第二十二話 縋る妹
城の門前に立つミレイユは、見る影もなかった。
いつも艶やかに結い上げていた髪は乱れ、上等だったはずの外套は、旅の泥にまみれている。頬はこけ、唇は寒さで青ざめていた。門番に支えられるようにして立つその姿は、王都で勝ち誇っていた妹と、同じ人とは思えなかった。
わたくしを認めると、ミレイユは、崩れるように膝をついた。
「お姉様……!」掠れた声だった。「お願い、助けて。わたし、もう、どこにも行くところがなくて」
その胸に灯る色を、わたくしは、視た。
純粋な後悔では、なかった。追い詰められた者の、濁った必死さ。姉ならば、また自分を受け入れてくれるはずだという、甘えた打算も、混じっている。捨てられてなお、この子は、まだ、人に縋ることでしか、生きる術を知らないのだ。
けれど、その必死さの底に、ほんのわずかだけ、震えるような、心細さの色も、あった。
「立ちなさい、ミレイユ」わたくしは、静かに言った。雪の照り返しが、妹の青白い頬を、いっそう痛々しく見せていた。「そんなところに座っていては、体が冷える」
ミレイユを、城の一室に通した。温かい湯と、乾いた着替えを与え、火のそばで、白湯を飲ませる。妹は、震えながら、それをすすった。落ち着くのを待って、わたくしは、向かいに腰かけた。
「何があったのか、話してごらんなさい」
ミレイユは、うつむいたまま、途切れ途切れに語った。
ユリウス様に捨てられたこと。義母が、婚約破棄の醜聞と、公爵家との縁が切れたことで、半狂乱になっていること。生家に、もう自分の居場所がないこと。頼れる者は、皆、去っていったこと。そして、ふと、姉のことを思い出したこと。辺境伯に引き取られた、あの地味な姉なら、きっと、また自分を助けてくれるはずだと。
「だって、お姉様は」ミレイユは、すがるような目を上げた。「昔から、優しかったもの。わたしが何をしても、怒らなかった。だから……」
「だから、また、利用できると思ったの?」
わたくしが静かに言うと、ミレイユの肩が、びくりと震えた。図星を突かれた者の顔だった。その胸の打算の色が、気まずげに揺れる。
わたくしは、怒りはしなかった。ただ、悲しかった。この子は、最後まで、こうなのだ。追い詰められてなお、姉を、都合のいい避難先としか見ていない。愛も、詫びも、そこにはない。
けれど、それは、ミレイユのせいばかりではないのかもしれない、とも思った。義母は、この子に、欲しいものは奪い取るものだと教えた。人の心を思いやることを、誰も教えなかった。きらびやかなものに手を伸ばし、掴んだと思えば、それは偽物だった。この子もまた、偽りの色に囲まれて、育ったのだ。わたくしとは、違うかたちで。
わたくしには、この目があった。だから、偽りを見抜き、身を守れた。孤独だったけれど、騙されはしなかった。ミレイユには、その目が、なかった。それだけの違いが、姉妹の道を、こんなにも分けてしまった。
「ミレイユ」わたくしは、まっすぐに妹を見た。「一晩だけ、ここに泊まりなさい。温かい寝床と、旅の支度は、用意させます。けれど、明日には、発ってちょうだい」
「そんな……! 見捨てるの? 実の妹を!」
「見捨てるのではないの」わたくしは、首を振った。「あなたを、これ以上、甘やかさないだけ。あなたには、自分の足で立つ力が、まだ残っているわ。それを、わたくしが奪ってはいけない」
ミレイユは、信じられないという顔で、わたくしを見た。かつての、なんでも言うことを聞いた姉が、こんなふうに、きっぱりと自分を突き放すとは、思っていなかったのだろう。
「わたくしは、もう」わたくしは、静かに続けた。「あなたに、何も期待していないの。だから、憎んでも、いない。あなたが幸せになろうと、不幸になろうと、それは、あなた自身が選ぶこと。わたくしの手を、離れたことよ」
それは、憎しみではなかった。復讐でも、なかった。ただ、長いあいだ、この子に縛られていた自分を、ようやく、解き放つ言葉だった。奪われた婚約者も、浴びせられた侮辱も、もう、どうでもよかった。わたくしは、この子の呪縛から、自由になったのだ。
ミレイユは、しばらく、呆然としていた。それから、堰を切ったように、泣き出した。今度の涙には、打算の濁りが、なかった。ただ、行き場のない、幼い子どもの、心細さだけが、そこにあった。
わたくしは、その泣き声を、黙って聞いていた。慰めもせず、突き放しもせず。ただ、そこにいた。それが、わたくしにできる、精いっぱいの慈悲だった。
翌朝、ミレイユは、旅立っていった。
用意させた路銀と、暖かな外套を身につけて。門を出る間際、妹は、一度だけ振り返った。何か言いたげに口を開き、けれど、言葉にならぬまま、深く頭を下げた。その胸に、初めて、ほんのわずかな、澄んだ色が灯ったのを、わたくしは見た。感謝、と呼ぶには、あまりに淡い。けれど、確かに、偽りではない色。
それだけで、十分だった。
妹の背が、雪道の彼方へ消えていく。その姿が、ずいぶん小さく、頼りなく見えた。かつて、あれほど大きく、憎らしく思えた存在が。長いあいだ、わたくしの胸に刺さっていた棘が、ひとつ、静かに抜けていくのを感じた。
あの子は、これから、独りで生きていくのだろう。楽な道では、ないだろう。けれど、甘やかされたぬるま湯から放り出されて、初めて、自分の足で立つことを、覚えるのかもしれない。それが、わたくしにできる、たったひとつの、姉らしいことだった。抱え込むことでも、突き放すことでもなく、独りで立つ機会を、手渡すこと。
「よろしかったんですか」隣で見送るネルが、そっと尋ねた。「路銀まで持たせて」
「ええ」わたくしは、頷いた。「これで、終わりにできるもの。過去とは、憎しみで繋がっているより、こうして手放すほうが、ずっといい」
澄んだ冬の空に、白い息が溶けていく。過去との訣別は、思っていたよりも、静かで、そして、あたたかかった。
けれど、その安らぎは、長くは続かなかった。城に戻ると、セオドール様が、険しい顔で待っていた。
「アリシア」彼の声は、硬かった。「宰相が、動いた。期限を、待たずに」




