第34話 静けさが続くことを
「ホットミルク、どうだい?」
ゆるやかな湯気の立つミルクを、差し出される。厚めのふちのカップの隣には、はちみつのポットも添えられていた。
声から、柔らかな仕草から、見上げなくても、微笑んでいるのがわかる。
「マルテ。今晩は興奮して眠れないだろうから。少し飲んで、落ち着きなよ」
ラーズの優しい声。ぞっとするほどに。
ヒトゴロシ。
マルテの心には、そんな言葉しか浮かばない。いくら、声が優しくても。いくら、笑顔をかけられても。
むしろ、逆効果だった。そんな態度を示されれば示されるほど、背筋が凍った。両親の仇、そして大量の人々の命を奪って笑っている、そんな悪魔のような存在に、ほんの少しでも心を向けられるわけがなかった。
アグネーテたちは、食堂を出ていた。空の国の警官たちの全滅を目の当たりにし、パニック状態だったマルテを気遣い、ふたたびラーズとマルテ、二人きりにさせたようだった。シエンシアは、アグネーテに誘導されて出ていったようだ。
「おや」
ラーズの声色が、変わる。なにか意外なことに気付き、驚いているようだ。マルテは、ラーズのほうを見た。
「たくさん、入ってきたな」
たくさん、入ってきた……?
そのときマルテには、ラーズの言った言葉がなにを意味しているのか、すぐに理解できなかった。
「地上から、侵入。しかも、たくさん……。空びとの魔法、かな? ううん、空びとだけじゃない、なんか色々――?」
腕組みをしていたラーズだったが、はっ、として手を打っていた。
「ああ! そうか! きっと、あの君の友人たちか……!」
さっ、とマルテの全身から血の気が引く。
リーフたちだ……!
「なんか増えてるっぽいけど……。ふふ、マルテ。君はとても愛されてるんだね――」
だめだ……! リーフ、イルムさん、ソルさん……! 来ちゃ、だめだ……!
マルテは、立ち上がった。恐ろしい映像が、目に浮かぶよう――。
「うあーっ!」
マルテは、大声で叫んだ。
ラーズの赤い瞳が、涼やかな目が、驚きでいっぱいになる。
「あー、あー、あーっ!」
マルテは、言葉にならない声を発した。下ろした拳を握りしめ、天井を見上げ、繰り返し大声で叫び続けた。
「どうしたんだ、マルテ! 落ち着いて……、ああ、そうか、大好きなお友だちがみんな死んじゃう、そのショックに――!」
ラーズは、マルテを抱きしめた。マルテの声は、止まらなかった。
「う、わー! あーっ!」
「マルテ、落ち着いて、マルテ……!」
強く抱きしめ、ラーズが必死に呼びかける。
「う……」
マルテの声が、止んだ。
「ああ。マルテ、かわいそうな、マルテ――」
ラーズは、ただマルテを抱きしめ続けた。
「大丈夫だよ、マルテ。僕らがいるから。みんないなくなっても、僕らがいるから――」
よしよし、よしよし、ラーズはマルテの頭を撫で続けた。
マルテの目は、うつろだった。
「さあ、マルテ。座って」
マルテを抱えながら、椅子に座らせた。
ラーズは、ハニーディッパーではちみつをすくい、ホットミルクにたっぷりといれてあげた。
「ゆっくり飲んで。落ち着くから」
マルテは首を回し、ラーズを見る。
「う。あ」
「そう。おいしいよ。もう、飲みごろになってるから」
ラーズがマルテの口元に、カップを運ぶ。
マルテは、ゆっくりとカップに口をつける。
「あ、まい……」
「そう! 甘いよね、よかった……! マルテ、おいしいよね……!」
マルテは、時間をかけてもう一口すすり、うなずいた。
ゆっくりと、不自然じゃないくらいに。
不自然じゃ、ないよね。
ラーズの微笑みは、続いていた。マルテの心が落ち着いた、そう安心しきっているようだった。ラーズは、色々と話してきた。アグネーテもはちみつ入りのホットミルクが大好きなこと、それを飲めば不安な夜も落ち着くこと、寒い夜にホットミルクの湯気を挟んで笑い合って過ごしたこと――。
気付かれなかった、よね――。
マルテは、心の中で安堵のため息をつく。
作戦、だった。
気がふれたように叫んだ。それは、魔法を送っていること、それをラーズに気付かれないために――。
「あれがラーズの屋敷……!」
ニンゲンの青年の姿に変身中の海竜のイルム、空びとの少年リーフ、リーフの父グラン、地びとの旅人ソル、それからラーズの追跡者たちは、ついに魔法の扉を抜け、屋敷を目の前にした。
皆の足が、止まっていた。
