第26話 人々の敵となるのなら
イルムは大丈夫。強いから。優しいから。
青空が、どこか遠く冷たく感じられるのは気のせいだろうか。空びとの少年リーフは、地びとの旅人ソルと共に、墓地の中、ひた走る。
早くイルムのもとへ、と。
「あっ……!」
小さな花を咲かせた木のところで、リーフの足が止まる。墓石と墓石の合間から、見えている人影。それが、想定より多い。
イルムと少女。あともう一人は、誰……?
なぜか、長い黒髪の男性がいる。リーフが戸惑っていると、視線が一斉にリーフのほうへ向く。
「イル……!」
イルムの名を呼びながら、イルムのほうへ駆け寄ろうとしたそのとき、ソルの腕がリーフを制した。
「リーフ。待て。なんだか、様子がおかしい」
イルムが捕らえていると思った少女は、平然とした様子でイルムと並んでいる。そして黒髪の男性は、こちらに顔を向けているが視線が定まっていないよう、立っている姿勢もどこか不自然で、精気がないように思えた。
しかし、一番の違和感は他にあった。
イルムが――、その黒髪の男性とまるでそっくりな様子で、ぼんやりとした感じで佇んでいたのだ。
「イルム」
リーフとソルがためらっている中、イルムの名を呼んだのは、どういうわけか謎の少女だった。
「あれが悪いニンゲンたちよ。やっつけちゃって」
少女はふてぶてしい笑みを浮かべつつ、顎でリーフとソルのほうを指し示した。
なにを……!
少女の言葉の意味が、わからなかった。自分とソルのことを、「悪いニンゲン」と言い切ったのも意味がわからないし、イルムに命令したのも意味がわからない。
イルムが、言うこと聞くわけないのに――。
「リーフッ!」
青い空が、見えた。なにが起きたのか、リーフにはよくわからなかった。風を感じ、どっ、と鈍い音がしたような気がする。ソルの叫び声が、耳元で聞こえる。
「イルム! 正気に戻れっ!」
ソルの声が単なる音でなく言葉として認識できたとき、遅れて現状を把握する。
イルム……!
墓石を飛び越えたイルムが、着地するなり身を屈めながら突っ込んできて、リーフに殴りかかってきたのだ。イルムの拳が届く一瞬前、ソルがリーフを両手で抱え上げるようにし、その場から飛び避けていたのだった。
イルムは、というと、木に己の拳を叩きつけた状態で動きを止めている。リーフに当てそこなった拳が、流れのまま幹に当たったようだ。先ほど聞こえた鈍い音は、木の幹に拳が当たった音だった。
そんな……! どうして!? イルムが僕を……!
少女は、くすっ、と笑う。
「じゃあ、イルム。あとはお願いね。私は、お兄さまに呼ばれたから、もう戻るわ」
なんだって……!
めまいがするようだった。イルムは少女に操られている、そんな恐ろしい可能性が、リーフの頭をかすめる。
「嘘だ……! イルムは、僕の友だち、親友なんだぞ……!」
「あら。残念ね。ついさっき、イルムと私はお友だちになったの」
信じたくなかった。なにかの間違いであってほしいと願った。しかし逆に、少女の言葉が嘘だとしたら――、イルムの攻撃がイルムの意思ということになる。やはりリーフは、否が応でも現実を認めるしかなかった。
「イルム。あとで呼ぶから。じゃあ、シエンシア。私を運んで」
少女は、黒髪の男性に向かって、運ぶよう命じていた。シエンシアと呼ばれた男は、軽々と少女を抱え上げる。
シエンシア……!?
その名前は、と思った。それから、ハッとした。リーフの魔法の感覚が、あの男性はニンゲンではない、と告げていた。あれは、魔法石を使って変身したなにかなのだ、と。
それじゃあ、あのときの……!
