第一話 無色の告白
シャンデリアの光が、磨かれた床に金の池を作っていた。
その中央で、ユリウス様がわたくしの名を呼んだ。
婚約披露の宴だった。王宮の大広間には百を超える貴族が集い、卓には銀の燭台と季節の果実が並ぶ。楽団の弦がやわらかく響き、給仕がワインを注いで回る。誰もが、公爵家の嫡子とレイフェルト伯爵家の娘の、めでたい門出を祝うために集まっていた。少なくとも、そういう名目で。
「アリシア・レイフェルト嬢」
二度、名を呼ばれて、わたくしは彼のほうへ向き直った。ユリウス様は杯を掲げたまま、よく通る声で続けた。
「今宵をもって、君との婚約を、解消させていただく」
弦の音が、ぷつりと途切れた。
どよめきが波のように広がっていく。扇の陰でささやき合う声、息を呑む音、椅子の脚が床を擦る鈍い音。百の視線がいっせいにこちらへ集まるのを、肌で感じた。香油と、こぼれたワインの甘い匂いが、やけに濃く鼻の奥に残る。
わたくしは背筋を伸ばしたまま、ユリウス様の胸のあたりを見た。
やはり、無色だった。
人が誰かへ想いを向けるとき、その体のまわりには色が灯る。深い愛なら金、労りなら若草、欲は紅。生まれつき、わたくしの目にはそれが視える。けれどユリウス様がわたくしへ向ける色は、婚約が調ったあの日から今日まで、ただの一度も灯らなかった。透きとおって、なにもない。言葉だけが立派で、心の伴わない、無色。
「突然のことに、驚かせてしまったね」
ユリウス様が杯を置き、痛ましげに眉を寄せてみせる。「だが、偽りの契りを続けることこそ、君への不誠実だと気づいたのだ。私は、君を大切に思っていればこそ」
周囲の令嬢たちが、うっとりと聞き入っている。なんて誠実な公子だろう、あんな地味な娘には過ぎた相手なのに。そんな声が、扇の裏から漏れてくる。
わたくしには、彼の言葉と、彼のまとう無の色との落差ばかりが見えた。悲しいとも思わなかった。ずっと前から知っていたことを、ようやく人前で言われただけだ。それでも指先が、少しだけ冷たくなる。
「けれど私は、真実の愛に、抗うことができなかった」
言葉に合わせて、ユリウス様が手を差し伸べる。その先へ、妹のミレイユが進み出た。
白い頬を上気させ、勝ち誇るでもなく、ただ愛らしく震えてみせて。伏せたまつげの下から、彼女はちらりとこちらをうかがう。わたくしはミレイユへ向けられたユリウス様の色を、そっと確かめた。
金では、なかった。愛の金ではない。濁った、鈍色の打算。手に入れて損のないものを見定める、あの重たい光だ。
(ああ、この人は、ミレイユのことも愛してなどいない)
喉の奥が、わずかに冷えた。妹の背後には、義母の満足げな笑みも見える。公爵家との縁は、切れたわけではない。姉から妹へ、器を挿げ替えただけ。この宴のすべてが、そのために整えられていたのだと、今さらのように腑に落ちた。
「アリシアお姉様」
ミレイユが、うるんだ目をこちらへ向けた。声は蜜のように甘く、けれど語尾にだけ、隠しきれない棘がある。
「ごめんなさい。わたし、こんなつもりじゃなかったの。お姉様のことは、ずっと尊敬していて……」
その言葉に合わせて、周囲の同情がさざめいた。かわいそうに、あの地味な姉。優しい妹にまで気を遣わせて。誰も、ミレイユの体にまとわりつく紅の欲を視てはいない。視えるのは、わたくしだけ。
わたくしは、スカートの脇をそっと握った。
「どうぞ、お気になさらないで」
自分でも意外なほど、静かな声が出た。
ざわめきが、止まる。
「ユリウス様。最後に、ひとつだけ申し上げてもよろしいでしょうか」
彼は勝者の余裕で、鷹揚に顎を引いた。「なんなりと。餞別の言葉くらい、いくらでも聞こう」
「あなたの、『大切に思っていた』は」
わたくしは一度、言葉を切った。周囲の耳が、こちらへ集まるのがわかる。
「無色でございました。灯りのひとつも、ありませんでしたわ。ええ、最初から、存じておりました」
