第37話 二つの魔法
すさまじいスピードだった。
速い……!
風を切る音、それから筋肉と筋肉がぶつかり合う、がっ、がっ、どっ、と重い音。
力強い拳が、肘が、そして膝やかかとや脛が、容赦なく飛ぶようにやってくる。
それはすべて、シエンシアの、だ。
イルムは、防御に徹するしかなかった。
ニンゲンの青年の姿に変身している海竜のイルムと、同じくニンゲンの姿となった地竜のシエンシア、両者の力が激突していた。
イルムのすぐ近くには、敵であるラーズを始め、大切なリーフやソル、グラン、それから刑事や情報屋もいるはずだったが、そちらに気を配る余裕はない。
時折叫び声と、明滅する光、なにかの音や煙、それから長い髪が突然勝手なほうへ流れるのを思うと、不自然な風のようなものも発生している。
たぶん、呪文。そして魔法だ。
リーフとグランの親子が、ラーズに向かって魔法攻撃をしかけているようだった。どうやらグランは、自身に返ってきた己の催眠魔法を、無事打ち破ることができたようだ。
「うっ」
ソルの声と思われるうめき声と共に、ソルが後ろに吹き飛ばされている。剣を構えたまま、腰を落とした状態で後退させられている様子を見るに、おそらくラーズへ斬りかかったが、なんらかの魔法の力で弾かれてしまったのだろう。
「あっ、は、は、は……」
耳に届く笑い声は、ラーズ。
グランの魔法も、リーフの魔法も、効いていない、ということだろうか。
拳。イルムに状況を分析する時間はないようだ。急ぎ、イルムはシエンシアの拳をかわさなければならない。
攻撃の癖みたいなものが、ありそうなものだが、よくわからん――!
拳の次は、足が来るか、と思えば違うほうの拳が飛んでくる。イルムは、かわす、または防御しつつ受け流す、で精いっぱいだった。
次は、上か――!
月を背にし、いつの間にか宙を舞うようなシエンシアの姿が見えた。これはきっと、下降しつつイルムの顎を蹴り上げるという流れ――。
首飾りを。
首飾りを、とイルムは思った。後ろに飛び下がって、蹴りを繰り出そうとするシエンシアの攻撃をかわしながら、イルムは思う。
シエンシアの首にある、魔法石のペンダントだかネックレスだかいうやつ。あれをなんとかして、取らねば――。
シエンシアの蹴りは空を切り、わずかに崩れた体勢で着地する。シエンシアが体勢を立て直す前に、首飾りを、と思ったが、シエンシアの動きは素早く、そんな隙はなさそうだった。
やはり、地上では地竜のほうが上か。
イルムは、間合いを取るべく駆けた。シエンシアが地下へ潜ったら厄介だな、と思ったが、とりあえずそんな様子は見られなかった。
走りながら、ここに来るまでの間、リーフと話し合っていたことを、イルムは思い出す。
『シエンシアの首にかけられてたっていう、魔法石のペンダント。それを取らなくちゃ』
リーフは、そう言っていた。
『それを取れば、シエンシアを操る魔法が解けるのか?』
ううん、とリーフは首を横に振っていた。
『あれは、継続させるためのもの。イルムのしている首飾りと、一緒だよ』
そういえば、持続性がもたらされる、そう言っていたな、とイルムは思い出す。
『シエンシアには、変身の魔法と操る支配の魔法、二つの重い魔法がかかってる。だから、首飾りを取ることで、魔法のバランスは一気に崩れると思う』
『バランスが、崩れる?』
うん、とリーフはうなずいた。
『それだけで二つの魔法が解けることはないけれど、すごく不安定になる。その隙をつけば、僕かお父さん、どちらかの魔法で、二つの魔法を打ち破れると思う』
ほんとはね、とリーフは付け足した。
『操るんだったら、シエンシアに変身させる必要はなかったんじゃないかって思う。地竜の姿のままでも、操れたんじゃないかな』
『それは、どういうことだ?』
『きっと、ラーズたちは、イルムを見て誤解してしまったんだ』
『私を見て、か?』
どういうことだろう、とイルムは思う。