地竜だ、とリーフは気付く。少女の言いなりになっているのは、あの友好的だったはずの地竜のシエンシアなのだ、リーフは愕然とした。
「ふふ、かわいそう。あなたたち、かわいそうね。大切なお友だちに、裏切られて」
少女は、歌うようにそう語りかけ、そして、
「そっちのあなたは、空びとでしょうけど、私の得意なこの魔法、解けるかしら? ちょっと気になるけど、怖い場面、なるべく見るなってお兄さまに言われてるから、私は行くわ。でもイルム、手加減してあげてね。私の心って、とっても繊細なの。かわいそうなこと、苦手なのよ」
シエンシアに抱えられた状態で、リーフたちのほうを見ようともせず、少女は肩をすくめた。
「待て……!」
ソルが叫んだが、少女を抱えたシエンシアは、風のような速度で駆ける。あっという間に、少女とシエンシアの姿は見えなくなった。
「リーフ、イルムを元に戻す魔法はあるかっ!?」
ソルがそう問いかけながら、リーフの盾になるよう前に出た。まだイルムは、ぼうっとしているようで、木の前から動かないが、いつ襲ってくるかわからない。
元に戻す魔法、操る力を断ち切る呪文は……!
リーフは急いで考えを巡らす。自分の中から、適切な魔法を探す。
見つけた……!
リーフは呪文を頭の中で組み立て、そして叫んだ。
「偉大なる海竜のイルム、思い出して……! あなたの心は、魂は、何者にも支配されない、いつだって自由なんだ……! おおいなる自然の中、命は健やかに輝く――!」
それは、ラーズが下草にかけた魔法、それを解くときに使った呪文の応用だった。強く、強く、想いを込めた。
イルム! 戻って……!
深く祈ったそのとき、空気が揺れた。
イルムが突進してきたのだ。
イルム……! 届かないの……!?
絶望。リーフの瞳から、一筋の涙がこぼれた。
「イルム、こんなの、嫌だよ……!」
声をからしたそのときだった。リーフは希望の灯を見つけた。
足。イルムの足が止まった。
「イルム!」
ソルは、イルムの変化を見逃さない。動きを止めたイルムの名を呼びかけながら、押さえ込もうとした。
「だめっ、ソル! イルムの力、ニンゲンでは抑えられないよ!」
イルムのすさまじい蹴り。ぶんっ、と音を立て、イルムの足は空を切っていた。ソルが素早く飛び下がってかわしていたのだ。
あれ……。イルム……。
リーフは気付く。イルムの動きに、ほんの少しだが、ためらいがあるような気がしたのだ。
わずかに、イルムの動きは抑えられている、そんなふうに見えた。きっと、全力のイルムなら、あっという間にソルも自分もやられてしまったことだろう。
それは、あの少女の「手加減してあげてね」という言葉のためではないように思えた。動作すべてに、流れを留める「間」があるように見えるのだ。
そして、イルムの表情。仮面のような無表情だが、銀色の瞳のその奥が、ほんの少しだけ揺れているような気がするのだ。
きっと、心だ。イルムの心が、わずかに生きているんだ。
それでもイルムは、ソルに向かって拳を繰り出す。リーフの短い悲鳴。ソルがやられてしまう、リーフは呪文を唱える。
「防御の風、ソルを守って……!」
強い魔法の風が吹く。イルムの動きを妨げ、ソルの動きを加速させる風。
次の瞬間、殴りかかろうとしたイルムの腕を、ソルが身をかわし、鞘に入った状態の剣で受け止めていた。
「イルムッ! やめてっ!」
リーフは叫ぶ。ソルが力負けしている。イルムは――、ソルを乱暴に振り払った。
「くそっ……!」
ソルは土埃を上げつつ横に飛ばされたが、体勢を崩しつつもかかとで踏ん張り、なんとか墓石への激突を免れていた。
ソルの手は、鞘に入ったままの剣を握りしめている。
だめ……! だめだよ、ソル……!
『イルム。あなたが、人々の敵となるのなら――』
リーフの頭に、あのときのソルの言葉が蘇っていた。今はまだ剣を抜いていないが、イルムがはっきりと敵となるのなら、きっと剣で戦う、ソルはあのときそう告げていたのではないか――。
「ソル、イルムを退治しちゃ、だめ……!」
リーフは、急いで魔法を探す。頭の中、この危機を乗り越える呪文、それを探すのに必死だった。
呪文、呪文は……!
