第十九話 外しても、視えない
その願いを口にするまでに、わたくしは、幾晩も迷った。
護符を外してほしいと、この人に頼むこと。それは、四年前に暴かれた古い傷へ、もう一度、指を伸ばすようなものだ。あの女と同じことを、わたくしは望もうとしている。人の心を、視たいと。
夜ごと、暖炉の残り火を見つめては、思い直した。やめておこう、と。この人の傷を、わたくしのわがままで、えぐるべきではない。けれど、朝が来て、廊下でこの人とすれ違い、あの視えない胸を目にするたび、また、思ってしまう。知りたい、と。この胸のざわめきが、恋なのか、ただの憧れなのか、それとも守り手への甘えなのか。自分の心すら、わたくしには、うまく視えなかった。だからこそ、あの人の心だけでも、確かめたかったのかもしれない。
それでも、確かめたかった。務めなのか、それ以上の何かなのか。この胸のざわめきに、名前をつけたかった。手探りの闇に、灯りが欲しかった。
雪の晴れた午後、わたくしは、中庭の外れでひとり佇むセオドール様を見つけた。凍った池のほとりに立ち、遠い雪山を見つめている。その背に、わたくしは、意を決して声をかけた。
「セオドール様」
振り返った彼に、わたくしは、まっすぐ向き合った。心の臓が、痛いほど鳴っている。
「不躾なお願いがございます。どうか、お怒りにならないで、聞いてくださいませ」
「なんだ」
「一度だけ」声が、掠れた。「一度だけ、その護符を、外してくださいませんか」
セオドール様の顔が、こわばった。予想していたことだった。それでも、わたくしは続けた。
「あなたのお心を、暴きたいのではありません。ただ、一度だけ、確かめたいのです。あなたが、わたくしを、どう思ってくださっているのか。言葉では、あなたはきっと、教えてくださらないから」
彼は、長いこと、答えなかった。凍った池の上を、冷たい風が渡っていく。雪を含んだ空気が、頬を刺した。
わたくしは、断られると思った。この人が、あの傷を、そう簡単にさらすはずがない。詫びて、引き下がろうと、口を開きかけた、そのとき。
「……一度だけだ」
セオドール様が、低く言った。
わたくしは、息を呑んだ。彼は、襟もとに手をやり、紐をたぐって、銀の護符を、ゆっくりと引き出した。その指が、かすかに震えている。四年間、片時も外さなかったもの。心を守る、最後の砦。それを、彼は今、わたくしのために、外そうとしている。
どうして、と思った。あれほど恐れていたのに。心を暴かれる痛みを、誰よりも知っているのに。それでも、この人は、わたくしの願いを、聞き入れようとしている。その事実だけで、胸が、いっぱいになった。護符を外させることなど、もうどうでもよくなりそうなほどに。
けれど、彼の指は止まらなかった。覚悟を決めた者の、静かな手つきで。
護符が、紐からするりと抜けた。彼の手のひらの上で、鈍く光る。冷えた空気の中で、その銀色だけが、やけに現実離れして見えた。
わたくしは、固唾を呑んで、セオドール様を視た。
これで、視える。三か月ものあいだ、色の空白だったこの人の胸に、ついに、色が灯る。
けれど。
何も、なかった。
護符を外してもなお、セオドール様の体には、色の一片も、灯らなかった。無色ですらない。あの、世界に穿たれた穴のような、完全な空白。護符が、あるときと、まったく、同じ。
「……そんな」
わたくしは、立ちすくんだ。目を凝らす。瞬きをする。もう一度、視る。けれど、どれだけ視ようとしても、この人の色だけは、視えない。護符の、せいではなかった。
「どうした」セオドール様が、訝しげに問うた。「視えたのか」
「いいえ」わたくしの声が、震えた。「視えません。護符を、外しても、あなたの色だけ、やはり、視えないのです」
セオドール様の顔にも、戸惑いが走った。彼自身、護符のせいだと思っていたのだろう。それを外せば、視られてしまうと、恐れていたのだろう。四年間、その恐れゆえに、片時も手放さなかった護符。それが、初めから、何の関係もなかったのだとしたら。この人が背負ってきた怯えは、いったい、何だったのか。
セオドール様は、手のひらの護符を、じっと見つめていた。その横顔に浮かぶのは、安堵とも、困惑ともつかない、複雑な色。護符に守られていたのではなかった。ならば、なぜ、わたくしにだけ、この人は視えないのか。答えを、この人もまた、持っていなかった。
なのに、外しても、視えない。
では、なぜ。
護符でないなら、いったい何が、この人の色を、わたくしから隠しているのか。
背筋が、ぞくりとした。世界じゅうのどんな人間の心も視えるこの目が、この人ひとりの心だけ、映せない。まるで、この人だけが、わたくしにとって、特別な例外であるかのように。その意味が、わからなかった。わからないのに、なぜか、胸が、締めつけられるように苦しかった。
母の言葉が、ふと、耳の奥によみがえった。いつか、あなたを本当に守ってくれる人のところへ行きなさい。そのときが来れば、きっとわかるから。
わかる、とは、何が。まさか、この視えない色のことを、母は。いいえ、そんなはずはない。考えすぎだ。それでも、いちど芽生えた疑いは、胸の奥で、小さな種のように、根を張り始めていた。この人の色が視えないことには、何か、わたくしの知らない意味がある。護符などとは、まるで別の、もっと根の深い、何かが。
「わたくしの目が」わたくしは、呆然と呟いた。「あなたにだけ、効かないのでしょうか。それとも……」
言いかけて、言葉を失った。それとも、何なのか。その先を、わたくしは、まだ、言葉にできなかった。
凍った池に、雪雲の影が差した。二人のあいだに、答えのない問いだけが、しんと横たわっている。
そのとき、城のほうから、慌ただしい足音が近づいてきた。ガロンだった。老家令の顔は、めずらしく、青ざめている。
「セオドール様! 火急の報せにございます」ガロンは、息を切らせていた。「王都より、宰相ヴォスラーが、正式な使者を。此度は、名代ではございません。王命を、携えて」
王命。その一言に、わたくしの背が、凍りついた。
護符を外しても解けなかった、視えない色の謎。そして、ついに牙を剥いた、宰相の本気。二つの嵐が、同時に、わたくしへと、押し寄せてこようとしていた。




