第38話 胸にくる、熱いもの
ラーズが外に出た……!
ラーズが窓から飛び降りたそのとき、マルテは身を乗り出して、地上の様子を見た。
ほんとだ、たくさんいる……!
地上には、ざっと確認しただけでも、マルテの想定より多くの人がいた。
ニンゲンの姿に変身した海竜のイルム、親友のリーフとソル、それからソルと並ぶようにして立つのは、リーフの父のようにも見える。そのほかにも隠れた様子の人も含め、知らない地びとの大人たちが数名いるようだ。
ラーズの目が離れた今が、脱出のチャンス……! でも、みんなは……?
この部屋を飛び出して外へ出ることをまず第一と考えるか、それともラーズを追って飛び降りて、ラーズの意識を自分に引き付けるようにするか、どちらが皆を守れることに繋がるか、とマルテは急ぎ考えを巡らす。
マルテが心を決める前に、勢いよく扉の開く音がした。
「お兄さま、今の音は、いったい……?」
屋敷の揺れに驚いたアグネーテが、部屋に飛び込んできた。開け放たれた窓、揺れるカーテン、一人立ち尽くすマルテの姿に、アグネーテはラーズの行動を理解したようだ。
「まあ! 窓が開いて……! お兄さまは、そこから下へ降りたのね……?」
マルテは、アグネーテの傍まで黙って歩いていき、その赤い瞳を見つめた。
「マルテ? どうしたの、お兄さまは、なにか言っていた――?」
マルテの唇が、開く。アグネーテの問いに答えて、ではなかった。
マルテの口から、呪文が生み出されようとしていた。
「白き羊、ひい、ふう、みい、あまたの羊、現れて、乙女を眠りへ誘わん――」
アグネーテの瞳に、驚きの色、しかしそれはほんの一瞬のことだった。たちまち、アグネーテの長い髪が揺れ、少女の体は床に崩れ落ちそうになる。マルテは、その寸前に彼女の体を支えた。
かかった……! 睡眠の魔法……!
マルテの、睡眠の魔法だった。大雑把なグランの魔法となにやら趣きが違うせいか、それともラーズより魔法の力の劣るアグネーテが相手だったからか、とにかく、睡眠の魔法は、しっかりと効いていた。マルテは、そうっと、アグネーテを床に横たわらせた。
短時間で自然に目覚める魔法だった。それでも充分だ、とマルテは思う。
部屋の扉は、開いたままだった。ビョルンとロルフが部屋に近付くような足音、気配はない。
きっと、あの二人は様子を見に、外へ向かったんだろう。
それなら、と思った。
それなら、シエンシアさん、は……?
マルテは、急いで廊下へ駆け出していた。
シエンシアさんのしている、おかあさんのネックレス――!
取り返せるかもしれない、と思った。それに、シエンシアにかけられた魔法を解くことも、できるかもしれない、と。
皆は、大丈夫だろうか……?
外の魔法の様子を探ろうと、マルテは意識を集中させたが、他の強い魔法の気配に邪魔された。
屋敷内に、外からの侵入者を攻撃するような魔法が張り巡らされている……!
それは、屋敷内に張られた罠のような魔法。危険な魔法が屋敷中あちこちに、まるで糸のように張られていると、マルテは気付く。
誰かが触れてしまう前に、魔法を解除しなくては――!
マルテはポケットから一つ、小さな魔法石の原石を取り出した。地上に行くにあたって、念のためにいくつか魔法石をしのばせておいていたのだ。それは、マルテの小さな手のひらの上に、ころん、と転がるような、魔法石の原石。
マルテは、魔法石の原石を持ちながら目を閉じて、思いを巡らす。これから自分の生み出す魔法の象徴となるもの、それを見つけようとした。
魔法を食べる、なにか動物のイメージ。そうだな、ネズミ。屋敷を駆け巡る、白いネズミ。
白いネズミを、強く心の中思い描く。それから、手のひらの魔法石に息を吹きかけ、呪文を唱えた。
「魔法の白ネズミ、現れよ……! 屋敷に巡らされし、ヒトに害なす魔法の力、すべてくまなく食べ尽くせ……!」
魔法石を、絨毯の敷かれた廊下の隅にそっと置いた。たちまち、魔法石から白いネズミが飛び出した。
どこかへ駆け去る白いネズミの長い尻尾を見送り、マルテも駆けだした。
よし。ネズミは存在し続けた。屋敷に張り巡らされた魔法より、僕の魔法のほうが、わずかでも勝っているという証拠――。
屋敷の魔法のほうが、力が上だったなら、ネズミはすぐに消滅させられている。ネズミが駆け去った、ということは、マルテの魔法が上回っており、屋敷内の魔法の解除が可能ということを表していた。
魔法石は、魔法を継続させる意味と増幅させる意味、もしくはその両方がある。効果は石によって異なるのだが、マルテの持っていた魔法石の原石は、マルテの目利きで見つけたもの、かなり良質なものといえた。
シエンシアさんは――。
マルテは、シエンシア、というより、ずっと大切にしていた母の形見のネックレスの気配を探った。
階下――。移動……、外へ、向かってる……?
