第二十話 仕組まれた婚約
王命の使者は、翌朝、城に着いた。
前の名代とは、格が違った。王家の紋を掲げた騎士に護られ、うやうやしく巻物を捧げ持つその男は、宰相の腹心だという。謁見の間で読み上げられた王命は、短く、そして、逃げ場のないものだった。
『色視の力を持つレイフェルト家の娘を、速やかに王都へ送り、宰相ヴォスラーの管理下に置くべし』。
王命に、逆らうことはできない。逆らえば、それは王家への反逆となる。辺境伯家とて、王国の臣である以上、逃れる道はない。使者の胸には、勝ち誇るような鈍色が、ちらりと灯っていた。この一枚の巻物さえあれば、辺境伯とて手も足も出まい、とでも言いたげに。
わたくしは、膝の上で、両の手を固く握りしめた。ここまで来て、また、あの都へ連れ戻されるのか。人の心を暴く道具として、陽の当たらぬ部屋へ。逃げ場のない王命の前で、せっかく見つけた居場所が、指のあいだから、こぼれ落ちていくようだった。
使者が去ったあと、謁見の間には、重い沈黙が落ちた。セオドール様は、玉座のような椅子に腰かけたまま、じっと何かを考え込んでいる。ガロンは、青ざめた顔で、巻物を睨んでいた。
「なぜ」わたくしは、掠れた声で問うた。「なぜ、宰相はここまで。ただの令嬢ひとりに、王命まで持ち出して」
「……疑問は、それだけではない」セオドール様が、低く言った。「そもそも、宰相は、いつ、どこで、君の力のことを知った」
その問いに、わたくしは、はっとした。母が固く隠し、わたくし自身、ネル以外の誰にも明かしたことのない、この目のこと。生家の者ですら、はっきりとは知らなかったはずだ。それを、なぜ、宰相が。
ガロンが、古い書簡の束を、卓に広げた。この一年、辺境伯家が独自に集めてきた、宰相の動きの記録だという。
「レイフェルト様」ガロンの声は、重かった。「これは、当家が掴んだ、宰相ヴォスラーの企ての、全体像にございます。おそらく、あなた様には、辛い真実となりましょう」
わたくしは、頷いた。震える手を、握りしめて。
「宰相は、五年前から、色視の血を探しておりました」ガロンは、書簡を指でたどった。「三百年前に絶えたはずの、誠の巫女の末裔を。そして、突き止めたのです。レイフェルト伯爵家の、亡き夫人の血筋にたどり着いた」
母。わたくしの、母だ。
「ですが、ご夫人は、すでに亡くなられていた。残る血は、その娘、あなた様、ただひとり」ガロンは、わたくしを見た。「宰相は、あなた様を、手中に収めようとした。けれど、あからさまに囲えば、家々の反発を招く。そこで、あの男は、まず、あなた様を、王家に近い公爵家へ嫁がせようとしたのです」
わたくしの、息が、止まった。
「ハルドグレン公爵家との、あの婚約」ガロンの声が、遠く聞こえた。「あれは、宰相が、裏で仕組んだものにございます。公爵家に嫁がせ、その後ろ盾のもとで、いつでもあなた様の力を使えるように。……あなた様の意志など、初めから、そこには無かったのです」
わたくしは、言葉を失った。
あの婚約。愛されているふりに、必死だった、あの日々。ユリウス様の「上の意向」という言葉。詮索するな、という怯えた声。すべてが、今、ひとつに繋がった。あの婚約は、恋でも、家の誉れでもなかった。宰相が、わたくしという道具を、都合よく管理するための、檻だったのだ。
思い返せば、いくつも、腑に落ちなかったことがあった。なぜ、名門の公爵家が、格下の、しかも地味なわたくしを望んだのか。なぜ、義母があれほど、この縁談に前のめりだったのか。答えは、単純だった。上から、そう命じられていたからだ。義母も、公爵家も、あるいは父さえも、宰相の意を汲んで、動いていた。
わたくしは、無意識に、自分の胸を押さえていた。人の偽りを、あれほど見抜いてきたつもりだった。金と、無色と、鈍色を、一目で見分けられると、驕っていた。それなのに、自分自身が、これほど大きな偽りの盤上で踊らされていたことに、まるで気づかなかった。色は、目の前の一人の心は映しても、その背後で糸を引く者の顔までは、映してくれなかったのだ。
「では、婚約破棄は」わたくしは、ようやく声を絞り出した。「あれも、宰相の」
「おそらくは、計画の頓挫、あるいは方針の変更でしょう」セオドール様が、代わりに答えた。「公爵家が、御しにくい君より、従順な妹のほうが扱いやすいと判断したか。あるいは、宰相が、公爵家を通した回りくどいやり方を、捨てたか。……いずれにせよ、破棄されたことで、君は、宰相の描いた盤面から、いちど外れた」
だから、わたくしは、自由になれた。皮肉なことに、あの屈辱の婚約破棄が、宰相の檻から、わたくしを解き放ったのだ。そして、その隙に、セオドール様が、守り手として、わたくしを迎えた。
「けれど、宰相は、諦めていなかった」ガロンが続けた。「盤面から外れた駒を、もう一度、拾い上げにきた。それが、此度の王命にございます。今度は、公爵家という回り道もなく、直接に」
わたくしは、両手で顔を覆った。生家でも、王都でも、この辺境でも。わたくしの人生は、ずっと、あの男の盤上で、動かされていた。恋も、婚約も、破棄も、逃亡さえも。何ひとつ、わたくしの意志ではなかった。
けれど。
顔を上げると、セオドール様の、まっすぐな目が、そこにあった。
「盤面は、必ず、ひっくり返す」彼は、静かに、けれど力強く言った。「君は、もう、誰の駒でもない。この地で、私が、そう証してみせる」
その言葉が、崩れかけたわたくしの胸を、辛うじて、支えた。
誰の駒でもない。生まれて初めて、そう言われた気がした。生家では厄介者、王都では道具、宰相の盤上では駒。わたくしはいつも、誰かにとっての「何か」でしかなかった。けれど、この人は、ただ「君」と呼ぶ。守るべき血としてでも、力を持つ者としてでもなく、わたくし自身を。
膝の上で、わたくしは、そっと手を握り返すように、指を組んだ。まだ、震えは止まらない。それでも、この人の隣でなら、あの巨大な盤面に、立ち向かえるかもしれない。そう、思えた。
宰相ヴォスラー。三百年前の王と同じ野心を抱く、あの男との戦いが、いま、始まろうとしていた。そして、その戦いの果てに、わたくしを縛るすべての糸を、断ち切れるのかどうか。まだ、誰にもわからなかった。




