第30話 心の声は
『助けてやってくれ。きっと、あんたならできるはずだ。泣くやつを、苦しむやつを、出さないように。日の光の下だろうと日陰の道だろうと、当たり前に暮らしている連中が、これまで通り当たり前に暮らせるように』
誰にも知られない声が、心の奥で訴えていた。本人すらも気付かない、深いところの心の声だった。
『だから、あんたに一番早く伝えたいんだ』
日々堆積していく後ろめたさ、罪の意識。密かに心を押しつぶしていく。だから一層、声なき声が生まれる。
天秤にかけるなら、己の命をおびやかさないほう。なるべく安全なほう。
これが、その男の建前だった。
「一番最初は、刑事さんだな」
世話になっているから、そんな理由からだと、男は思っていた。
それが、ささやかな自分なりの仁義だ、と。
ずっと、変わらず追っているからな。たぶん、あの事件の担当は、もう外れているのだろうが――。
男は、知っていた。刑事が、自分の手柄のためというより、被害者や遺族のため、事件を解決させたいという執念で動いていることを。
足が、自然と速くなる。夕暮れの街を、吹く風のように。
『俺は、情報屋だ。俺が、なにかの、誰かのためにできうることは――』
刑事が事件を追うことが己の証明であるように、情報屋は情報を伝えることが己の命の証明だった。
『あんたのその熱意が、報われるために――』
男は、走る。絶え間ない心の声に耳を傾けることなく。
「俺は情報屋さあ。情報で、飯を食ってるからなあ。飯に化けるもんは、とことん使わせてもらうつもりさあ」
身の丈の欲に忠実な男と自称し、己の中、奥深い底のどこか、己を動かし続ける密かに燃える炉の存在には気付かず、ただひたすらに、人の波を縫うよう駆ける。
ニンゲンの青年の姿に変身中の海竜のイルムも、地びとの旅人ソルも、空の国へいったん戻った空びとの少年リーフも、知らない。
もちろん、ラーズたちも、ラーズたちのいる屋敷に連れ去られたマルテも、知る由もない。
「銀の長い髪の男が、南の丘に向かうはずだ。そのあとを付けていけば、魔法で隠されたラーズたちの潜む屋敷へたどり着ける」
そんな情報が、裏街道でひっそりと、一人の男によって売られていた。
「へへっ、まいどあり」
情報屋は、膨れた財布に頬を緩めた。情報屋の足は速く、すっかり日が落ちるころには、この町の顧客のもとをまわり終えていた。
情報屋は、親切にも客たちに情報を提示する前、忠告をしていた。
「赤髪の小僧の屋敷は、行きも帰りも魔法で閉ざされている。相手は人を殺める魔法使い、屋敷にどんな罠がしかけられているかもわからねえ。危険を承知で、屋敷へ行くおつもりはありますかい……?」
客たちの何人かは、情報を買わなかった。盗まれた魔法石を取り返したいと思う者、新たに魔法石を手に入れたいという者も、相手のアジトに直接向かう、しかもそれが得体の知れない屋敷、というのはあまりに無謀だ、と判断したようだった。
結局、情報を買ったのは二人だった。
「いくらだ」
わし鼻の刑事、それからラーズによって顔なじみを殺された男が、情報を買った。
「南の丘? あそこには近寄らないほうがいいよ。昔はなんでもなかったのに、なぜか何時間も道に迷う、来た道を戻るしかない、不気味なところになっちまったよ」
ソルとイルムが町の人に聞いたところ、そんな答えが返ってきた。
やはり。
イルムは、腕組みをした。南の丘という場所は、人々から近寄るのさえ恐れられているところになっているようだ。
ソルが、どうしても知りたいんです、とさらに食い下がっていた。
「南の丘へ向かう道だけでも教えていただきたいんですが……」
「まあ、道を教えるのは別に構わないけどね。あっち方面に行くには、なにがあるかわからないから、くれぐれも気を付けてね」
親切な女性に適切なルートを教わり、礼を述べた。女性が丘のほうを指し示してくれたが、町からそんなに離れてはいなかった。
「さて。リーフ。すぐに空の国へ飛んで行ったけど、いつ戻ってくるかな」
前髪をかきあげつつ、ソルが空を見上げた。もうすっかり辺りは薄暗い。
不意に、ひゅん、ひゅん、と音がした。
え。
「ええと……。ただいま。イルム。ソル……」
一瞬にして目の前、リーフがいた。飛んで行ったとき同様、一瞬でこの場に来たようだ。しかしリーフは、どうしたことか口調も戸惑いがちで、なんとなく縮こまっている感じだった。
さらになぜか、リーフの後ろに、誰かがいる。その人物も、リーフと一緒に空から降りてきたようだ。
え。誰だ。
背丈が高く、がっしりとした男性だった。
「いやあ、君がイルム君かあ! いやあ、すまなかった! ほんとに! ごめん!」
大声で頭を下げて謝る、男性。謝りつつも軽快な様子で白い歯を見せる男性は、リーフと同じ、金髪で青い目の――。
「あの、僕の、お父さん、です」
リーフが、いかにも申し訳なさそうに紹介した。イルムを封印した当の本人、リーフの父だった。
あの小僧……!
