第二十七話 受け取るということ
その夜、王都の宿は、しんと静まりかえっていた。
階下の物音も絶え、窓の外を、遠い夜警の足音が、ときおり通り過ぎるだけ。わたくしは、寝台に座ったまま、東の塔で写し取った、あの一節を、指先で、なぞっていた。
――巫女が、己に向けられた誠を知るのは、視ることによってではない。ただ、受け取ることによってのみ。
幾度読み返しても、その意味は、靄の向こうにあった。けれど今夜は、なぜか、その靄が、少しずつ晴れていく気がした。
色視とは、何を視る力なのか。わたくしは、生まれてからずっと、それを、水を飲むのと同じくらい当たり前のこととして、使ってきた。改めて、問い直してみる。
わたくしが視るのは、人が、誰かへ向けて放つ、想いの光だ。あの夜会で、ユリウス様がミレイユへ向けた鈍色。ネルが誰かを案じるときの、若草。ガロンの、懐かしむような色。それらはすべて、その人の胸から、外へと向かって、放たれている。わたくしは、その放たれた光を、傍らから、覗き見ているにすぎない。
子供のころ、わたくしは、よく、ささやかな贈り物をした。年老いた庭師に、厨房の下女に。そうすれば、その人の胸に、わたくしへ向けた色が、灯るのではないかと、淡く期待して。けれど、視えるのは、いつも、その人が別の誰かへ向ける色ばかりだった。わたくしへ真っすぐ向いた光だけが、どうしても、視界に入らなかった。あのころは、その意味が、わからなかった。ただ、自分だけが、色のない世界に取り残されているようで、心細かった。
では、わたくし自身に、真っすぐ向けられた光は、どうなるのか。
それは、覗き見る対象では、ないのだ。
わたくしへ向かって放たれた想いは、わたくしの胸へと、届く。届いて、そこで、初めて意味を持つ。横から眺めるものではなく、正面から、受け止めるもの。だから、視えない。視る力では、決して、捉えられない。
生まれてから一度も視えなかったのは、わたくしが愛されなかったからではない。自分に向かう光だけは、視るのではなく、受け取るものだったから。
息が、震えた。
愛は、視るものでは、なかったのだ。受け取り、信じるもの。女神マレアの遺した言葉が、ようやく、胸の奥まで、届いた。
思えば、幼いころのわたくしは、いつも、人の顔色をうかがっていた。誰かの胸に、わたくしへ向けた金色が灯りはしないかと、目を凝らして。けれど、それは、ただの一度も、視えなかった。だから、わたくしは、幼心に、結論づけてしまった。わたくしは、誰にも愛されていないのだ、と。
母が、病の床で、痩せた手を伸ばしてきたときも。
わたくしは、母の胸を、必死に視ようとした。母だけは、わたくしを愛してくれているはずだと、すがるように。けれど、そこにも、何の色も、視えなかった。この人でさえ、わたくしを愛してはいないのか。そう思って、幼いわたくしは、声を殺して、泣いた。母の温もりを、そばで感じていながら。
違った。
母は、わたくしを、愛していた。愛していたからこそ、この力を隠せと言い、歪める者から守ろうとし、いつか本当に守ってくれる人のもとへ、と祈って逝った。あの遺言は、諦めではなく、ありったけの、愛だったのだ。ただ、わたくしには、それが、視えなかった。視えないだけで、母の愛は、たしかに、あの手のぬくもりの中に、在ったのに。
頬を、熱いものが、伝った。ひとつ、またひとつと、膝の上へ、落ちていく。長いあいだ、胸の底で凍りついていた、孤独という名の氷が、音もなく、溶けていくのを感じた。
わたくしは、誰にも愛されない娘では、なかった。ただ、愛の受け取り方を、知らなかっただけの、娘だったのだ。
目を閉じると、たくさんの光景が、瞼の裏を、流れていった。
生家で誰もがわたくしを厭うたとき、部屋に残って、冷えた手を握ってくれた、ネル。この十年、暇を出されてもおかしくないのに、ずっと傍を離れなかった。初対面のはずのわたくしに、よく似ておいでだ、と目を潤ませた、ガロン。濡れ衣を晴らしてやったあと、雛のように後をついて回る、リタ。
そして、あの人。
凍える峠で、何も言わず、外套を肩にかけた夜。野盗の刃から庇って、左腕に傷を負った、あの一瞬。雪をかぶったまま、門の前で、わたくしを待っていた、あの姿。行かせない、と、不器用に言葉を重ねた、あの声。
あれは、ぜんぶ、視えなかっただけで、ずっと、そこに在った。わたくしの胸へと、真っすぐに、届いていた。ただ、わたくしが、それを、受け取ろうとしなかっただけで。
涙が引いたあと、心には、静かな凪が、残っていた。
ならば、と思う。あの人の、セオドール様の視えない想いも、同じことだ。色で確かめられなくても、その行いのひとつひとつから、受け取ればいい。視えないから信じられないのではない。視えないものを、行いから信じることこそが、きっと、愛なのだ。
そこまで思って、わたくしは、ふと、息を呑んだ。
もし、そうだとしたら。
護符を外してもなお、あの人の色だけが、いまも視えないのは。もしかしたら、あの人の想いが、ずっと、わたくしへと、真っすぐに、向けられているから、なのではないか。放たれた光ではなく、わたくしの胸へ届く光だから、視る力では、捉えられない。
その考えが、胸の奥で、小さな灯火のように、ともった。まだ、確かめる術はない。ただの願いかもしれない。それでも、その灯りは、消えなかった。
いつだったか、あの人は、ぽつりと漏らした。初めは、ただの務めだったのだ、と。けれど、金の色を美しいと言ったわたくしに、務めではない何かが、生まれたのだ、と。あのとき、わたくしは、その言葉の色を、視ることができなかった。だから、真に受けるのが、怖かった。すがって、また裏切られるのが。けれど、今なら。あの、たどたどしい打ち明けを、そのまま、受け取れる気がした。視えなくても、あれは、たしかに、本物だったのだと。
わたくしは、窓辺に立ち、暗い王都の空を見上げた。冷えた硝子に、額を寄せる。星が、凍てた夜気の底で、白く瞬いていた。
明日、あの大広間で、宰相ヴォスラーと相対する。真実を盾に、この力を、二度と道具にさせぬために。そして、すべてが終わったら。今度こそ、あの人の想いを、視るのではなく、受け取ろう。視えなくても、信じよう。
もう、怖くはなかった。




