第29話 どうして
「途中からずっと、起きていたね」
シルバーのティーポッドから注がれた香りのいいお茶が、差し出される。湯気を立てた紅色の茶の表面は、揺れることもない。丁寧だが無駄のない仕草だった。
「わかっていたのですか」
マルテは、美しい少年を見据えた。
「飲んで。毒じゃないよ」
微笑む赤い髪の少年。ラーズだった。
アーチ窓から見える景色は、夕暮れの森。時を止めたような静かな部屋にいるのは、なぜかマルテとラーズ、二人きりだった。
「僕の術が、完全に効かなかったところを見ると――、君はたぶん、いつだって逃げ出すことができた。そうだよね?」
ラーズは、カップに口をつける。味わう間もなく、ちらり、マルテを見つめた。その瞳に、かすかな鋭さが入る。
「今だって、そう。本気を出せば、この屋敷から脱出できる。君はきっと、純粋な空びとに匹敵する実力を持っている」
「さあ。それはどうでしょうか」
マルテは、ただまっすぐラーズの赤い瞳を見つめ続けた。
「僕に、そんな力があるかどうか」
「ふふっ、謙遜しなくていいよ」
鳥の声も、風の音もしなかった。壁にかけられた大きな時計の時を刻む音が、沈黙を数えている。
魔法だ。
マルテは思う。この屋敷を囲む森一帯、魔法によって外部と切り離されている、と。窓から差し込む美しい夕日の柔らかなオレンジも、実際の日差しとは異なるのかもしれない。外の明るささえ、ただ自然であることを装う、舞台装置に過ぎないのだろう。
屋敷を中心に、同心円状に魔法が広がっている感じだ。屋敷は特に、脱出も侵入も困難。そして森から出るのも、難しいかもしれない。
しかし、不可能ではない、と同時に感じていた。まだ糸口は見つけられないが、魔法のほころびを生じさせ、脱出することは可能かもしれない、と思う。
「返してください」
マルテは、ただ一言そう述べた。
「ネックレスを……?」
「そうです。僕の大切なネックレスです。あなたがたが、持っているのでしょう?」
ラーズは人差し指で、自分の長めの髪を、くるくると巻く。
「その必要は、ないと思うな」
ラーズの薄い唇が、かすかに持ち上がる。
「君が僕らの家族になったら、ネックレスは君と離れることはない。今は――、シエンシアの首にあるけどね。でも、直接君がつけてなくても、いつも身近にあるってことで、それでいいんじゃないかな? それに」
マルテは、黙っていた。ラーズの言葉を、ただの音として耳にしていた。
「自分勝手な親たちのことなんて、忘れちゃったほうがいい」
いち、に、さん。
マルテは、心の中で数を数えた。時計の音が、手助けしてくれた。
し、ご、ろく。
抑えていた。怒りを。表情が、怒りに染まるのを。今にもラーズを怒鳴りつけよう、上品な白シャツの襟首を掴み上げよう、もしくは美しい線を描く頬を殴りつけよう、という激情を。マルテはすべてを、自分の意識の管理下に置くよう、必死で努めていた。
テーブルクロスの下、自分の両手のひらを握りしめるだけでは、全然足りなかった。
「で」
で、とラーズは言葉を区切る。
で、とはなんだ。
心で数えた数が十のくらいを過ぎたとき、ラーズの「で」という言葉がどこからきたのか、マルテは疑問に思う。
「それで。どうして君は、黙ってここに連れてこられたの? ネックレスを返してほしい、それだけの理由にしては、危険すぎない?」
『両親を殺した犯人の捜索はしない』
『誓約の魔法』があるからだった。自分からは捜索できない。それならいっそ、いったんおとなしく連れてこられ、そこから隙を見て、形見のネックレスだけでも奪い返そうと考えていた。
そのほうが……、囚われてしまった以上、表面だけ従ったほうが、リーフやソルさん、イルムさんを危険な目にあわせないですむかもしれない。
