第十八話 暴かれた心
その夜、セオドール様のほうから、わたくしを訪ねてきた。
暖炉のそばで書物を繰っていたわたくしは、扉を叩く低い音に、顔を上げた。現れた彼は、手に、葡萄酒の瓶と、杯をふたつ提げていた。めずらしいことだった。この人が、自分から誰かのもとを訪れるなど。
「……少し、話せるか」
その声には、昼間の塔で見せた硬さが、まだ残っていた。けれど、それを押して、この人はここへ来たのだ。わたくしは、ネルに席を外してもらい、彼を招き入れた。
注がれた葡萄酒は、辺境のものらしく、素朴で、少し渋かった。ひと口含むと、体の芯に、じんと熱がともる。セオドール様は、暖炉の火を見つめたまま、しばらく黙っていた。薪のはぜる音だけが、部屋を満たす。
「昼間の、問いに」やがて、彼は口を開いた。「答えておこうと、思ってな」
わたくしは、杯を置いて、彼の言葉を待った。
「四年前」低い声が、火明かりの中に落ちる。「私は、王都にいた。魔獣討伐の武勲で、宮廷に召し出されてな。若かった。田舎者が、都の華やかさに、少し、目がくらんでいた」
いつもの、そっけない口調ではなかった。言葉を、ひとつずつ、掘り起こすように。
「宮廷に、ひとりの女がいた。侯爵家の令嬢だ。私に、よくしてくれた。私は、その女に、心を寄せた。生まれて初めて、人を、そういう目で見た」
胸の奥が、ちくりとした。この人の、初めての恋。それを聞くことが、なぜか、少し苦しかった。けれど、それ以上に、この寡黙な人が、かつて誰かに心を寄せた若者だったのだという事実が、意外で、そして、いじらしかった。今の氷のような佇まいからは、想像もつかない。
わたくしは、口を挟まず、ただ耳を傾けた。この人が、こんなにも言葉を重ねるのは、初めてのことだったから。
「だが、あれは、罠だった」セオドール様の声が、低くなる。「その女は、ある派閥に、雇われていた。私の心を操り、ヴァレンシュタインの兵を、政争の駒にするために。女は、私の心を、手に取るように読んでいた。私が何を望み、何に弱いか。まるで、色でも視えているかのように」
わたくしは、はっとした。心を、読む。
まるで、色でも視えているかのように。それは、わたくしのことだ。わたくしが生まれつき持っている、この目。それを、宰相は、術で贋物として仕立て上げ、この人を陥れる罠にした。人の心を読むという力が、どれほど人を傷つけうるか。わたくしは、その現物を、目の前の傷ついた人に、見ていた。
「後で知った。その女の背後にいたのが、宰相ヴォスラーだったことを」彼は、杯を握りしめた。「あの男は、色視の血が絶えたあとも、人の心を操る術を、飼っていた。私は、その最初の獲物だった。危ういところで、家の者が気づき、私は都を離れた。以来、心を、護符で封じた。二度と、誰にも、暴かれぬように」
だから、この人は、王都を避けた。心を閉ざした。氷の辺境伯と呼ばれるようになった。すべては、心を暴かれ、利用された、あの痛みゆえに。
わたくしは、言葉が出なかった。かける言葉を、探せなかった。ただ、火を見つめるその横顔の、深い孤独だけが、痛いほど、伝わってきた。
「だから」セオドール様が、こちらを見た。「君が、色が視えると言ったとき。正直、恐ろしかった。また、心を暴かれるのかと。護符があってよかったと、そう思った」
その言葉は、刃のように、胸に刺さった。わたくしのこの目が、この人にとっては、あの女と同じ、恐怖の対象なのだ。心を暴く、忌まわしい力。
俯いたわたくしに、けれど、セオドール様は、静かに続けた。
「だが、今は、思う。……視られても、よかったのかもしれん、と」
「え」
「君は、私の色が視えないと言って、泣きそうな顔をした」彼の声が、やわらいだ。「あの女は、私の心を読んで、嗤った。だが君は、視えないことを、悲しんだ。同じ力でも、こんなに違うのだと、知った」
わたくしは、顔を上げた。灯りに照らされたその目が、まっすぐに、わたくしを見ていた。
わたくしとこの人は、似ているのだと、そのとき思った。心を暴かれる痛みを知る人と、心を視てしまう孤独を抱える人。傷の形は違っても、その痛みの根は、きっと同じ。人と人とのあいだに、まっすぐな信頼を結ぶことの、難しさ。裏切りへの、消えない怯え。
だからこそ、この人は、わたくしを迎えたのかもしれない。守り手の務めというだけでなく、同じ痛みを抱える者として。そう思うと、これまで感じてきた孤独が、少しだけ、やわらぐ気がした。この広い世界に、わたくしの痛みを、言わずとも分かってくれる人が、たったひとり、いる。それだけのことが、どれほど、心を温めるか。
暖炉の炎が、彼の頬に、揺れる影を落としている。葡萄酒の渋みが、舌の奥に、まだ残っていた。
「セオドール様」わたくしは、震える声で言った。「わたくしは、あなたの心を、暴きたいのではありません。ただ……知りたいのです。あなたが、どんな想いで、わたくしを守ってくださるのか」
言ってしまってから、頬が熱くなった。けれど、もう、止まらなかった。
セオドール様は、しばらく、黙っていた。杯の中で、葡萄酒が、灯りを映して揺れている。
「知りたい、か」やがて、彼は、独りごとのように呟いた。「私も、同じだ。君が、何を思って、私を見ているのか。だが、私には、君の色すら、視えん」
その言葉に、わたくしは、胸を突かれた。そうだ。この人もまた、わたくしの心を、確かめる術を持たない。護符が、それを封じているのではない。ただ、人の心とは、そもそも、簡単には視えないものなのだ。色の視えるわたくしですら、この人の想いには、たどり着けずにいる。
二人とも、視えないもののあいだで、手探りをしている。
わたくしは、ふと、あることを思った。もし、この護符さえ外せたなら。この人の心を、一目でも視られたなら。この手探りの闇に、灯りがともるのではないか。たとえ、はしたない願いだとしても。
その夜、セオドール様が去ったあと、わたくしは、長いこと、暖炉の残り火を見つめていた。
この視えない人の、心の名前を。わたくしは、どうしても、知りたかった。たとえ、その願いが、あの人の古い傷に、もう一度触れることになるのだとしても。




