持った。
窓の外で、初雪がちらつき始めていた。ヴァレンシュタインの領は、もう、すぐそこだった。あの人の治める、色の視えない土地が。




