第十七話 無彩の護符
東の塔へ通じる扉の前で、セオドール様は、しばらく立ち止まっていた。
三日が過ぎていた。あれから彼は、思い悩むように口数を減らし、やがて、みずからわたくしを、この塔へ導いた。近づくなと命じた、あの禁足の場所へ。鍵を回す彼の手が、わずかにこわばっているのを、わたくしは見た。
軋む扉の向こうは、埃と、古い蝋の匂いに満ちていた。冷たい石の階段が、螺旋を描いて上へ延びている。一段のぼるごとに、板の隙間から吹き込む風が、燭台の火を揺らした。
上りきると、円い小部屋があった。窓は板でふさがれ、燭台の灯りだけが、壁を照らしている。そこに掛けられていたものに、わたくしは息を呑んだ。古い織物には、あの女神マレアの姿らしき像が織り込まれ、その周りに、色視の巫女たちの名だろうか、いくつもの名が、金糸で綴られていた。壁の一角には、書庫で見たのと同じ、護符を提げた女の肖像が、もう一枚。ここは、守り手の家が、巫女たちを弔い、記憶するための場所なのだ。三百年、誰の目にも触れさせずに。
部屋の中央に、小さな祭壇のようなものがあり、その上に、硝子の箱が置かれていた。
箱の中に、それはあった。
鈍く光る、銀の護符。見慣れぬ紋様が刻まれている。書庫の肖像で、あの巫女が胸に提げていたものと、同じ形だった。
「これは」セオドール様が、低く言った。「無彩の護符という。守り手の家が、三百年、受け継いできたものだ」
「無彩の護符、ですか」
「巫女に、心を読まれぬための護符だ」彼は、硝子の箱に手を触れた。「三百年前、守り手は巫女を匿った。だが、守る側とて、人だ。恐れも、迷いも、時には巫女への邪心すら、抱くことがある。そのすべてを、巫女に視られてしまえば、守り手はつとまらぬ。だから、作られた。心の色を、封じる護符が」
心の色を、封じる。わたくしの目が、決して読み取れない、色の空白。
わたくしの胸に、ひとつの考えが、閃光のように走った。
「セオドール様」わたくしは、思わず一歩、進み出た。「もしや、あなたは、その護符を」
セオドール様は、答えなかった。ただ、無言で、自分の胸もとに手をやった。上着の襟を、わずかにくつろげる。その首から下げられた紐の先に、銀の護符が、もうひとつ、あった。硝子の箱のものと、対をなす、古い護符。
わたくしは、息を呑んだ。
「あなたが、これを身につけていらしたから」声が、震えた。「だから、わたくしには、あなたの色が視えなかったのですね」
三か月ものあいだ、わたくしを苦しめ続けた謎。命を懸けて庇ってくれた人の、視えない胸。憐れみか、義務か、それ以上の何かか、確かめられなかった、あの色の空白。その正体が、この銀の護符だったのだ。
安堵に似た、けれど、それ以上に大きな何かが、胸にこみ上げた。護符のせいなら、外しさえすれば、視えるかもしれない。この人が、本当は、わたくしをどう思っているのか。務めなのか、それとも。
「では」わたくしは、すがるように言った。頬が、火照っていた。「その護符を、外せば、あなたのお心が、視えるのですか」
言ってしまってから、はしたない願いだと、恥じた。人の心を暴きたいなど。母が忌み、宰相が欲した、あの浅ましい望みと、同じではないか。皮肉なものだと思った。あれほど、視えることを疎んできたのに。人の偽りが視えるたび、この目さえなければと願ったのに。今、生まれて初めて、視たいと願っている。たったひとりの、心を。
けれど、確かめたかった。峠で腕を斬られたときも、名代の前に立ちはだかったときも、この人は理由を語らなかった。守り手の務めなのか、それとも、それ以上の何かなのか。務めだと言われれば、あきらめもつく。けれど、もし、務めではない色が、この人の胸に灯っているのなら。それを一目、視てしまえたら、わたくしはきっと、この孤独から、抜け出せる気がした。
セオドール様は、しばらく、わたくしを見つめていた。灯りに揺れる灰青の目に、いくつもの感情がよぎるのが、色を視ずとも、伝わってくるようだった。迷い。怯え。そして、押し殺した、何か。
「……できない」
やがて、彼は、絞り出すように言った。護符を握りしめた手が、白くなっている。
「この護符は、外せない。家の掟だ。守り手は、生涯、これを手放してはならぬ」
その声には、いつもの、揺るぎない断固さがなかった。ただ、何かに怯える、硬い響きだけがあった。掟、というのは、方便だと、なぜか思った。この人が護符を手放せないのは、もっと別の、個人的な理由がある。そんな気がした。
だって、掟だというなら、もっと淡々と告げればいい。守り手はこれを外さぬものだ、と。けれど今のこの人は、まるで、護符を外すことを、何より恐れているように見えた。護符を握りしめた指の白さが、それを物語っていた。
わたくしは、峠の夜を思い出した。血を流してもなお、呻きひとつ漏らさなかったあの人。名代の権威にも、眉ひとつ動かさなかったあの人。そのセオドール様が、今、たかが心の色を視られることに、これほど怯えている。いったい、この人の心には、何が眠っているのだろう。
「なぜ、そこまで」わたくしは、問わずにいられなかった。「たかが心の色を視られることを、あなたは、なぜ、そんなに恐れるのですか」
その瞬間、セオドール様の顔が、こわばった。触れてはならぬところに、触れてしまった。わたくしは、それを、はっきりと悟った。
彼は、護符を襟の内に戻すと、背を向けた。
「……今日は、戻ろう」
絞り出すような、その声。塔の窓を打つ風の音だけが、二人のあいだの沈黙を、いつまでも埋めていた。
護符の謎は、解けた。三か月ものあいだ、わたくしを苦しめた、あの色の空白。その正体は、この銀の護符だった。
けれど、そのかわりに、もっと深い問いが、姿を現していた。この人は、いったい過去に、何を視られ、何を奪われたのか。心を封じてまで、守ろうとしているものは、何なのか。
塔を下りる階段で、わたくしはセオドール様の背中を見つめた。広い、頼もしい背中。峠でわたくしを庇い、名代からわたくしを守った、あの背中。その背が、今日は、ひどく孤独に見えた。色は視えない。それでも、この人もまた、わたくしと同じ、心に傷を抱えた人なのだと、初めて、わかった気がした。