『きっとラーズたちは、イルムがニンゲンの姿になってるから、味方につけられたって思いこんじゃったんじゃないかな。だから、シエンシアをニンゲンの姿にした。たぶんもともと、ラーズでもアグネーテでも、地竜のシエンシアを操る力があった。シエンシアは長い眠りから覚めたばかりだって言ってたから、余計魔法にかかりやすかったんじゃないかな、とも思うけど。むしろ、ニンゲンの姿に変えないほうが、より強力に支配できたのかも』
『より強力に支配……? 地竜のままの姿で……?』
意外な気がした。なんとなくだが、ニンゲンの姿の状態ならありうるが、地竜のままのシエンシアを操れるとは思えなかったのだ。
『ラーズたちは、そういう能力がすっごく高いんだと思うよ。空びとの中でも、そういう能力って聞いたことない、いても珍しいんじゃないかな。そして、支配する魔法だけだったら、逆に解くのは難しいかもしれない』
『よくわからんが……。変身と支配、二つの魔法がかけられていることが、幸いした、と……?』
『うん。なにかに複数の魔法をかけちゃうことって、魔法の中の相性とか組み合わせの問題が出てくるから、難しいことなんだって先生が言ってた』
これは、あとで思い出したんだけどね、とリーフは、ちょっぴり笑う。
『僕のかけた変身の魔法とアグネーテの支配の魔法。あのとき、イルムにも二つの魔法がかかってた。イルムのペンダントはそのままだったけど、でも僕でもイルムにかけられた支配の魔法を解けたのは、そういうわけだったんだなあって……! 先生のお話、あとから、あ、そうだった、って思い出したよ……! 地上には、魔法学校なんてないと思うし、ラーズは知らないのかもしれない。やっぱ学校や勉強って大事だなあ――』
私のせいで、とイルムは思っていた。私がニンゲンの姿でいることで、シエンシアが目をつけられてしまったのだ、と思っていた。それは確かに不幸なことだった。しかし逆に幸いだったともいえた。竜のような怪物を操るためには、ニンゲンの姿への変身が必要なのだ、というラーズの誤解が、シエンシアやイルムたちにとって、希望となっている。
でも。
でも、とイルムは思う。
リーフだから、私にかけられた魔法、それを解けたのだ。
魔法の性質というものでも、なにかの計算上のことでもない。リーフの思いが、リーフたちとの思い出が、自分を解放したのだ、そう強く思った。
あっ。
あっ、と思った。イルムは天を仰ぎ、大地に伏していた。
考えごとを、し過ぎていた。
強く胸と頭を打っていた。リーフとの会話を思い出し、隙ができていたようだ。あっという間に追い越して前に回り込んでいたシエンシアの蹴りが胸に当たり、そのまま飛ばされ、そして地面に頭を打ち付けていた。
光、音、風。
誰かの魔法、誰かの叫び声。なにが起きて、なにがどうなっているかはわからない。
イルムは、自分に集中するしかなかった。
この瞬間の自分の命を、守ることしかできなかった。
倒れた自分に向かって駆ける音がする。シエンシアに違いない。
動け。
イルムは、自分の体に命令していた。
痛みが全身を貫く。それを、無視した。
だっ、だっ、だっ、迫りくる、足音。
今、避けなければ次はない……!
「死」が、目の前にあるような気がした。イルムの全身の筋肉が躍動する。
イルムは歯を食いしばり、その場から飛び避けていた。
イルムの視界には、黒髪、シエンシアの頭。
あのときの、ようだった。
テントを、黒づくめの男が襲撃した、あのとき。
あのときも、イルムは飛び避けていた。そして、あのときは、短剣が寝ていたイルムの胸元の位置を、貫くように突き刺してあった。
今は、シエンシアが、拳を大地に突き立てている。わずかに頭を下げ、屈みこむような姿勢で、ちょうどイルムが倒れていた、胸元の位置を。
今だ!
イルムは、素早く手を伸ばした。シエンシアは、まだイルムの倒れていた位置を見下ろしている、今。
黒い目が、見えた。わずかに顔を上げたシエンシアと、イルムが目が合った、そのとき。
取った……!
イルムの手には、首飾り。
シエンシアの首飾り――マルテの母の大切な形見の品――を、イルムはしっかりと手にしていた。




