第六話 十日の道
王都を出て、三日が過ぎた。
馬車は舗装された街道を離れ、北へ向かうにつれて道は細く、荒くなっていった。窓の外を流れる景色から、しだいに華やかさが失われていく。宮殿の尖塔も、商人の隊列も見えなくなり、代わりに現れるのは、色づいた楓の林と、痩せた畑と、灰色の空だった。空気が、日ごとに冷えていく。朝には吐く息が白く濁った。
セオドール様は、意外にも旅に同行していた。使者に任せて先に戻ることもできただろうに、みずから馬を駆り、わたくしたちの馬車のかたわらを進んでいる。会話は、ほとんどなかった。彼は必要なことしか口にしない。今日はどこまで進む、次の宿場はどこ、それだけ。
けれど、と気づいたことがある。
休息のたび、いちばん風の当たらない木陰に、わたくしとネルの席が用意されている。冷えた川を渡るときには、必ず馬を先に立てて浅瀬を確かめる。宿では、温めた葡萄酒の杯が、頼む前にわたくしの手もとへ届く。
言葉は、氷のように短い。けれど、その振る舞いは、ちっとも冷たくなかった。
「妙なお方ですねえ」ネルが、馬車の中で小声に言った。「口ぶりはあんなにぶっきらぼうなのに、やることはお優しい。ちぐはぐで」
「ええ」わたくしは頷いた。「本当に、妙なお方」
旅のあいだ、わたくしは幾度もセオドール様を視た。馬上で手綱を握る背に、宿の卓を挟んだ向かいに。けれど何度試みても、あの人の体には色が灯らない。敵意も、警戒も、下心も、なにひとつ。まるで、そこだけ夜のように塗りつぶされている。
人の色が視えないというだけで、その人がまるごと、深い霧の向こうにいるように感じられた。彼が今、何を思ってわたくしに酒を差し出したのか、わからない。憐れみなのか、義務なのか、それとも何か別のものなのか。色があれば、一目でわかったことだ。それがわからない。ただ、差し出された杯の温かさだけが、手のひらに残る。
旅の四日目、峠へ続く谷あいで、冷たい霧雨が降った。わたくしが薄い外套の襟をかき合わせていると、馬を寄せたセオドール様が、無言で自分の外套を脱ぎ、こちらへ差し出した。
「濡れる」それだけだった。
「辺境伯様がお召しにならなければ」
「私は、慣れている」
押し問答をする気配もなく、彼はもう前を向いていた。仕方なく肩にかけたその外套は、雨に湿っていてもなお、人の体温を残して温かかった。獣の毛皮と、鉄と、遠い焚き火の匂いがした。深く息を吸うと、こわばっていた肩から、少しだけ力が抜ける。わたくしはただ面食らって、礼を言うのがやっとだった。
色が視えれば、この施しの裏に何があるか、すぐにわかったはずだ。けれど視えないからこそ、わたくしは初めて、相手の行いそのものを、まっすぐ受け取るしかなかった。奇妙なことに、それは少しも不快ではなかった。
その夜、宿場町のちいさな旅籠に泊まった。
夕餉のあと、暖炉のそばで、めずらしくセオドール様が口を開いた。
「明日から、山道に入る」薪をくべながら、彼は言った。「ヴァレンシュタインは、王都のような土地とは違う。冬は長く、作物は乏しい。人は少ない。……退屈させることに、なるだろう」
「退屈は、慣れておりますわ」わたくしは正直に答えた。「王都でも、わたくしの日々は静かなものでしたから」
セオドール様の視線が、こちらへ向いた。灰青の目が、炎の照り返しを受けて、わずかに揺れる。
「あの家では」彼は、言葉を選ぶように間を置いた。「君は、笑っていなかったな」
思いがけない言葉だった。この人は、王都の別邸で一度会っただけのわたくしの、何を見ていたのだろう。
「笑う理由が、ございませんでしたもの」
言ってしまってから、少し後悔した。憐れみを誘うつもりはなかった。けれどセオドール様は、憐れむでも慰めるでもなく、ただ低く応じた。
「辺境には、ある。……たぶん」
たぶん、という頼りない言葉に、なぜか嘘の匂いがしなかった。色は視えない。それでも、この人は口先だけの気休めを言う人ではない、という気がした。根拠はない。ただ、この三日間の、風の当たらない木陰と、温かい杯の記憶が、そう思わせた。
薪が、ぱちりとはぜた。松脂の匂いが、鼻の奥をくすぐる。
「変わった方ですね、辺境伯様は」わたくしは、つい零した。「色の視えない方に会うのは、生まれて初めてですわ」
言ってから、しまった、と思った。色。この目のことを、うっかり口にしてしまった。
けれどセオドール様は、それを聞き咎めなかった。ただ一瞬、手を止め、それから何ごともなかったように薪をくべ直した。まるで、聞かなかったことにしてくれるように。
その横顔を、わたくしは盗み見た。相変わらず、色はない。けれど、聞き流してくれたその沈黙が、なぜか、どんな慰めよりも優しく感じられた。
翌朝、わたくしたちは山道へ入った。
道は急に険しくなり、両側に切り立った岩壁が迫る。空はいちだんと低く、鉛色の雲が垂れこめていた。風の匂いが変わった。湿った土と、雪の予感を含んだ、冷たい匂い。
「日暮れまでに、峠を越える」セオドール様が、空を見上げて言った。その表情が、かすかに険しい。「天気が、崩れそうだ。急ぐぞ」
彼の言葉どおり、昼を過ぎるころから、風が唸り始めた。馬車の幌が、はためいて鳴る。ネルが不安げに窓の外をうかがう。
そして、峠の中腹にさしかかったとき。
前を行くセオドール様の馬が、突然、いなないて足を止めた。彼の手が、腰の剣にかかる。
「止まれ」低く、鋭い声だった。「……囲まれている」
岩陰から、ぬっと人影が立ち上がるのが見えた。ひとつではない。いくつも。粗末な革鎧に、手には刃こぼれした剣や斧。街道を根城にする野盗の類だろう。風の音に紛れて、荒い息づかいと、金具の鳴る音が近づいてくる。
その体に灯る色を、わたくしは視た。濁った、餓えた黒。害意だ。まぎれもない、こちらの命を狙う色。数は、六。いや、七。岩の上にも、弓を構えた影がある。
「ネル、身を伏せて」わたくしは声を殺した。喉が、からからに渇いていた。
こんな山中で、たった一人の護衛と、女がふたり。逃げ場はない。セオドール様が、ゆっくりと剣を抜いた。刃が鞘を擦る、乾いた音。その背は、わたくしとネルを庇うように、まっすぐ前へ立ちはだかっていた。
彼の体には、やはり色がない。恐れているのか、それとも張りつめているのか。命の懸かったこの瞬間ですら、この人の心だけは、わたくしには視えなかった。




