第二話 隠しておきなさい
屋敷の玄関広間には、灯りがひとつだけ点っていた。
その下で、義母が待っていた。宴の知らせは、わたくしより早く馬を駆って届いていたらしい。夜着の上に肩掛けを羽織った義母は、わたくしの姿を認めるなり、手にした扇を石床に叩きつけた。乾いた音が、高い天井にはね返る。
「よくも、よくもわたくしたちに恥をかかせてくれたわね」
声は低く、けれど刃のように鋭かった。「公爵家との縁談を、あなたはどう心得ていたの。レイフェルトの名を、どれだけの者が羨んでいたと思うの」
「申し訳ございません」
わたくしは頭を下げた。弁明する言葉は、もとより持っていない。ユリウス様の心が最初から無色だったなどと言えば、この目のことを明かすことになる。母の遺言が、喉の奥で錠をかける。
「謝って済む話ですか。破棄されたのはあなたの落ち度でしょう。愛想を尽かされるような真似を、どこでしたのやら」
わたくしは、なにも言わなかった。愛想を尽かされたのではない。挿げ替えられたのだ。姉から妹へ、器だけを。けれどそれを口にしたところで、義母の望む筋書きが変わるわけではない。
「明日には、社交界じゅうに知れ渡るでしょうね」義母は指先で額を押さえた。「破棄された娘を抱えた家、と後ろ指をさされて。ミレイユの縁談にまで障りが出たら、あなた、どう責任を取るつもり」
その言い草に、思わず口の端が動きそうになった。ミレイユの縁談。妹が横取りした、まさにその縁談のことを言っているのだ。けれどわたくしは、瞼を伏せてやり過ごした。
義母の背後の階段から、寝間着のミレイユが顔をのぞかせた。宴からもう戻っていたのか。まだ夜半だというのに、頬には昼のような血の気がある。こちらを見おろす彼女の胸に、勝ち誇る紅が、ちらりと灯って消えた。
「お姉様、大丈夫……?」
言葉だけは、案じるふうを装って。わたくしは妹の色を、あえて視ないことにした。
父は、姿を見せなかった。書斎の扉の下から細く灯りが漏れているのに、出てこない。事なかれの人だ。娘が公爵家に嫁ぐと聞けば喜び、破棄されたと聞けば、扉の内に籠もる。それが父という人だった。
「明日、改めて話し合います」義母が、扇を拾い上げた。「あなたの身の振り方をね。もうこの家に、あなたの居場所があると思わないことです」
背を向けて去っていく義母の体には、怒りの黒がまとわりついていた。けれど、わたくしへ向かう色は、やはり、なにも視えない。憎まれているのか、ただ厄介に思われているのか。それすら、わたくしにはわからない。
自分に向けられた想いだけは、視えないのだから。
私室に戻ると、暖炉の火は細く落ちていた。
ネルが手早く薪を足し、湯を運んでくる。炭のはぜる音と、立ちのぼる湯気の匂いに、こわばっていた背が少しだけゆるんだ。
「お嬢様、あんな言われようをして」ネルが、湯を張った盥を床に置いた。「あたしゃ、腹が立って仕方ありませんよ」
その体に、澄んだ青が灯っている。わたくしのために本気で怒ってくれる、数少ない色。
「ありがとう、ネル」わたくしは冷えた足を湯に沈めた。じんと、指先まで熱が戻ってくる。「でも、義母様の仰ることは正しいの。破棄された娘の居場所なんて、この家のどこにもないもの」
「そんな……」
「いいのよ。もともと、なかったのだから」
言ってから、少し笑ってしまった。強がりではなく、本当にそう思っていた。この家でわたくしへ向かう金の灯りを、一度も視たことがない。もっとも、それがこの目のせいなのか、本当に誰にも想われていないからなのか、確かめる術はないけれど。
ネルが、わたくしの髪を梳き始めた。櫛の歯が通るたび、頭皮がじんわりとほどけていく。この手つきだけは、幼いころから変わらない。
「奥様は、旦那様がお迎えになる前からこの家にいらしたあたしより、お嬢様を厄介者扱いなさる」ネルの声が、櫛の音に紛れる。「亡くなった奥様が、生きていらしたらねえ」
母。
瞼の裏に、痩せた手が浮かんだ。病がその身を削りきる前、母はよくこうしてわたくしの髪を撫でた。熱い指先で、繰り返し、繰り返し。
『いいですか、アリシア』
最後の冬、母は掠れた声でわたくしを枕元に呼んだ。窓の外では雪が降っていて、部屋には薬湯の苦い匂いが満ちていた。
『あなたのその目は、隠していなさい。誰にも、父上にも、決して明かしてはなりません』
『どうして?』と、幼いわたくしは尋ねた。人の心が視えるのは、悪いことなの、と。
母は答えなかった。ただ、わたくしの手を痛いほど握って、こう言った。
『いつか、あなたを本当に守ってくれる人のところへ行きなさい。そのときが来れば、きっとわかるから』
守ってくれる人。母は、それが誰なのか教えてはくれなかった。理由も、この力の名すらも。問い返そうとした翌朝、母の手は冷たくなっていた。
あれから八年。わたくしはまだ、母の言葉の意味を測りかねている。守ってくれる人など、この世のどこにもいないように思えた。人の色が視えれば視えるほど、本物の想いというものが、いかに稀かを知ってしまうから。
それに、母はなぜ、この目を隠せと言ったのだろう。ただ気味悪がられるからだと、幼いころは思っていた。けれど義母に叱責されながら、ふと思う。もし、人の心を視る力があると知れたら、人は気味悪がるだけで済むだろうか。宮廷には、他人の本心を知りたがる者がいくらでもいる。忠誠の真偽を、恋の裏を、裏切りの兆しを。母は、そういう者たちからわたくしを遠ざけようとしていたのではないか。
考えても、答えの出ないことだった。確かめる相手は、もういない。
「お嬢様?」
櫛の手が、止まっていた。ネルが、鏡越しにこちらをうかがっている。
「なんでもないの」わたくしは目もとを指でぬぐった。濡れてなどいないのに、そうしてしまった。「昔のことを、少し思い出しただけ」
窓の外で、風が雨戸を鳴らした。秋の夜は、日ごとに冷えていく。
この家に、わたくしの居場所はない。それは今夜はっきりした。けれど、では、どこへ行けばいいのか。
修道院か、あるいは名ばかりの後添いか。破棄された娘に残された道は、多くない。どこへやられようと、そこにも金の灯りは点らないのだろう。視える力を隠して、また誰かの本心を知らないふりをして、息をひそめて生きていく。八年間そうしてきたように、これからも。
「お嬢様。今夜はもうお休みなさいまし」ネルが櫛を置いた。「明日のことは、明日考えればよろしいんです」
わたくしは頷いて、寝台に身を横たえた。羽根布団の重みが、疲れた体に沈んでくる。
目を閉じると、瞼の裏に、あの無色のユリウス様の胸が浮かんだ。あんなにも空虚な人に、それでもわたくしは何年も、愛されているふりを続けてきたのだ。おかしなものだと思う。視える力を持ちながら、いちばん近くの偽りに、いちばん長く付き合ってきた。
寝つけぬまま、耳をすます。階下の一室から、義母とミレイユのひそめた声が、途切れ途切れに届いてきた。言葉までは聞き取れない。けれど、その相談の中身が、わたくしの身の振り方であることだけは、確かめるまでもなくわかった。
扉の隙間から忍び込む冷気に、わたくしは布団を引き寄せた。秋の夜は、日ごとに深くなっていく。




