第36話 邪悪な、笑み
「さあ、始まったぞ……!」
激しい音と光。ラーズは嬉々として椅子から立ち上がった。
マルテの全身から、一瞬にして血の気が引く。
リーフ、みんな……!
連続する爆発音。皆が攻撃されている、そう思い、弾かれたようにマルテも立ち上がった、そのときだった。
「うわっ」
轟音と共に、屋敷全体が揺れた。
「なんだっ、今のは……!」
ラーズが叫び、窓へと走る。今の尋常ではない屋敷の揺れは、マルテはもちろん、ラーズにとっても想定外の衝撃のようだった。
「海竜!」
え、海竜……!?
窓から下を覗いたラーズ、その口から飛び出した言葉は、「海竜」。瞬間、まさか、とマルテは思った。
イルムさんは海竜だけど、ニンゲンの姿に変身している。どうしてラーズはすぐに海竜って……。
そこまで考えて、あっ、とマルテは気付く。
もしかして、イルムさんは海竜の姿に戻って、大砲を壊そうとした……?
マルテは海竜というものを見たことがないが、竜というものはきっと、巨大な姿なのではないか、と思っていた。さっき屋敷が揺れたのは、倒れたイルムの巨大な体が屋敷に当たってしまったからではないか、そう想像する。
そんな……!
マルテも、窓へと急ぐ。どきん、どきん、心臓が早鐘を打つ。砲撃されてしまったであろう、イルムの安否は――。
イルムさん……!
さあっ、と冷たい空気が部屋に入ってきた。火薬の強い匂いが、鼻をつく。
ラーズが、窓を開け放っていた。そして――。
あっ。
マルテは驚きで息をのむ。
マルテの目の前、ラーズの姿が消えた。
ラーズは、飛び降りていた。
ここは三階だった。
魔法、なのだろう。
落下自体は普通に速かったが、着地するとき、まるでその場でジャンプしただけのよう、そんなふうに軽やかで、まったくの涼しい顔だった。
「ラーズ……!」
ニンゲンの青年の姿になったイルムも、空びとの少年リーフも同時にその名を叫ぶ。
イルムはニンゲンの姿に変身したばかりで、まだ地面に横たわっていたし、地びとの旅人ソルとリーフの父グランは、イルムとリーフのところに駆け寄る途中だった。
「よくもまあ、僕の兵器を――、簡単に壊してくれたね。正直、値が張ったし、集めるのは時間がかかったのになあ」
ラーズは不敵な笑みをたたえつつ、そう述べて肩をすくめた。あまり残念がっているようには見えない。
「待て……!」
後ろから、ほぼ同時に同じ言葉、二人の男の声がした。
声から、イルムは察する。
今の声は、情報屋と、知らない声。
情報屋が待て、と言ったのは、たぶん刑事に向けての言葉なのだろうと思った。情報屋と刑事の動きから、そう感じた。もう一つの誰かを制止する声は、まだ姿を現さない追跡者のものだろうと思う。
ラーズは、強い魔法を使える。
イルムは、その事実を改めて心に刻む。それから、自分の体に意識を向けた。ラーズが魔法を使える前に、ラーズの意識を失わせる、または息の根を止める、そういうことは、可能なのだろうか、と。イルムは自分の手や足をほんの少しだけその場で動かして確認してみたが、筋肉も関節も、すべて今までと変わらず動けそうだった。
おや。
走る音がした。イルムは、ラーズを警戒しつつも、そちらを見た。いつの間にか、二つの人影が走り出していた。皆の姿はあったので、その二つの人影は追跡者たちに違いない。
二つの人影は、屋敷の正面玄関ではなく、さっきイルムの尾が壊してしまった、屋敷の壁のほうへ向かっていた。おそらく、壁に穴が開いたのだろう。
今がチャンスだ、そう二つの人影は思ったに違いない。ラーズは今、イルムたちに意識を向けているから。仲間の制止する声を無視し、駆け出していた。おそらく目的は、魔法石。ラーズが屋敷に出ている今、そしてイルムたちとこれから戦おうとしているだろう今こそ、ぬけがけし、盗み出す好機と判断したのだろう。
「ばかな……!」
茂みから、苛立つような声。先ほど、制止の声を上げた者に違いない。
ヒュッ、ヒュッと、風を切る音が二回した。それと同時に、うめき声。
二つの人影は、屋敷の手前で倒れた。
「ああ。この屋敷にいるのは、僕だけじゃないのになあ」
ラーズが、やれやれ、といった様子でため息を吐く。
「隙をついて侵入するつもりだったんだろうけど。無謀だよね」
矢、だ……!
