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人の想いは色で視えるのに、わたくしに向けられた愛だけは、一度も視えたことがない  作者: ヲワ・おわり


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第四話 色のない人

 書斎に入ると、父が見慣れぬ客と向かい合っていた。

 客は、旅装の男だった。灰色の外套に、辺境の紋らしき銀の留め具。腰には長剣を佩いている。都の令息のような華やかさはないが、背筋の伸びた立ち姿には、鍛えた者だけが持つ静かな重みがあった。父はいつになく緊張した面持ちで、わたくしを手招きした。

「アリシア。こちらは……ヴァレンシュタイン辺境伯家の、使いの方だ」

 ヴァレンシュタイン。北の果て、雪深い辺境を治める武門の家。「氷の辺境伯」の異名だけは、社交界の噂で耳にしたことがある。冷酷で、人を寄せつけず、王都にはめったに姿を見せぬ領主だと。

「アリシア・レイフェルト嬢」使者が、わたくしへ向かって一礼した。「我が主、セオドール・ヴァレンシュタイン辺境伯より、書状を預かってまいりました」

 差し出された封書には、蒼い蝋で紋が押されている。父が震える手で開き、目を走らせ、ぽかんと口を開けた。

「な……後見、だと」

「はい」使者は淡々と答えた。「破棄の一件、我が主の耳にも届いております。レイフェルト嬢を、辺境伯家の後見のもとに迎えたい、と。むろん、伯爵家に負担をおかけすることはございません」

 書斎に、奇妙な沈黙が落ちた。

 わたくしにも、事情が呑み込めなかった。会ったこともない北の辺境伯が、なぜ、破棄された娘を引き取ると言い出すのか。父は困惑と安堵の入り混じった顔で、書状とわたくしを見比べている。厄介者を、負担なしで引き取ってくれる。父にとっては、願ってもない申し出だろう。

「な、なんとありがたいお話でしょう」父が、上ずった声で言った。「ぜひ、前向きに」

「決めるのは、ご息女ご自身であるべきかと」使者が、父を遮った。「我が主は、そう申しております。一度、直に会って話がしたい、と」

 その言葉を、廊下で聞いていた者がいた。義母だ。話が漏れ伝わるや、義母は血相を変えて書斎に飛び込んできた。

「まあ、辺境伯様がじきじきに! なんとありがたい」手のひらを返したような猫なで声だった。「アリシア、これ以上の良縁はありませんよ。すぐにでもお受けなさい。ねえ、あなた」

 昨日まで畑を掠め取ろうとしていた口が、今日は辺境伯家の名にすり寄る。義母の胸に灯る色は、相変わらずの鈍色。この人にとっては、ホーグ子爵も辺境伯も同じことなのだ。厄介者を、より高く払い下げられるかどうか。それだけ。

 使者は、そんな義母を一瞥しただけで、表情を変えなかった。「くり返しますが、決めるのはご息女です」


 三日後、王都の一角にある辺境伯家の別邸で、わたくしはその人と対面した。


 三日後、王都の一角にある辺境伯家の別邸で、わたくしはその人と対面した。

 通された客間は、飾り気のない部屋だった。壁に一枚の古い剣が掛かっているほかは、装飾らしいものもない。暖炉で薪がはぜ、松脂の匂いがかすかに漂っている。

 窓を背に、その人は立っていた。

 背が高い。肩幅が広く、黒い上着の下の体つきは、剣を執る者のそれだ。短く刈った黒髪の下で、灰青の目が、まっすぐこちらを見ていた。整った顔立ちだが、表情というものがまるでない。氷の辺境伯。なるほど、噂どおりの人だと思った。

「セオドール・ヴァレンシュタインだ」

 低い、飾らない声だった。「座ってくれ」

 わたくしは礼をして、椅子に腰かけた。それから、いつもの癖で、その人を視た。

 人が誰かへ想いを向けるとき、必ず灯るはずの色。敵意でも、警戒でも、値踏みでもいい。会ったばかりの相手なら、たいていは何かしらの色がにじむものだ。

 けれど。

(視えない)

 わたくしは、思わず瞬きをした。無色ではない。ユリウス様の空虚な透明とも違う。この人の体には、色そのものが、存在しなかった。まるで、そこだけ世界に穴が空いているかのように。

 こんなことは、初めてだった。生まれてこのかた、どんな人間からも、わたくしは何かしらの色を視てきた。それがこの人からは、一片も読み取れない。

「体調でも悪いのか」

 セオドール様が、静かに問うた。わたくしが黙り込んだのを、そう受け取ったらしい。

「い、いえ」わたくしは慌てて姿勢を正した。「失礼いたしました。あの、ひとつ伺ってもよろしいでしょうか。なぜ、わたくしを」

「後見の理由か」

「はい。お会いしたこともないわたくしを、なぜ、引き取ろうと」

 セオドール様は、しばし黙った。暖炉の薪が、ぱちりとはぜる。

「……理由は、いずれ話す」やがて、それだけを言った。「今は、こう思ってくれればいい。あの家に、君の居場所はないだろう。辺境になら、ある」

 ぶっきらぼうな言葉だった。けれど、突き放すのではなく、事実を差し出すような響きがあった。彼が何を思ってそう言ったのか、わたくしには視えない。だから、声と、言葉と、その表情のかすかな動きだけで、測るしかなかった。

 こんなふうに人と向き合うのは、初めてだった。色に頼れないというだけで、目の前の相手が、急に得体の知れないものに思えてくる。

 わたくしは、思いきって尋ねてみた。「ひとつ、確かめさせてくださいませ。辺境伯様は、わたくしに、何を望まれるのでしょう。妻に、というお話ではないと伺いましたが」

「妻にとは言っていない」セオドール様の答えは、迷いがなかった。「後見だ。君を、あの家から離す。それ以上のことは、君が望まなければ、何も起きない」

 嘘か、まことか。いつもなら、色を視れば一瞬でわかる。誠実の澄んだ青か、下心の紅か。けれどこの人の言葉は、色の裏づけを持たないまま、ただ耳へ届くだけだった。信じるも信じないも、わたくし自身が決めるしかない。

 奇妙な心地がした。心もとなくて、それでいて、どこか対等な気もした。色で見透かすのではなく、言葉で向き合う。そんな相手は、生まれて初めてだった。

「よく、考えてくれ」セオドール様は、それ以上は迫らなかった。「返事は、急がない」


 その夜、私室に戻ってからも、わたくしはあの灰青の目を思い返していた。

「どんな方だったんです?」ネルが、寝支度を手伝いながら尋ねた。

「わからないの」わたくしは正直に答えた。「あの方だけ、色が視えなかったのよ」

 ネルが、手を止めた。「視えなかった? 一度も?」

「ええ。あんなこと、初めて」

 窓の外で、夜風が鳴っている。冷たい北の辺境。そこにいるという「わたくしの居場所」。そして、色の視えない、氷の辺境伯。

 あの人のもとへ行けば、何かがわかるのだろうか。それとも、色の視えない相手に、身をゆだねることになるのだろうか。

 どちらとも決めかねたまま、わたくしはその夜、なかなか寝つけなかった。窓の隙間から入り込む風が、遠い北の匂いを運んでくるような気がして。


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