二十年前の、リーフと同じくらいの少年だった姿を、イルムは思い出した。
「つい若気の至りでっ! 君を封印しちゃって、本当に悪かったと思ってる!」
本当に、悪かったと思っているんだろうか。
あまりに明るく、茶目っ気たっぷりとさえ思える笑顔。悪びれない。悪びれて、なさすぎる。
「お父さんっ! ちゃんとイルムに、謝って!」
「はい。ごめんなさい。すみませんでした。あのときは、腕試しの一環で……」
リーフに叱られ、ようやく小さくなる父。
こいつが、私を――。
「ああ。イルム君。許してくれ、とは言えないな。なんなら――、君の気がすむのなら、今の俺と改めて勝負してみるか?」
「お父さんっ!」
さすがに、リーフにたしなめられた。
こいつが、リーフの父……。
『よい悪いは自分の立場から判断するもの。お前がよいと思えるのなら、父親は「よい」のだ』
リーフに出会ったばかりのとき、イルムはリーフにそう語った。
私の。今の私の判断としては。
イルムは自身に問いかける。自分の心を、見つめた。
怒りなら、そんな余裕はないはずだった。驚きはあったが、怒りはなぜか湧いてこなかった。
登場のしかたがあんまりだったから、怒るタイミングを逸したのか……?
リーフは、イルムを見つめる。イルムが怒り出さなかったからか、リーフはイルムとソルに、事の顛末を打ち明けた。
「あのね。マルテのおばさん、それから警察にも話したよ。おじさんは仕事でいなくて、マルテのおばさんにしか話せなかったけど……、おばさん、すごく動揺して具合悪くなっちゃって……。おばさんの代わりに、僕がおじさんと警察に連絡したんだ。警察の指示では、おじさんは自宅にいるようにって。おばさんは、かわいそうに寝込んでた。警察は、たぶんすぐに動くと思う。それで、僕はすぐ地上に戻ろうとしたんだけど……」
「俺に見つかっちゃったんだよな」
父が、リーフの肩に分厚い手のひらを置く。
「そう。見つかっちゃった……」
イルムの表情をうかがうように、リーフはイルムを見上げる。リーフとしては、イルムに申し訳なくて、イルムと父を会わせたくなかったのだろう。リーフ父は、そんな息子の様子を知ってか知らずか、大声を張り上げた。
「イルム君! ソル君! 俺が来たからには、もう安心だ! さあ、リーフ。お前はもう帰りなさい。あとはお父さんがイルム君たちと一緒に、マルテ君と地竜のシエンシア君の救出を……」
「やだよ! 僕、帰らないよ……!」
リーフは、必死に叫ぶ。
リーフの代わりに父が……?
イルムの銀の瞳は、月の光のような静けさをたたえたまま。
私の、今のリーフ父への思いは。
言い合う親子を見つめながら、考える。自分の心の声に、耳を澄ませる。
「そうか……! なんと勇敢な子だ……! 我が子ながら、なんと優しく漢気のある……!」
我が子を称えつつ、ひし、と父は抱きしめた。
「ぐえ」
リーフから、変な声が出た。
リーフ父。
イルムは、ため息と共に、ようやく言葉を絞り出す。
「悪ではないが、変。変なやつだ」
指差して、言い切っていた。
怒る気も、失せる。
もう一度、ため息をつく。こんなやつに、怒るだけ無駄だ、と。
封印されていた身。しかし、強い者が勝者となる、自然の厳しさというのも、イルムがリーフの父を受け入れる下地となっていた。
だが、イルムは、気付いていない。リーフたちと過ごした時間が、封印の空白となった二十年というものを凌駕する、思いや体験となっていたことを。
「イルム君―!」
「ぐえ」
今度はイルムがリーフの父に抱きしめられ、変な声を出す番となっていた。
リーフが、ほっとしたように笑い、ソルも肩をすくめて笑う。
空には、一番星が灯り始めていた。




