第二十四話 行かせない
夜半、城は寝静まっていた。
わたくしは、燭台の灯りも点けず、闇の中で、旅の支度をととのえた。持ち出すものは、わずかでいい。母の形見の、小さな銀の耳飾り。数日分の路銀。それだけを、古い外套の内に、忍ばせる。
宰相のもとへ、自分から行く。そう、決めていた。
わたくしが、みずから王都へ下れば、辺境伯家が王命に背いたことには、ならない。セオドール様は、叛逆の汚名を負わずにすむ。領民は、戦火を免れる。宰相が欲しいのは、わたくしの、この目だけ。ならば、この身ひとつ、差し出せばいい。
怖くない、と言えば、嘘になる。あの慇懃な宰相のもとで、わたくしを待つのが、どんな日々かは、わからない。けれど、と思う。誰にも、本当に愛されたことのない身だ。わたくしがひとり消えたところで、心から悲しむ者など、いはしない。ならば、この命を、意味のあることに使えるのなら、それで、いい。
そう、自分に言い聞かせた。けれど、耳飾りを握る指先は、思いのほか、冷たく強張っていた。
母の形見だ。いつか、本当にあなたを守ってくれる人のところへ行きなさい、と遺して逝った、母。その人のもとへ辿り着くより先に、わたくしは今、こうして独りで、闇の中へ発とうとしている。皮肉なものだ、と、乾いた笑みが、口の端に浮かんだ。
扉の陰から、衣擦れの音がした。
「お嬢様」
ネルだった。寝間着の上に、肩掛けを羽織っている。その目は、とうに、わたくしの企てを見抜いていた。
「行かせません」声は、震えていた。「あたしを置いて、独りでだなんて。そんなの、あたしが、許しません」
「ネル」
「悲しむ者がいないなんて、二度と、言わないでください」ネルは、詰め寄った。頬を、涙が伝っている。「ここに、いるじゃありませんか。あたしが」
わたくしは、言葉に詰まった。
ネルの胸には、今、何色が灯っているのだろう。わからない。ネルの想いも、わたくしに向けられたものである以上、この目には、映らない。生まれてこのかた、ただの一度も。
けれど、この十年、この侍女は、ずっと、傍にいてくれた。生家の誰もがわたくしを厭うたときも、ネルだけは、去らなかった。色は、視えない。それでも、その年月が、言葉よりも雄弁に、何かを、告げていた。
わたくしは、ネルの手を、そっと握った。冷えた、けれど、たしかに温かい手だった。
「ごめんなさい」
その手を離した隙に、わたくしは、部屋を出た。背後で、ネルが、わたくしの名を呼ぶ。その声を振り切って、暗い回廊を、足早に抜けた。
城の裏門へ続く中庭は、一面の雪だった。踏みしめるたび、きゅ、きゅ、と、乾いた音が鳴る。凍てた夜気が、喉の奥まで、突き刺さってくる。門は、もう、すぐそこだった。
その門の前に、人影が、立っていた。
セオドール様だった。
外套も羽織らず、白い息を、荒く吐いている。ここまで、駆けてきたのだ。ネルが、報せたのだろう。その髪にも、肩にも、雪が積もっていた。どれほどのあいだ、ここで、待っていたのか。
「……行くな」
低い、けれど、切迫した声だった。
「レイフェルト嬢を、渡さないと、私は決めた」いつも短いその人が、言葉を重ねた。「領地のためだと、そう自分に言い聞かせて、君は独りで行くつもりだろう。だが、違う。君ひとりを差し出して守られる領地に、なんの意味がある。領民とて、そんな守り方を、望みはしない。私が、守りたいのは――そんなものでは、ない」
雪が、その肩を、白く覆っていく。払おうともせず、この人は、動かなかった。
珍しく、多弁だった。言葉を惜しむこの人が、こんなふうに言葉を尽くすのを、わたくしは、初めて見た。感情が高ぶるほど、口数が減るはずの、この人が。それが、なにより雄弁な、本気の証だということも、わかっていた。
わかって、いたからこそ。
わたくしの目からは、涙が、こぼれた。
「ずるいわ、セオドール様」
喉の奥が、震えた。
「あなたが、そう言ってくださっても。その言葉が、本当なのかどうか。わたくしには、視えないのです。あなたのお心の色だけ、どうしても、視えない。あなたが本当は、どんな想いで、そこに立っていらっしゃるのか。それを、たしかめる術が、わたくしには、ないのです」
視えれば、よかった。ほんの一目でも、この人の胸の色が視えたなら。深い愛の金なのか、それとも、後見人としての義務の青なのか。それがわかれば、わたくしは、こんなにも迷わずに、すむのに。
視えないから、信じられない。愛されたことのないわたくしには、差し出される温もりの、本物かどうかが、わからない。それが、この目を持って生まれた、わたくしの、いちばん深い傷だった。
人の偽りは、あれほど、たやすく視えるのに。いちばん知りたい、この人の真実だけが、いつも、閉ざされている。女神さまは、なんて意地の悪い力を、わたくしに授けたのだろう。
セオドール様は、雪を踏んで、一歩、近づいた。そして、わたくしの腕を、掴んだ。強く、けれど、痛くはない、大きな手だった。
「視えなくて、いい」
まっすぐな声だった。
「信じてくれ、とも言わない。私の心が本物だと、証を立てることも、できない。……だが」
その手に、力がこもる。
「ただ、行かせない。それだけは、色が視えようと視えまいと、変わらぬ、私の答えだ」
雪が、降っていた。しんしんと、ふたりの上に。
その腕の強さだけが、確かだった。視えない胸の代わりに、掴まれた腕の熱だけが、嘘のない、たったひとつの真実として、そこにあった。
「わからないのです」わたくしは、うつむいた。「視えないものを、どうして、信じられるの。一度信じて、また裏切られたら。わたくしは、今度こそ、立ち直れない」
言葉が、続かなかった。頬を伝った涙が、顎の先で、凍えるように冷たかった。
セオドール様は、何も言わなかった。ただ、掴んだ腕を、放さなかった。その沈黙が、けれど、どんな言葉よりも重く、そして、温かかった。証は立てられぬと、この人は言った。それでも、放さぬと言った。視えない胸の奥で、この人は今、いったい何を思っているのだろう。知りたい、と、初めて、痛いほど、そう思った。
そのとき、回廊の奥から、松明の灯りが、揺れながら近づいてきた。ガロンだった。雪を蹴散らし、一枚の急報を握りしめている。
「殿! 国境の砦より、報せにございます」老家令の声は、うわずっていた。「王家の軍勢が、もう、動き始めたと。二日の期限すら、待つ気は、ないようで」
時は、もう、残されていなかった。
わたくしは、掴まれた腕の熱と、迫りくる時の冷たさの、あいだで、立ち尽くした。視えない愛を、視えないまま、信じられるのか。その問いに答えを出すための猶予さえ、もう、どこにも、残されてはいなかった。




