第二十五話 誠の女神
その夜が明けても、答えは出なかった。
軍勢が迫るなか、セオドール様は、城の守りを固めるべく、家臣たちと策を巡らせていた。力ずくで抗えば、領地が滅ぶ。おとなしく従えば、わたくしを失う。どちらの道も、行き止まりだった。
わたくしにできることなど、何もない。そう思って立ち尽くすわたくしを、ガロンが、静かに呼び止めた。
「レイフェルト様。殿が手立てを探しておいでのあいだ、あなた様に、お見せしておきたいものが、ございます」
老家令に導かれ、わたくしは、あの東の塔へ上った。巫女を弔い、記憶するための、秘めた部屋。石壁は、指が痺れるほど冷たく、古い織物と、蝋の匂いが、しんと満ちていた。壁には、護符を提げた、わたくしによく似た女の肖像。その下で、ガロンは、ひときわ古い一巻の巻物を、恭しく解いた。
「宰相は、あなた様の力を、忠誠を暴く道具として、欲しております。ですが、あの者たちは、この力の、本当の意味を、知らぬのです。三百年、我らヴァレンシュタインが、命に代えて守り継いだ、真実を」
黄ばんだ羊皮紙の上を、ガロンの節くれだった指が、ゆっくりと辿っていく。
「遥かな昔。世に偽りが満ち、人が人の言葉を、信じられなくなった時代がございました。誰もが疑い、誰もが欺き、まことの心は、どこにも見えなくなった。それを哀れんだ誠の女神マレアが、たったひとりの娘に、授けたのです。人の心の、まことを映す、目を」
わたくしは、息を詰めて、聞いていた。
「けれど、その目は」ガロンの声が、深くなる。「人を裁くためのものでは、ございませんでした。忠誠を暴くためでも、断罪するためでもない。偽りに傷つき、本物の愛を見失った者を、まことの温もりのもとへ、導くための、力だったのです。巫女は、孤独な者に告げました。案じなさるな、これは本物ですよ、と。そうして、人と人とを、正しく、結び直した」
導くための、力。
その言葉が、胸の奥に、小さな灯りを点した。わたくしがずっと、呪いだと思ってきたこの目は、もともとは、人を、幸いへ導くための、ものだった。
「ですが、王家が、この力に目をつけた」ガロンの指が、羊皮紙の、焦げたような染みの上で、止まった。「臣下の忠誠を測り、政敵の胸のうちを暴く、道具として。誠を導く加護を、人を疑い、支配するための力へと、歪めてしまわれた。……女神は、深く、お嘆きになった」
その先は、わたくしも、知っていた。
巫女は「魔女」と呼ばれ、火にかけられた。加護は呪いに書き換えられ、生き延びた末裔は、名を捨て、力を隠して、細々と血を繋いだ。わたくしの、母のように。
「女神マレアは、去り際に、こう遺されたと、記録は伝えます」ガロンは、巻物の末尾を、指した。「この目は、誠を導くためにある。疑うために使う者の前から、我は姿を消そう、と」
部屋が、静まりかえった。蝋燭の炎が、ゆらり、と揺れる。
わたくしは、肖像の女を、見上げた。護符を提げ、淡い髪の、わたくしに似た、三百年前の巫女。この人も、きっと、同じ言葉を、聞いたのだ。
疎まれ、恐れられ、隠して生きてきた、この力。呪わしいと、幾度も、この目を、憎んだ。誰にも本当に愛されないのは、この目のせいだと。けれど、違った。
この力は、呪いでは、なかった。偽りに満ちた世で、本物を見出し、守るための、祝福だったのだ。
目の奥が、熱くなった。長いあいだ、胸の底で凍りついていた、何かが、ゆっくりと、溶けていく。
母が「隠しなさい」と言ったのも、力を蔑んだからでは、なかったのだ。歪めようとする者から、娘を、守るため。ひいては、いつか、この力を、正しく使える場所へ、送り出すため。いつか、あなたを本当に守ってくれる人のところへ行きなさい。母のあの言葉は、諦めでも、追放でもなかった。祈りだったのだ。
わたくしは、母の形見の耳飾りを、そっと握った。もう、恥じるのは、やめよう。この目を憎むのは、今日で、終わりにしよう。
思えば、この辺境の人々は、わたくしのこの目を、恐れなかった。濡れ衣を晴らしてやったリタは、あれから雛のように懐いた。ガロンは、家の秘めた真実を、わたくしに託した。セオドール様は、金の色を美しいと言ったわたくしを、そのまま、迎え入れた。生家では呪いでしかなかったものが、この地では、ただ、わたくしの一部だった。変わったのは、力ではない。それを迎える、人のほうだったのだ。
けれど、ひとつだけ。どうしても、腑に落ちないことが、残っていた。
「ガロン」わたくしは、顔を上げた。「もし、この力が、人を本物へ導くためのものなら。なぜ、わたくしは、自分に向けられた想いの色だけ、視えないのでしょう。生まれてから、ただの一度も。導くための力が、なぜ、わたくし自身のことだけは、教えてくれないの」
それは、幼いころから、わたくしを苛んできた、いちばん深い問いだった。人の愛は視えるのに、自分に注がれる愛だけは、視えない。だから、誰にも愛されていないのだと、そう思って、生きてきた。
ガロンは、しばらく、黙っていた。それから、巻物の、余白に近い一節を、静かに指した。
「その一点だけは、この記録にも、はっきりとは、記されておりません。ただ、こう、あるのみ」老家令は、低く、読み上げた。「――巫女が、己に向けられた誠を知るのは、視ることによってでは、ない。ただ、受け取ることによってのみ、と」
受け取る。
その言葉が、胸の奥で、こだました。視るのではなく、受け取る。どういう、ことだろう。意味は、掴めない。けれど、母の遺した言葉が、ふいに、よみがえった。そのときが来れば、わかる、と。
その「とき」が、近づいている気がした。まだ、輪郭は、見えないけれど。
わたくしは、東の塔の窓から、雪の曠野を見はるかした。あの地平の彼方から、宰相の軍勢が、迫っている。もう、隠れて震えているだけの、わたくしでは、ない。呪いではなく、祝福を受けた者として。女神マレアの、末裔として。あの男の前に、立とう。
ただ、その決意の底に、ひとつだけ、解けない糸が、残っていた。護符を外してもなお、色の視えなかった、あの人。セオドール様の胸だけが、なぜ、いまも閉ざされたままなのか。「受け取ることによってのみ」という女神の言葉と、その謎とが、どこかで、細く、繋がっている。そんな予感だけが、まだ答えを持たぬまま、静かに、胸を叩いていた。




