第二十三話 王命という檻
その報せの意味を、わたくしはすぐには呑み込めなかった。
雪解けまで、と宰相は期限を切ったはずだった。その猶予を、みずから破って動いたというのなら、もう、こちらの返答を待つ気などないということだ。セオドール様の言葉どおり、三日と経たぬうちに、その使者は城へ現れた。
王家の紋を掲げた一団が、雪を蹴立てて、辺境の城門をくぐった。先頭に立つのは、レンダール卿と名乗る、痩せた中年の男だった。宰相の懐刀と噂される人物だという。
大広間で、その男は、うやうやしく一巻の書状を捧げ持った。金泥で縁取られた、王家の勅書だ。
「王命である」レンダール卿は、朗々と読み上げた。「誠を映す加護を持つ娘、アリシア・レイフェルトを、王国の安寧のため、すみやかに王都へ献上せよ。これは、陛下の御意にあらせられる」
陛下の、御意。
その言葉の重さに、広間の空気が、しんと凍りついた。宰相の名であれば、辺境伯家にも、はねつける道はある。けれど、王命となれば、話は違う。これを拒むことは、すなわち、王家そのものへの叛意とみなされる。
わたくしは、レンダール卿の胸元を、そっと視た。
そこに灯っていたのは、忠義の青でも、大義の色でもなかった。ただ、濁った鈍色。おのれの立身と、宰相の覚えめでたきことだけを勘定する、打算の色だった。この人にとって、王命も、わたくしの身も、出世の駒にすぎない。
陛下の御意、とこの男は言った。けれど、その胸の色は、陛下のことなど、ひとかけらも思ってはいない。これは、王の意思の顔をした、宰相の私欲だ。わたくしには、それが、視えてしまう。
視えたところで、どうにもならないことも、わかっていた。色は、真偽を映す。けれど、この場を覆す証には、ならない。あなたの忠義は偽りですと、この目が告げても、それを、誰に、どう示せばいい。勅書の金泥の前では、わたくしの視る力など、無力だった。
「……その書状、確かに拝見した」セオドール様の声は、氷のように低かった。「だが、レイフェルト嬢は、我が家の後見の下にある。軽々に、差し出すわけにはいかぬ」
「ほう」レンダール卿の唇が、薄く吊り上がった。「辺境伯どのは、王命に背かれると?」
その一言が、罠だった。
背く、と口にすれば、それは叛逆の証言になる。この男は、そう言わせるために、ここへ来た。セオドール様が、わずかに奥歯を噛むのが、わたくしにはわかった。
この人は、追い詰められている。
辺境伯家は、武においては、王国有数だ。けれど、この地には、守るべき領民がいる。畑があり、家畜があり、冬を越すための蓄えがある。王家を敵に回せば、糧道を断たれ、兵を差し向けられる。そうなれば、真っ先に飢えるのは、城下で笑っていた、あの人々だ。盗みの濡れ衣を晴らしてやった、リタのような幼い娘たちだ。
剣で、わたくしを守ることはできる。けれど、剣では、この土地の冬を、守れない。
「二日、待とう」レンダール卿は、指を二本立てた。「それまでに、娘を引き渡されよ。さもなくば、辺境伯家は、王命を拒んだものとして、しかるべき沙汰を受けることになる。よもや、この雪深い地で、王家の軍勢を迎えたくは、あるまい?」
脅しを、微笑で包んだ物言いだった。宰相と、同じ口ぶり。この男もまた、あの人の色に、染まっている。
レンダール卿が去ったあと、大広間には、重い沈黙だけが残った。暖炉の薪が、ぱち、と爆ぜる。その音が、やけに大きく聞こえた。ガロンが、皺だらけの手を、固く握りしめている。
「殿」ガロンが、絞り出すように言った。「なにか、手立てを」
セオドール様は、すぐには答えなかった。卓の上に広げられた、辺境の絵図を、じっと見下ろしている。
「兵を挙げれば」低い声だった。「勝てぬ戦では、ない。この地の地形と冬を味方にすれば、王家の軍とて、容易には抜けぬ」
その言葉に、ガロンの顔が、わずかに明るむ。けれど、セオドール様は、静かに首を振った。
「だが、それは、叛逆だ。一度、王家に弓を引けば、辺境伯家は、賊軍の汚名を負う。糧道を断たれ、周辺の諸侯は、こぞって王命に従い、この地を攻める。……守るための戦が、領民を、飢えと戦火に沈める」
剣を取っても、取らなくても、この土地は損なわれる。そういう罠だった。
「では、陛下に、じかに嘆願を」ガロンが食い下がる。「王命が、宰相の私意によるものだと、訴え出れば」
「陛下の御前へ至る道は、ことごとく、宰相が握っている」セオドール様の声に、苦いものが混じった。「あの男を通さずに、王へ言葉を届ける術は、ない。四年前、私が学んだことだ」
四年前。この人が、王都で心を暴かれ、政略の駒にされかけたという、あの日々。あのとき覚えた無力を、この人は今、もう一度、味わっている。
「ならば、レイフェルト様を、どこかへ匿っては」
「宰相の諜報網が、どれほどのものか、貴様も知っていよう。この城を出た瞬間、行方は知れる。匿えば、匿った者まで、罪に問われる」
ひとつずつ、逃げ道が、塞がれていく。まるで、四方から、静かに壁が迫ってくるようだった。ガロンは、とうとう、言葉を失った。
セオドール様の横顔に、いつもの揺るぎなさは、なかった。初めて見る、追い詰められた者の、影だった。この人は、わたくしひとりを守るために、領地と、領民と、家の名を、天秤にかけさせられている。そんな重荷を、わたくしは、この誠実な人に、負わせてしまった。
その夜、わたくしは、眠れなかった。
窓辺に立ち、深く降り積もる雪を、ただ、見ていた。硝子越しの冷気が、爪の先まで、じわりと沁みてくる。
わたくしがこの城へ来てから、まだ、三月あまり。その短いあいだに、わたくしは、この土地に、何をもたらしただろう。宰相の目を、辺境へ引き寄せた。セオドール様を、叛逆の淵に立たせた。罪もない領民を、戦火の危険に、晒そうとしている。
母の声が、耳の奥で、よみがえった。
――この目は、隠しなさい。誰にも、明かしてはならぬ。
幼いころは、その言葉の意味が、わからなかった。ただ、疎まれ、恐れられる、呪わしい力だとばかり思っていた。けれど、今なら、わかる。母は、知っていたのだ。この力が、持つ者だけでなく、その周りの者まで、災いに巻き込むことを。だから、隠せと言った。誰にも、明かすなと。
わたくしは、その戒めを、破ってしまった。この城で、色のことを、セオドール様に、ガロンに、打ち明けた。信じてもらえるという、生まれて初めての温もりに、隠すことを、忘れていた。その報いが、これなのだ。
わたくしさえ、いなければ。
その考えが、胸の奥で、冷たく、灯った。
わたくしさえ、この地から消えれば。宰相は、矛を収める。辺境伯家は、王家に叛く必要もなくなる。領民は、冬を越せる。セオドール様は、追い詰められずにすむ。
誰にも本物の愛を向けられたことのない、この身ひとつが。皆を救えるのだとしたら。それは、存外、悪くない使いみちなのかもしれなかった。
窓の硝子が、しんしんと、冷えていく。わたくしは、その冷たさに、額を、そっと押し当てた。
決めてしまえば、不思議と、心は静かだった。
明日の夜。皆が寝静まったころ。わたくしは、独りで、この城を出る。




