第4話 解せぬ
美しい砂浜と繰り返す波、穏やかな海辺に似つかわしくない男性の叫び声だった。
ニンゲンの姿になった海竜のイルムと、空びとの少年、リーフは顔を見合わせた。
「今の、悲鳴?」
リーフの顔が、一瞬で曇る。
イルムは声のした岩場のほうへ視線を定めつつ、
ここは地上、ということは、「地びと」なのだろう。そもそも大人の声だったようだし、まず「空びと」であるリーフの親友、マルテの声ではないだろう。
そのように考えた。イルムとリーフは「親友探しの旅」を始めたばかりだが、そのマルテの声という偶然の可能性はないと確信した。もっとも、この広い世界でそんな奇跡のような確率は、砂浜の中のひとつの砂粒のようなものだろう。
ウガアアア。
獣じみた咆哮も、聞こえる。それから、なにか鈍い音。おそらく、岩場の向こうでニンゲンが獣か怪物かなにかと、武器で戦っているのだろう。
リーフの父は、船上の地びとたちの命に無関心だった。と、いうことはリーフも。
きっと、関心を持たずに立ち去るのだろうと思った。
「行ってみよう」
リーフは駆け出していた。
「行って、どうするのだ」
腕試しの怪物退治か。あの少年時代の父親のように。
「助けるんだ! 地びとさんを!」
リーフはイルムのほうを振り向きもせず、走りながら叫んだ。
「助けたいのか」
イルムは小さくなっていくリーフの背を眺めつつ、尋ねた。
「うんっ。岩の向こうでなにがどうなってるかわからないけど、絶対ピンチなんだと思う! 僕の魔法を使えば、きっと――」
リーフが言い終える前に、イルムはリーフを追い抜いていた。走る。風のように。銀の髪をなびかせて。
「わかった。私がなんとかしてみる。この体で、とりあえずの腕試しだ」
ああ、とイルムは内心ため息をつく。なりゆきとはいえ、とっさに口から出たとはいえ。
私を封じたやつと、同じ言葉を吐いてしまった。
少し自分自身に呆れつつ、大きな岩を一飛びで超えた。
ああ。こいつか。
まだ空中にいるイルムの視界に飛び込んできたのは、怪物。剣をふるうニンゲンに、襲い掛かろうとしているそいつは、同じく海に棲む怪物だった。
ナマコンブ。
ナマコのようなボディ、そしてその胴体から昆布のような、ひらひらぬめぬめしたものが三対出ており、その名で呼ばれる怪物だ。昆布のようなものは、手や脚のような役割を持つ。昆布足で器用に立ち上がると、ニンゲンの背丈をゆうに超える大きさになる。陸上でも活動し、ニンゲンを好んで食する怪物だった。
イルムが着地したとき、ナマコンブ、ニンゲン、その両者と一瞬視線がかち合う。
襲われていたのは、青年だった。黒髪で緑の瞳の、背の高い引き締まった体つきの若者。
「危ない! こっちに来ちゃだめだ!」
青年は、イルムに対してそう叫んだ。
「逃げろ!」
そして、ナマコンブに斬り掛かっていた。
ほう。
イルムは、目を見張る。ニンゲンがこのような武器で戦うのは知っていたし、ニンゲン同士が船の甲板の上、戦っているところ――イルムは知らないが、海賊船同士の戦いでの一幕だった――を遠目で見たことがある。しかし間近で見る青年の剣術は、驚くほど滑らかで力強く、美しくさえ思えた。
そしてなにより、イルムの心をその瞬間に留めたのは、突然現れたイルムを守るために青年が叫んだ言葉だった。
言葉。
イルムは二つの点で驚いていた。ひとつは、地びとだと思われる青年の言葉が、はっきりと理解できたこと。姿かたちの変身は、言葉の壁も突破できるようになったらしい。そしてもうひとつは、
逃げろ、か。
さっき悲鳴を上げていたはずなのに、自分の命より他者の命を守ろうとする言動。そこに、心動かされていた。
「くそっ……」
青年が、悪態をつく。青年の剣筋は、確かにナマコンブの体を捉えていた。しかし、ナマコンブの体が裂けることはなく、弾き返していたのだ。
「イルムーッ!」
岩の上にたどり着いたリーフが、叫んでいた。
