第三話 濁った善意
翌朝、わたくしは応接間に呼ばれた。
卓には湯気の立つ茶が三つ、きちんと並べられていた。義母は昨夜とはうって変わって穏やかな面持ちで、向かいの椅子を勧める。かたわらには、ミレイユも殊勝な顔で腰かけていた。
「アリシア。昨夜はきつく言いすぎたわ」義母が、茶器に指を添える。「あなたのこれからを、母として案じているだけなの。わかってちょうだい」
その言葉に合わせて、義母の体にやわらかな若草が灯りかけ、すぐに濁った。労りの色を装おうとして、装いきれない。底に沈んでいるのは、鈍色の打算だ。
わたくしは、両手を膝の上で重ねた。
「ご配慮、痛み入ります」
「実はね、良い縁談があるのよ」義母が、菓子を勧めるような声で言った。「東の辺境に、ホーグ子爵という方がいらしてね。齢は少し離れているけれど、領地も豊かで、あなたのような娘を望んでいらっしゃるの。破棄された身では、これ以上の話はないでしょう」
ホーグ子爵。名前だけは聞いたことがある。三人の妻を相次いで亡くし、今また若い花嫁を探しているという、あの。
「まあ、素敵ね、お姉様」ミレイユが手を打った。その胸に、抑えきれない紅の欲がちらつく。姉が遠くへ厄介払いされるのが、よほど嬉しいのだろう。「東の辺境なら、王都の噂もお姉様の耳には届かないもの。かえって心穏やかに暮らせるわ」
王都の噂も届かない。つまり、破棄された姉を人目の届かぬ場所へ捨てたい。義母とミレイユの本音が、色になって卓の上に散らばっている。
わたくしは茶を一口含んだ。渋みの奥に、かすかな土の匂いがした。安い茶葉だ。客に出す上等のものではない。
「ありがたいお話ですわ」わたくしは静かに切り出した。「けれど、ひとつだけ、確かめさせてくださいませ」
義母の眉が、わずかに動いた。「なにかしら」
「ホーグ子爵は、持参金として、レイフェルトの東の葡萄畑をお望みだと伺いました。昨夜、書斎の父に届いた書状に、そう記されておりましたわ」
義母の指が、茶器の縁で止まった。
かまをかけた。書状など、見ていない。けれど、これほど急く縁談には、必ず裏の取り引きがある。義母が黙り込んだのが、答えだった。
「あの葡萄畑は、亡き母の実家から、わたくしに遺された地でございます」わたくしは目を伏せたまま続けた。「わたくしを嫁がせて、ついでにあの畑まで子爵家へ。それが、この良縁の中身なのですね」
「なにを……言いがかりを」義母の声が、上ずった。
「まあ、お姉様ったら」ミレイユが割って入る。「せっかくお母様が骨を折ってくださったのに、そんな穿った言い方をなさるなんて。畑の一枚くらい、幸せな嫁ぎ先のためなら、安いものでしょう?」
言葉の端に、隠しきれない苛立ちの紅が滲んだ。畑を惜しむのはこちらではなく、そちらではないか。喉まで出かかった言葉を、わたくしは呑み込む。感情をぶつけたところで、色は変わらない。事実だけを、静かに置けばいい。
「幸せな嫁ぎ先、でございますか」わたくしは茶器を卓に戻した。磁器が触れる、澄んだ音がひとつ。「ホーグ子爵のもとで亡くなられた三人の奥方様も、嫁がれる前には、そう言われたのでしょうね」
ミレイユの頬が、こわばった。
「言いがかりでしたら、書状を父に確かめればよろしいこと」わたくしは続けた。「父の署名がまだであれば、話は白紙にできますもの。畑のことも、子爵のことも、すべて」
義母の体で、濁りが黒へ傾いた。図星を突かれた者の色だ。ミレイユが、助けを求めるように義母を見る。けれど義母は、もう笑みを取り繕えなかった。
「……お前は、昔から可愛げのない子だこと」
吐き捨てて、義母は席を立った。菓子には手もつけず、衣擦れの音を残して部屋を出ていく。ミレイユが慌ててその後を追った。扉が閉まると、応接間には、冷めていく茶の匂いだけが残った。
わたくしは、ふっと肩の力を抜いた。指先が、まだ少し冷たい。
勝ったわけではない。ひとつの厄介払いを、はねのけただけだ。畑は守った。けれど、義母がわたくしを追い出したがっていることに、変わりはない。次はもっと巧妙な手で来るだろう。
私室に戻ると、ネルが待っていた。事の次第を話すと、彼女は胸をなでおろし、それからすぐに眉を曇らせた。
「よくぞ言い返してくださいました。けど、お嬢様。このお屋敷にいる限り、同じことの繰り返しですよ」
「ええ、わかっているわ」
わたくしは窓辺に立った。庭の楓が、朝の光に赤く色づいている。この家を出たい。けれど、破棄された娘に、行くあてなどありはしない。義母の差し出す縁談に頼らず、この家の外から手を差し伸べてくれる者など、いるはずもなかった。
「どこか、遠くへ行けたらいいのに」ネルが、独りごとのように呟いた。「誰も、お嬢様の値踏みをしない場所へ」
値踏みをしない場所。そんな土地が、この世にあるのだろうか。人がいれば、そこには必ず、金と紅と鈍色が飛び交っている。わたくしはそれを、いやというほど視てきた。宴の広間でも、この屋敷でも、どこを見渡しても、灯りは偽りにまみれていた。
「ねえ、ネル」わたくしは窓に映る自分の顔を見た。「わたくし、ときどき思うの。この目さえなければ、わたくしはもっと楽に生きられたのかしら、と」
偽りを視ずに済めば。無色の胸に、愛されているのだと信じ込むこともできたかもしれない。それはそれで、ひとつの幸せだったのではないか。
「あたしは、そうは思いませんよ」ネルが、櫛を握ったまま言った。「お嬢様のその目は、いつかきっと、お嬢様ご自身を助けます。亡くなった奥様も、そうお考えだったから、隠せと仰ったんじゃありませんか」
母が。わたくしは振り返って、ネルを見た。彼女の胸に灯る青が、まっすぐこちらを向いている。けれど、その青が、わたくしへ向けられたものなのかどうかは、やはり視えない。ネルの労りすら、わたくしには確かめる術がなかった。
楓の葉が一枚、風に散った。
そのとき、階下で来客を告げる鐘が鳴った。誰かが、レイフェルト伯爵家を訪ねてきたらしい。こんな朝早くに、と訝しむ間もなく、取り次ぎの女中が、青ざめた顔で私室の扉を叩いた。
「お、お嬢様。旦那様が、至急、書斎へと」
女中の声は、なぜか震えていた。その体に灯る色は、戸惑いと、かすかな畏れ。
いったい、誰が来たというのだろう。わたくしは、まだ知らなかった。