イルムは、ラーズの傍らにいた大男を思い出す。まだ姿を見せてはいない。おそらく、大きな音のした壁の状態を確認しに来たところで、二つの人影に気付き、屋敷内から矢を放ったのだろう。
「羊が一匹! 羊が二匹! 羊が三匹!」
えっ。
今のは、と思った。声からすると、グランだ。朗々とした声で、羊を数え始めた。
「羊が……!」
「変な魔法」
ラーズは呆れたようにそう呟くと、すっ、と右腕を上げ、グランのほうへ手のひらを向けた。
「ぐはあ、ね、眠い……!」
たちまち、グランが叫び、悶絶し髪をかきむしり始めた。
ええ……!?
なにが起きているのか、イルムにはまったくわからない。ただ、グランがラーズになにかをしかけ、ラーズがそれに対処したよう、謎の攻防の結果、グランが苦しんでいる、ということだけはわかった。
「お父さん、睡眠の魔法、跳ね返されてるし……!」
リーフが立ち上がり、叫んだ。
今、叫んでたの、睡眠の魔法だったのか……!
「羊数えるのって、自分が眠れるように、だと思うんだけど!?」
ソルが、困惑したような声で叫んでいた。ソルが続けて言うには、羊を数えるのは、眠れるように唱えるおまじないらしい。しかしグランが発したのは、相手を眠らせる意図の魔法だったようだ。
グランよ……、ん……?
ちょっとグランに呆れつつ、グランの身を案じた、そのとき。イルムは目の端で、動きを捉えた。イルムの開けた屋敷の穴から、人影が飛び出してきた。
あの大男か、とイルムは思ったが、なぜか一瞬で姿が見えなくなった。
それも魔法か。
姿を消す魔法なのだろう、と思った。しかし、そのときイルムは、ほんの少し違和感を覚えていた。
違和感。それは、見えた人影が、あの大男と輪郭が異なるような気がしたのだ。遠目だし、一瞬だったので、イルムも確信が持てない。
だが、矢を放った者が出てきた、そう考えたほうが自然だし、そう覚悟しておいたほうが確実だろうと思った。
「今! 屋敷から出てきた何者か、姿を消した……! きっと、矢を使うやつだ! 皆、気を付けろ……!」
イルムは皆に叫んで伝えた。見えないところから矢が飛んでくる、かなり厄介だ、とイルムは思う。
ニンゲンの姿でも頑強なイルムにとって、矢はさほど脅威ではない。さらに、あの初めて遭遇したときのように、飛んでくる矢は風音でわかる。しかし、ニンゲンである他の皆にとっては、命を奪う脅威だ。
早く、決着をつけねば。
グランは、ラーズを眠らせて捕らえようとしていた。しかし、とイルムは思う。
構わん。
構わん、とイルムは思った。ここは命を奪い合う戦いの場、構うものか、と思った。
やつは、たくさんの命を平気で奪う。今も、二つの命が消えても、やつは平然としている。
ならば、と思った。
私も、全力で行く。
命を奪っても、構わん、と。
イルムは、まだ地面に伏しているままだった。地面に横たわっていた状態から、駆け出す。今まで起き上がらなかったのは、油断させるため。行動を予測させないため。攻撃するときは、一気にしかけるつもりだった。
速ければ、魔法も出せまい。
目の前に見えるのは、赤い髪の頭。細い首。細身の体。どこを狙っても、簡単に壊せそうだった。
標的の前、あっという間にたどり着く。イルムの右足が、風を切る。
持ち上げた右足は、ラーズの華奢な首を狙い――。
む。
赤い瞳が、光る。細い唇が、笑みを形どっている。
邪悪な、笑み。
どっ。
土埃。ラーズの後ろ、突然、地面から、現れるなにか。そして、イルムの右足は、固いなにかに阻まれる。
「シエンシア……!」
シエンシア、だった。シエンシアの腕が、ラーズの首を守るように掲げられ、イルムの右足を止めていた。
ハッとした。違和感の通り、やはり大男ではなかったのだ、とイルムは気付く。
自分がさっき目にした、屋敷から出てきた人影は、シエンシアだったのだ、と。
「魔法じゃなかったのか……! 地竜であるシエンシアは、外に出たあと、自ら地面に潜って移動してきたのか……!」
イルムの声に、ふふふ、とラーズは笑う。
「残念ながら、自ら、ではないけどね」
そうだった――。
魔法で操られて、だった。シエンシアの意識は、いまだラーズやアグネーテに操られたまま――。
「くっ……」
イルムは急いで飛び下がり、ラーズと距離を取らねばならなかった。
シエンシアの、強烈な突きから身をかわす必要があったのだ。
「地竜対海竜。ふふ。見ものだね」
歌うように呟く。月明かりの下、ラーズは美しくも凶暴な笑みを浮かべた。