ユリウス様の眉が、かすかに動いた。意味を測りかねる顔だ。周囲の令嬢たちも、扇の手を止めて顔を見合わせている。誰にも通じない言葉だった。通じなくていい。これはわたくしと、わたくしの目だけの、ささやかな決着だ。
「奇妙なことを言う娘だ」ユリウス様が、取り繕うように笑う。「未練かな。だとしたら、なおのこと別れて正解だった」
「ええ。まことに、正解でございましょう」
深く礼をして、踵を返した。金の池を踏んで、大広間の扉へ向かう。背中に無数の視線が刺さったけれど、振り返らなかった。振り返るものが、そこにはなにもなかったから。
人垣を分けて歩くあいだ、わたくしはつい、いつもの癖で周囲を視てしまった。着飾った令嬢たちの胸には、羨望の濁りと、他人の不幸を肴にする紅がちらつく。隣の令息へしなだれかかる娘の色は、恋ではなく値踏みの鈍色。祝いの宴だというのに、金の灯りはどこにも見当たらなかった。この広間で、わたくしを憐れむ言葉を口にした者は数えきれないほどいて、そのうち本当に憐れんでいた者は、ひとりもいなかった。
いっそ、清々しいくらいだった。
回廊の外は、夜気が冷たかった。
石の柱のあいだを、秋のはじめの風が抜けていく。宴の熱がまだ耳の奥に残っていて、閉じた扉の向こうで再び楽団が弾き始めた音が、水の底の音のように遠くくぐもって届いた。何ごともなかったかのように、宴は続いていく。
柱に手をついて、わたくしはようやく息を吐いた。冷えた石の感触が、手のひらに移ってくる。
視えてしまうのだ、わたくしには。人の想いの、本当の色が。だから誰が偽り、誰が本物かは、いつだって一目でわかってしまう。便利な力だと、人は言うかもしれない。
それでも、どれだけ目を凝らしても、生まれてから一度も視えたことのない色が、ひとつだけあった。
わたくし自身へ向けられた、想いの色だ。
父でも、義母でも、誰でもいい。この人はわたくしをどう思っているのだろうと確かめようとするたび、そこには灯りがない。他人の胸には金も紅もあふれているのに、自分へ向かうものだけが、ぽっかりと抜け落ちている。
だからわたくしは、知らないまま生きてきた。この世で誰かに、本当に愛されたことがあるのかどうかを。
遠い記憶のなかで、痩せた手がわたくしの髪を撫でていた。母だ。病の床で、母は熱い指先で繰り返しわたくしに言い聞かせた。
『この目のことは、隠していなさい。決して、人に明かしてはなりません』
なぜと問い返す前に、母は逝ってしまった。理由も、力の名も、なにひとつ残さずに。以来わたくしは、この目を胸の底に沈めて、ただの地味な令嬢として振る舞ってきた。婚約者に愛されているふりをして。家族に厭われていないふりをして。
「お嬢様」
控えていた侍女のネルが、そっと肩掛けを差し出した。その体のまわりに、澄んだ青と若草がやわらかく灯っている。信頼と、労り。わたくしのよく知っている、数えるほどしかない本物の色。
「……戻りましょう」わたくしは肩掛けを受け取った。羊毛の匂いが、こわばった肩を少しだけほどく。「もう、ここには用がないわ」
「はい」
ネルは、何も聞かなかった。それが、ありがたかった。
馬車の窓から、灯りに満ちた王宮が遠ざかっていく。あの華やかな広間で、今ごろ誰もがミレイユを取り囲んでいるのだろう。婚約者を得た妹と、それを失った姉。物語はもう、そういうことになっている。
けれど、と窓に額を寄せて思う。あの広間で本当に色を灯していた者が、いったい何人いただろう。
車輪が石畳を刻む音に、これから帰る屋敷のことを思った。玄関で待っているのは、労りの言葉ではないだろう。婚約を破棄された娘など、レイフェルト伯爵家にとっては、体面を汚した厄介者でしかない。義母の冷たい声と、父の逸らされた目。今夜、あの家のどこにも、わたくしへ向かう金の灯りは点らない。
もっとも、それはいつものことだ。灯りが視えないのは、今夜に限った話ではないのだから。
膝の上で、指を組んだ。ネルの肩掛けから立つ羊毛の匂いだけが、かろうじて温かい。
馬車が夜の街を進む。振り返らないと決めた背に、まだ知らない夜が、静かに近づいていた。