イルムの瞳の奥。そこに訴える呪文、とリーフは焦る。
焦るあまり、じっとしていられず無意識に、腕が動いたようだ。ふと、リーフの右手が、自分の腰に差した短剣に触れた。
短剣。そうだ……!
イルムの筋肉が、躍動する。ソルに向け、攻撃を――。
イルム……!
リーフは全力で駆けた。おそらく、リーフの人生で一番の全力。そして――、後ろからイルムに抱きついていた。
リーフの唇が、密やかに動く。
「イルム。君の過去に、触れるよ」
それは、呪文ではなかった。
短剣が記憶している過去の情報を読んだあのときのように、イルムの過去に魔法の力で触れた。
単なる物体とは違い、複雑な心というものを持つものの過去を探るのは難しい。それでも、リーフは集中し、自身の魔法の力をありったけ注ぎ込んだ。
僕の全力、お願い、通じて……!
目の前から、景色が消えた。
とくん、とくん、体の奥、イルムの魂を感じる。
青。リーフの目の前、青が広がる。
海。海なのかもしれない。
イルムの心の中――、海に入る。
『アカザカナノニツケ』
え。
リーフの心に、突然飛び込んできた「赤魚の煮付け」。それはイルムの心に刻まれた言葉。リーフは思いがけなさすぎる単語に面食らい、やがて笑みがこぼれた。
「うん。おいしかったね。食堂の煮付け」
イルムの心から、さらに言葉が伝わってくる。
『ザカナノニツケシリーズ』
なにそれ、と思った。
「イルム。なにそれ」
『私は忘れない』
「うん、大切な言葉なんだね」
『おいしかった。とても』
「うん」
『ソルにご馳走してもらい、リーフとソルと一緒に食べた』
「うん。そうだね」
『ザカナノニツケシリーズ』はよくわからないが、イルムが食べていたのは確かに「赤魚の煮付け」だったな、とリーフは思い出す。
『固いパン』
「また食べもの!?」
また食べものか、と思った。
『リーフとソルとマルテと食べた』
「うん。そうだね」
確かに、みんなで食べていた――。
『大勢で食べると、断然よいのだ』
みんなで食べると、断然よい――。
リーフの顔に、あふれる輝き。笑顔なのに、涙がこみあがる。
僕を、みんなを、思い出してる……!
「うん、うん、そうだよ! みんなで食べると、おいしいんだよ……!」
「リーフとソルとマルテと、食べた。だから、よかったと思った」
「うん……! 食べたんだよ! イルム! みんなで!」
リーフは、イルムの顔を、見上げた。
イルム……!
優しい銀の瞳が、リーフを見つめていた。待っていた微笑みが、あった。
そして、待ち望んでいた言葉が――。
「リーフ。ごめん。ありがとう。海から、今戻った」
「イルム……!」
息を吸う。思いっきり。そして、ぎゅっ、と抱きついた。イルムの大きな手のひらが、リーフの柔らかな髪を撫でる。
「海の中の赤魚より、煮付けてもらったほうが、よい」
穏やかな、いつものイルムの声。輝く海のように、おおらかであたたかな響き。
イルムが、帰ってきた……!
リーフは、声を上げて泣いた。
「結局、食べものかあ」
ソルが、笑っていた。ソルは鞘に入ったままの剣を持ち上げ、自身の左肩の上、こん、こんと叩いている。ソルの目にも、光るものがあった。
「ごめん。リーフ。ソル。あまり、覚えてないのだが、暴れていたような気が――」
リーフもソルも、首を左右に振っていた。
「思い出さなくて、いいよ」
「ああ。イルムが帰ってきた、それだけでいい」
よかった――。
ようやく、世界が戻ってきた、とリーフは思った。空は美しく、自分は大地にしっかり立っている、そう思った。
「マルテは――」
マルテがいないことを、イルムが尋ねる。
「マルテを、助け出そう……! シエンシアも……!」
うなずき合う。そして、南を目指し、墓地を出る。
マルテ……! シエンシア……! 僕たちが必ず助けるから……!
風がリーフの前髪を巻き上げる。踏み出した足に、勇気がみなぎる。
『大勢で食べると、断然よいのだ』
イルムの心の声が、いつまでもリーフの胸の中、あたたかな光を放っていた。