シエンシアも、足早に外へ向かっているんだと気付く。迷いのない動き、きっと、外のラーズに呼び寄せられているのだろう、と感じた。
目の前に、窓が見えた。
僕も――!
マルテは窓を開け、外へ飛び降りた。それは、ラーズや皆のいる玄関側ではなく、屋敷の裏手に開かれた窓だった。
なぜ、と刑事は思った。
情報屋は、待て、と私を止めた。この屋敷のことといい――、情報屋は、なぜ詳しく知っているのだろう。まるで――、情報屋は、魔法に詳しいみたいだ。
仲間に呼び止められたのを無視し、屋敷のほうへ駆けていった者二名が、矢を射られ絶命したようだった。ラーズを取り押さえようとした自分が止められたのは、やはりあの者たちのように無謀だ、まだそのときではない、と情報屋は感じたのだろうか。
それは、イルムがシエンシアと戦う前、リーフ親子対ラーズの魔法戦が繰り広げられる前のことだった。
「なあ。情報屋。お前、なにを知っているんだ……?」
「なにかを知りたきゃ、金が飛びますぜ」
暗闇の中、情報屋はなにを今更、といった様子で肩をすくめた。
「赤髪のラーズ。あいつは魔法を使うが、しょせんは子ども。それに気を失わせれば、魔法など出せんはず。なぜ、私を止めた? 私の足が、あの子どもの出す魔法より遅いとでも……?」
情報屋は、答えない。そうこうしているうちに、目の前で、呪文を発したグランという空びとが、苦しみだした。
自らの睡眠の魔法を、ラーズに跳ね返されたのだという。
「俺の、勘、でさあ」
情報屋が、ぽつり、と言葉を発した。
「なるほど。勘、か」
「刑事さんには刑事さんの勘がある。でもそれは、あくまで、普通の事件に関して、だ」
イルムが、叫んでいた。矢を使う者が、姿を消して潜んでいる、と。
「刑事さんは、お一人で来る。薄々そうは思っていたが、実際来てみると、やっぱりなあ、って思ったよ」
「ん?」
「あんたみてえな無鉄砲なお人には、誰かついていてやんなきゃなんねえのになあ」
情報屋は、呆れたように笑っていた。
「一人で来れば問題ない。そんなふうに、むやみにお命散らさなくても、いいと俺は思うんでさあ」
まさか、と思った。
「いくら修羅場をくぐってるって言ったって……。姿を見せない矢を射る者、たとえばそんなやつだけでも、刑事さんにはとてもお相手できんでしょう?」
まさか。
「俺の勘、信じてくだされば、多少は長生きできるかもしれませんぜ」
情報屋は、へへへっ、と笑っていた。それはまったく、いつもの調子で――。
この男は、私を助けるためだけに、わざわざここへ来た――?
信じられない、という目で情報屋を見たが、情報屋は短く切った髪を、がしがし、と無造作にかいている。
「無駄話は終わり。さあ、集中しねえとな。俺の命だってわかりゃしねえからなあ……!」
イルムがラーズに向かって、駆けていた。あまりの素早さに、目を見張る。
しかし、さらに驚くべきことに、地中から飛び出した男の腕に、イルムの攻撃は阻まれる。
「情報屋」
「ん、なんだい、刑事さん」
「帰ったら、追加料金、しこたま弾むからな」
「そう来なくっちゃあ……!」
赤髪のラーズ。ついさっきまで、自分の執念で捕まえられると信じていたが、改めてあんな得体の知れない化け物を、相手にできるのだろうか、と刑事は思う。あの海竜というすさまじい力の持つ主さえ、ラーズの配下の者――地竜、とラーズは称していた――に苦戦している。刑事は、目の前の現実に、圧倒されそうだった。
咳払いをし、なんとか声を絞り出してみた。
「情報屋。今後も、よろしく頼む」
言葉を出してみると、多少気持ちが落ち着いた。もっとも、己を落ち着かせる効果だけを狙ったわけではないのだが。
「これ次第でさあ」
情報屋は、指で「金」を示すサインをした。
捕まえる、どころか自分の命もわからない。それでも――。
長い付き合いだが、ただの情報、ただの金の縁、だと思っていた。だが――、そうではなかったらしい。
刑事は胸に、熱いものを感じていた。