「戦場の匂いがする……!」
そう声を上げたのは、ソルだった。辺りは、不吉な匂いが充満していた。リーフがたまらず咳き込み、グランがリーフを抱きしめ、背をさすった。グランはリーフに、ここでも空の国に帰るよう促したが、リーフは頑として首を縦に振らない。
「きっと、砲撃だ……。もしかすると、空の国の警察は――」
ソルの言葉が、そこで止まる。奪われたであろう多くの命は、空の国の警察である、そう考えているようだった。
ホウゲキ。
海竜であるイルムは、ソルの言わんとしていることの意味のすべてはわからなかった。異様な匂いから、ここで多くの命が奪われたばかりであることはわかった。そして、「ホウゲキ」。なにか、聞いたことがあるぞ、と思った。
うーん、とその場で腕組みし、思い出そうとした。確か、海で、地びとたちが――。
「ああ、そうか。わかった。海にいた地びとが、そう叫んで、そのあととんでもない轟音と衝撃が――」
イルムは、海賊船同士の争いを見たときのことを思い出した。「ホウゲキ」と叫んだあと、両方の舟から恐ろしいなにかが放たれていた、そんな光景を波間から目撃したことがあったのだ。
「地びとの武器か!」
グランが、ようやくわかった、とばかりに叫ぶ。
「でも、それだけじゃないな。なにやら魔法の気配も感じる。ラーズという少年、恐ろしい男だな……」
屋敷に明かりが灯っている。空の国の警察がどうなっているか、突入できた警官たちもいるのか、イルムたちにはわからない。ただ、外から見上げる屋敷は、静まり返り、なにも異常がないように見えた。
「うかつに近寄らないほうが――」
グランとソルが、そう話していたときだった。
「マルテ!」
リーフが叫んでいた。
「今、マルテが遠隔の魔法で僕の心に話しかけてきてくれた……!」
マルテは、近距離なら遠隔の魔法で心に語りかけることができるようだった。魔法といっても人それぞれ、得意不得意、できるできないがあるものだが、マルテはすべてにおいて一定以上の成果を出せるようだった。
「えっ、マルテは、なんて……?」
ソルが、リーフの両肩を掴んで尋ねる。
「空の国の警察たち、みんなラーズのしかけで殺されちゃったって……! 地上の最新武器に、魔法を使ったんだって……! だから、近付くとすぐ術が発動して狙ったように砲弾が飛んでくるって……!」
「やはり、そうか……!」
リーフは、涙ぐみながら、続けた。
「だから、来ちゃだめって……! 僕は元気で無事だからって……!」
マルテは、束の間かもしれないが、とりあえず安心していた。
リーフに、伝えられた。
きっと、ラーズは気付かない。
遠隔魔法を使おうとしていると気付かれたら、通信を邪魔されただろう。さらに、あれ以上演技を続けたら、魔法で無理やり眠らされてしまっただろう、マルテは、ラーズが対処できないぎりぎりのところで、錯乱したふりをしていた。
「おかしいな」
ぎくり、とした。
ラーズが、なにかに気付いた……?
心臓の鼓動が、速くなる。
「いつまでも、静かだ。武器が、全然発動しない……。あの子たち、なにかに気付いた、かな……?」
ラーズは、ふうむ、とうなった。
「わざわざここまで来て、ただ引き返すわけもないか……。まあ、引き返すなら引き返すで、別にいいんだけど……。なにか、作戦とか考えとか、あるのかな」
とんとんとん、ラーズの細い指が、テーブルを叩く。
リーフ、みんな、早く、帰って……!
祈るような気持ちだった。自分一人なら、時間がかかっても、きっといつかは逃げ出すことができるはず、そう思っていた。
ラーズが、立ち上がった。
まさか……! ラーズ自ら外へ……?
どきん、とした。ラーズ自身の強さは、未知数だった。しかしできることなら、みんな、この恐ろしい地からなにごともなく離れてほしい、マルテは汗ですっかり濡れた手のひらを握りしめる。
「まあ。待ってみるか。侵入者たちが、あの武器たちを通り抜けることができるか。いい実験かもしれない」
ラーズは赤い髪をかきあげ、自分用の紅茶を淹れる。
ホッとした。
よかった。様子を見ようと外へ行くんじゃ、ないんだ。
「ふふ。マルテ。心配しなくて大丈夫だよ。すべて一瞬、みんな苦しまないよ。だから、大丈夫。それに君自身の寂しさなんて、すぐ忘れちゃうからね――」
偽りの空の中、形だけの星は、またたき続ける。
静けさが永遠に続くことを、マルテはただ願い続けた。