「海辺の怪物よ――」
リーフが呪文を唱えようとした、そのとき。
「すまん。ナマコンブ。その食事は、やめておけ」
イルムは、ナマコンブの背後に回り、ナマコンブの胴体をがっしりと掴み、それから持ち上げた。
「え、えええ……!?」
リーフも青年も、同様に口をあんぐりとさせてしまった。
イルムは長いナマコンブの体を頭の上に持ち上げていた。そしてバランスよく掲げながら、海に向かって走り出した。イルムの頭上高く掲げられたナマコンブは、ひっくり返された甲虫のように、体をねじらせようとしながら昆布足をばたつかせていたが、しっかり掴まれているようで逃げられない。
波打ち際に来た。水平線が、眩しい。
「帰るのだ、海へっ」
イルムは叫び、投げた。それはもう、勢いよく。
ざっぱーん。
遠くで白波が立つ。ナマコンブ、深く海に沈む。
「これでよし」
ふう、と一息つく。さすがに我ながらいきなり無茶をしすぎたか、と肩に手をやり首や肩を回していると、後ろから、二人ぶんの足音がした。振り返ると、リーフと青年、ふたりがこちらに駆け寄ってきた。
「ありがとう、あんた、なんて怪力なんだ……!」
青年が、信じられない、と首を左右に振りながら笑顔で礼を述べていた。
「イルム、すごいよ、びっくりしちゃった!」
リーフはその場で飛び跳ねつつ、声を弾ませている。
「悲鳴を上げていたようだが――、戦いぶりはそんな感じには見えなかったな」
イルムは青年に対し、率直な感想を述べた。
「恐怖に負けるようではなかった。ナマコンブに剣は通用しないようだったが、お前の戦いぶりは、美しかった」
ナマコンブ、と聞いて青年はちょっと当惑した表情を浮かべたが、形状からすぐに納得したようだった。
青年は、自身の戦いぶりへの評価が嬉しかったのか、ちょっと照れくさそうに頭をかいた。
「いやあ……」
青年は、ためらいがちに心情を打ち明ける。
「気持ち悪かったので。あの怪物の見た目が」
その悲鳴だったようだ。
「俺の名はソル、旅をしているんだ」
青年は、ソルといった。
「へえ、旅人さんなんだ! 僕はリーフで、こっちはイルム! 僕らも、旅人だよ! 僕の親友を探す旅を始めたばかりなんだ……!」
「親友、探し……?」
「あっ、新しいお友だちを探すってことじゃないよ。僕の親友、マルテを探す旅なんだ」
「マルテ君……、そっか。早く見つかるといいね」
ソルは詮索することなく、ただ幸運を祈ってくれた。
その代わり、自分の旅について打ち明けた。
ソルは、夢見るように、目を細めていた。
「俺の旅は世界中を巡って、空の国から落ちた魔法石を探す旅なんだ」
お。
きっと、ソルにとっては大切な旅の理由ではあるが、打ち明けてくれたのは自分を助けてくれたことへの感謝と親愛の気持ちからであり、会話を続ける意思の表れに過ぎないのだろう。
イルムとリーフは、笑顔のまま時を止めた。
みゃー、みゃー、みゃー。
ウミネコが、上空を飛んでいく。海に向かって。
目の前に、その石があると知ったら、どう思うのだろうか。
イルムの首に掛けたネックレスは、服の中で外から見えない。
みゃー、みゃー。
潮風に消えていくウミネコの声。
足元の波が繰り返し、押し寄せては去っていく。
イルムとリーフの沈黙を、そのときのソルは理解できなかったに違いない。
深い海の底で、ナマコンブが歩いている。
「これはいったい、どうしたことだ」
いつもと同じ一日だと思った。ニンゲンを食べられると思った。しかし、ニンゲンのようでニンゲンでないような者に投げ飛ばされた。
あのような力は、ニンゲンでは不可能と思う。しかし、あれは空びとでもないような感じがした。
もう少しで、食べられそうだったのに。そしてなぜ自分は今、海にいるのだろう。
ひとつ浮かぶ泡は、ため息。
「解せぬ」
誰もいない静かな深い青の中、昆布のような足をひらひらさせ、ナマコンブはひとり呟いていた。




