第31話 とってもあたたかい家族
怖い思いは、嫌なの。痛いのも、苦しいのも。
ぐつぐつ、ぐつぐつ、大きな鍋が音を立てる。
アグネーテは、丁寧にアクをとってから、束ねたハーブを入れる。
新しい家族は、とってもあたたかい。
恐怖も苦痛も、寂しい思いも、ひもじい思いも、もうなかった。
今日はいつもよりうんと多く、スープをこしらえなくちゃ。
マルテとシエンシア、さらに家族が増えたから。
いつもより多く調味料も入れなくちゃだわ。マルテとシエンシアは、どんな味がお好みなのかしら?
たぶん、濃い目に作れば間違いはないと思う。万人向けのお店の味は、皆しっかり味付けがしてあるものだから。ふたりの反応はどうかな、今夜の食卓が楽しみ、と小さな胸を弾ませた。
アグネーテは、料理が好きだった。不在がちな両親と兄のため、幼いころから家事は一通り身につけていた。
お兄さまは、小さなころから外で働かされていた。おうちが、貧しかったから――。
両親と兄が働いても、家は貧しいままだった。
アグネーテは高熱を出し、数日にわたり生死の境をさまよったことがある。
母の魔法によって、アグネーテは劇的に回復した。
それから一か月ほど経った深夜、目が覚めて怖いながらも一人でトイレに向かっていたとき、リビングから両親の会話が聞こえてきた。
「また仕事がだめになった」
疲れた父の声だった。
「お前が――、魔法なんか使うから……! 知られてしまったんだ、お前が空びとだって……!」
父の、母を責める声。
「せっかく、故郷を捨て、住まいを転々としてからようやくこの田舎にたどり着いたのに、また台無しじゃないか……!」
ごめんなさい、ごめんなさい、と母は泣いていた。
「だって、お医者さまに診てもらうお金がなくて――」
「隣の家の娘も、お前が治療したっていうじゃないか……!」
アグネーテも隣家の娘も、同じ流行り病だった。隣家の娘は、診察を受けたが一向によくならず、隣家の家族は皆憔悴しきった様子だった。母は親切心から、隣家の娘に対しても魔法を使ったようだった。もちろん魔法であるとは明かさず、よく効くまじないだから、少しは楽になるかも、ということで施した。
隣家の家族に、悪意などはなかったのだろう。回復した隣家の娘とアグネーテは仲よく一緒に遊んだし、隣家の住人たちには顔を合わせるたび、アグネーテにまで礼を言っていた。
しかし、噂は広まった。
田舎。どこからかやってきたよそ者一家。怪しげな魔法を使う、素性のわからない者たち。周囲はアグネーテ一家を、冷ややかな目で見る。
隣家の人々の、「奇跡」を純粋に喜ぶ姿は、悪意の中、曲解され誇張され、広まっていく。それは、隣家の家族も予想外の波紋だったに違いない。
『気味が悪い』
隣家の家族やその親しい人々は、アグネーテ一家をかばったし、単なるまじないなんだと説明してくれたが、一度かけられた色眼鏡が外されることはなかった。
そのあと父は、なんとか新しい仕事を見つけたが、よい仕事ではなかったようだった。
父親の酒量が増えた。家の中、なにかを叩きつけるような音が響くようになった。両親の争う声が、聞こえるようになった。
「アグネーテ。大丈夫だよ」
兄の抱擁が、アグネーテの耳と目をふさいでくれた。恐怖と不安で震える心を繋ぎとめてくれた。
父の暴力が家を支配するのは、それから間もなくのことだった。
兄は父の暴力に抵抗したが、兄自身、学校や仕事で不在の時間もあり、母やアグネーテを守るには限界があった。
兄、ラーズの笑顔の時間が減っていた。兄は変わらず学校にも仕事にも黙って通い続けていたが、決してよい時間を過ごしているようには見えなかった。
「ごめん」
謝る父。父が、優しい日もあった。穏やかな時間が流れることもあった。
しかしそれは、気まぐれな秋の日差しのようだった。
父親が、誰かの甘言にのってしまったらしい。家が、ますます傾いていく。
「ラーズ。アグネーテ。もう、泣かなくていいわよ――。ごめんね、今まで辛い思いをさせて。でも、それももう――」
母は、笑っていた。笑っているように、見えた。母の口から、魔法がこぼれだす――。