「もしかして、潜入捜査って感じ? おとなしく内部に入って油断させて、ネックレスを取り返すなり、僕らをやっつけるなり、するつもりだった?」
ラーズが先回りして答えていた。そう言われれば、そうです、とは言い難い。
「いえ。話を聞きたい、と思ったのです。あなたがたが――、なぜ僕に狙いを定めたのか。理由を知りたいと思いました」
嘘ではなかった。そういう思いも確かにあるため、すらすらと言葉が出た。
「僕の夢であり、生きる理由だよ」
紅茶を口に運び、カップをソーサーに置いてから、ラーズはそう告げた。
「空びとと地びとの間に生まれた不幸な僕ら。望んでもいないのに、生まれてしまった僕ら。そんな僕らが権力を得て、やがて僕ら中心の住みよい、新しい平和な世界を作る。僕の、夢なんだ」
どうして。
どうして、とマルテは思った。
「僕らのような不幸なニンゲンを、救い出す。本当は、魔法の力を持つ僕たちこそ、優れた能力者であり、世界の中心であるべきなんだ。でも、数が圧倒的に少ないからね。僕らがもっと力を得るには、なんといっても魔法石だ。だから、魔法石を集めるのも重要なこと。だいぶ集まったけど、世の中を覆すまでにはまだまだ必要だと思う。あ、君と一緒にいた空びとの子、リーフ君。彼に、空の国から魔法石をなるべく多く持ってきてもらえないかなあ? 君は僕らの大切な家族だから、君の解放とは交換条件にできないけど、なんとか君からお願いって形で――」
「どうして」
マルテの口から、思わず出てしまった言葉。
「なに?」
マルテは、膝の上の拳を握りしめる。「どうして」に続く疑問を、急いで別な疑問に取り換えた。
「どうして……。その……、あなたのお兄さんたち、それと、屋敷内に今、妹さんもいらっしゃるとのことでしたが……。この部屋にはいないのですか? あと、シエンシアさん、も……」
ああ、そんなことか、とラーズはうなずく。
「大きな兄さんと兄さん、それから、妹。彼らは、簡単に感情を表に出しちゃうからね。君の態度次第によっては、君とぶつかってしまう可能性がある。僕らはこれから長く一緒にいるべきなんだ。だから、不要な衝突の起きないよう、まずは君と僕が話し合う時間、お互いをわかり合う時間が必要と思ったんだ。それから、シエンシア。彼はちょっと不安定だからね……」
きっと、みんなとはすぐに親しくなれる、ちょっとした時間が必要なだけだよ、とラーズは勝手なことを述べる。
『どうして』
ずっと、頭の中を巡る「どうして」。
マルテは、心の中で叫ぶ。
どうして……! 僕が不幸だなんて、望んでないのに生まれただなんて、言うんだ!? 僕はとても幸せだったし、おとうさんとおかあさんの間に生まれてきてよかった、そう思っていたんだよ!?
握りしめた両の小さな拳が、震える。
どうして! 僕の大切なおとうさんとおかあさんを殺したの!? そんな勝手な理由だけで……!?
胸が苦しかった。心の中から湧き上がる激流のような感情に翻弄され、今にも倒れてしまいそうだった。
息を深く吸い、息を深く吐いた。マルテは、心の中で呪文を唱える。
心の扉よ、光の静けさを。我に。
このままでは、爆発してしまいそうだった。実際の言動面でも、魔法面でも。特に、魔法。力の暴走は、屋敷ごと破壊しかねなかった。
すべてを台無しにする前に、マルテは魔法で自身の心を閉ざす。
「あれ。マルテ……。泣いてるの?」
ただし、頬を流れる涙は止められなかった。
「いえ。少し……。混乱しているだけです」
「そう。すべてが急すぎたからね。紅茶を少し、飲むといいよ。それから、焼き菓子も」
自分は、なにかを答えたのだろうか、黙っていたのだろうか。
よくわからない。ぼんやりと、温度を下げつつある赤い液体に目を落とす。
魔法で心を守る中、マルテはラーズの言葉を単なる音として捉えることに成功していた。




