第五話 振り返らない
わたくしは、辺境へ行くと決めた。
三日のあいだ、幾度も考えた。色の視えない相手のもとへ行くのは、暗闇に足を踏み出すようなものだ。けれど、この家に残っても、待っているのは義母の用意する次の厄介払いだけ。それに、あの人の「あの家に居場所はないだろう」という言葉には、憐れみの湿り気がなかった。事実を、事実として差し出す響きだけがあった。ただそれだけのことが、不思議と、背を押した。
決意を告げると、義母は満足げに頷いた。
「賢明な判断ね。辺境伯家の後見とあれば、破棄の醜聞も少しは薄まるでしょう」
言いながら、義母が本当に思っているのは、厄介者がようやく家から消えるということだけだ。その鈍色を、わたくしはもう、腹立たしいとも思わなかった。追い出されるのではない。自分の足で、出ていくのだ。そう決めた途端、義母の言葉は、遠い部屋の物音のように、どうでもよくなった。
「お姉様、お元気で」
見送りに出たミレイユが、しおらしく目を伏せた。「辺境は寒いと聞きますわ。どうか、お体を大切に」
その胸に、隠しきれない安堵の色が透けている。目の上のたんこぶが、遠くへ消える。妹にとっては、それが何よりの朗報なのだろう。
「ありがとう、ミレイユ」わたくしは静かに応えた。「あなたも、どうか幸せに。ユリウス様の胸に、いつか本物の色が灯る日が来るといいわね」
ミレイユの笑みが、一瞬こわばった。意味は、伝わらなくていい。ただ、わたくしにだけわかる餞別だった。
屋敷を発つ前日、思いがけない客が訪ねてきた。
ユリウス様だった。
玄関広間で待っていた彼は、わたくしの姿を見るなり、取り繕った笑みを浮かべた。その胸は、相変わらずの無色。愛も、未練も、何ひとつ灯っていない。
「辺境へ発つと聞いてね。一言、詫びておきたかったんだ」ユリウス様は、芝居がかった仕草で胸に手を当てた。「君を傷つけるつもりはなかった。あれは、私の意志だけで決めたことではないんだ。わかってくれ」
「意志だけでは、ない?」
わたくしは、聞き返した。何気ない一言だった。けれど、ユリウス様の言葉の端に、奇妙な引っかかりを覚えた。
「あ、いや」ユリウス様が、わずかに口ごもった。「縁談というものは、家同士のものだ。上の……いや、いろいろと事情がある、ということさ」
上の。言いかけて、彼は言葉を濁した。上の意向。婚約も、破棄も、彼自身が決めたことではない。そう聞こえた。
そもそも、公爵家の嫡子と伯爵家の娘。釣り合わぬ縁談が、なぜ整ったのか。わたくしは今まで、深く考えたことがなかった。ハルドグレン公爵家といえば、王家に連なる名門だ。その嫡子が、なぜわざわざ格下の、しかも取り立てて美しくもないわたくしを選んだのか。あのころは、幸運だとしか思わなかった。愛されているふりに、必死だったから。
けれど今、無色の胸で言い訳を並べるこの人を見ていると、この婚約そのものが、誰かの描いた筋書きだったのではないかという気がしてくる。誰かが、わたくしを公爵家に据えようとした。そして、都合が変われば、妹に挿げ替えた。まるで、盤上の駒のように。
「上の、とは、どなたのことでしょう」
わたくしは、静かに踏み込んでみた。ユリウス様の顔に、初めて怯えに似た色がよぎった。紅でも鈍色でもない、ただの、狼狽。
「……もう、済んだことだ」彼は逃げるように目を逸らした。「余計なことは、詮索しないほうがいい。君のためにも、な」
脅しにも、忠告にも聞こえる言葉だった。それきり、ユリウス様は口を閉ざした。
「ご丁寧に、痛み入りますわ」わたくしは、それ以上を問わなかった。問うたところで、無色の口から本当のことは出てこない。「もう、お気になさらないで。わたくしとあなたのことは、とうに終わりましたもの」
ユリウス様は、拍子抜けした顔をした。責められるとでも思っていたのだろう。けれど、責める気も、縋る気も、わたくしにはとうになかった。
彼が帰っていく背中を見送りながら、胸の隅に、小さな棘が残った。上の意向。あの言葉が、なぜか、耳から離れなかった。
旅立ちの朝は、冷たい霧に包まれていた。
わずかな荷を馬車に積み終えると、ネルが当然のように御者台の隣へ乗り込もうとした。
「ネル、あなた……」
「あたしも参りますよ」ネルは、こともなげに言った。「お嬢様おひとりを、あんな北の果てへやれるものですか。奥様には、暇をいただくと申し上げてきました」
その胸に、迷いのない青が灯っている。この人だけは、と思う。この人の想いだけは、たとえ色が視えなくとも、疑いようがない。長い歳月が、それを証していた。
「ありがとう」
わたくしは、それだけ言うのがやっとだった。他に言葉が出てこなかった。誰かが、見返りもなく、自分のために北の果てまでついてくる。そんなことが、まだ半分、信じられなかったから。
考えてみれば、おかしな話だ。人の想いを視る目を持ちながら、わたくしは、自分が誰かに大切にされているという実感を、ついぞ知らずに育った。自分へ向かう色だけは、視えないから。だからネルの青も、頭では信じていても、胸の底では、いつも半信半疑だった。この人も、いつか離れていくのではないか、と。
その臆病を見透かしたように、ネルは御者に出立を告げた。「さ、参りましょう。日が高くなる前に、街道へ出ておかないと」
馬車が、屋敷の門を出る。振り返らないと、昨夜決めた。けれど一度だけ、車窓から生家を見た。八年間、わたくしの居場所ではなかった家。父の書斎の窓に、人影はない。見送る者は、誰もいなかった。
「行きましょう、ネル」
わたくしは前を向いた。霧の向こうに、まだ見ぬ北の辺境が横たわっている。色の視えない人が待つ、遠い土地が。
馬車が石畳を離れ、車輪の音が土のものに変わっていく。王都が、少しずつ遠ざかる。
そのとき、ふと、背筋に薄ら寒いものを感じて、わたくしは窓の外へ目をやった。
通りの角に、一台の馬車が止まっていた。窓に紋はなく、御者は顔を隠している。ただ、その車内から、こちらをじっと見つめる誰かの気配があった。誰の色も視えないほど遠く、けれど確かに、わたくしたちの出立を見張っている。そんな視線だった。
気のせいだろうか。わたくしは霧に紛れて消えていくその馬車を、しばらく見つめていた。