「アグネーテ! 走れ……!」
兄が、ラーズが、アグネーテに命じた。そしてすぐさま、ラーズは呪文を叫んだ。
母の呪いを、消し去るように。
家が、光に包まれた。家じゅうが、強い魔法であふれていた。
そのときは、なにが起こったか、どうなっていたのか、アグネーテにはわからなかった。
母の放ったのは、「死の呪文」だった。
母自身も、ラーズも、アグネーテも、死へ導いてしまう恐ろしい呪文――。
追い詰められ、疲れ切った母は、愛しい子どもたちと心中しようとしていたのだ。
ラーズの魔法が、母の呪文に打ち勝った。
「アグネーテ。なにも見なくていい。知らなくていい。怖いことを知らなくていいんだよ。これからは、僕たちだけで、家族を作ろう」
それから、母の姿も、父の姿も、見ていない。
「皆、地びとと空びとの間に生まれた子、と後ろ指を指す。魔法も使えない、無力で愚かな連中のくせに。父と母――、あいつらは、僕らのことを、真の愛で生まれた、なんて妄言を言う。ただ、勝手に僕らを生んだんだ。自分たちの欲望のために。この恐ろしく狭く悪意に満ちた世界に」
ラーズは、言った。
「アグネーテ。僕の言うことだけ、信じればいいんだ。僕らだけで、幸せを作ろう」
家を出た。田舎の町を出た。
そして「大きな兄」ビョルンと、「兄」ロルフと出会った。新しい兄たちが自分たちと同じような境遇であることは、すぐに、わかった。そして、「兄たち」を、親子という「血」の呪縛から解放する。
各地で魔法石を集めながら、マルテのことも、知った。
そして、今、大きな家族としてこの屋敷に根を下ろす。
「アグネーテ様。夕食のご用意、手伝いましょうか?」
ビョルンが台所に来た。ビョルンとロルフは、なんど「アグネーテ様はやめて」と言っても、その呼びかたと敬語は改めてくれない。
漆喰の白壁に灯る夕日のオレンジは、変わらぬ平安を約束しているような気がした。
「人数が増えてしまって、下ごしらえも大変でしたでしょう」
「大丈夫……。あっ、もうちょっとしたら、味見、してくださる?」
スープの濃厚な香りの中、あたたかな笑顔が自然と浮かぶ。
ビョルンの話では、シエンシアは部屋でぼうっと突っ立っており、ロルフが彼の様子を見ているとのことだ。シエンシアの様子に、変化はないらしい。
「シエンシアもマルテ君も、きっと気に入ると思います」
味見をしたビョルンが、小皿のひとすくいのスープに、穏やかな笑みを浮かべていた。
視線を感じる。
ニンゲンの青年の姿に変身中の海竜のイルムは、南の丘へ向かう道中、誰かの視線を感じていた。
路地の向こう、家の角、木々の間――。どこからか、自分を見つめる目の存在。
情報屋か。あの警察とやらか。それとも――。
星の下、黒いシルエットの木々が、ざわざわと揺れる。
「イルム君っ。俺自身の安心のため一応確認するけど、もう、全然気にしてない、そうだよねっ?」
リーフ父。「俺自身の安心のため」って……。
それ言っちゃうんだ、と思った。唐突な「リーフ父」の大声に、イルムの意識が中断される。
「水に流してくれた、いや、海だから海に流してくれた、そう思って、オーケー?」
オーケー、の語尾がやたら上がっていた。
なんかムカつく。
「お父さんっ!」
父親をたしなめる、息子リーフ。
イルムはリーフに、大丈夫、ありがとうの目配せをしてから、
「それどころじゃないだろう」
少々呆れ声でそう述べてから、おまけとして、じろっと「リーフ父」をにらんだ。
「ああっ」
頭を抱え叫ぶ、「リーフ父」。いちいち言動が突然で、わけがわからない。
どうした、リーフ父。
声に出すと、喜んで絡んできそうで面倒なので、心の中だけで一応尋ねてみる。
「そういえば、自己紹介がまだだったねえ! いやあ、失敬、失敬! 俺の名は、グランだ! よろしくな、イルム君、ソル君! あっ、リーフ、そんなに怒った顔するなよ……」
視線を、感じるのだが……。
自分を含め思いっきりそれぞれの名を明かしてしまう、リーフ父のグラン。もれなく全員ぶん、高らかに発表していた。
名前バレ……。
確実に、複数の何者かがイルムを見つめ、そのあとをつけていた。




