第25話 赤い人魚
「マルテ……!」
空びとの少年、リーフは墓地の外に出た。
道路はまっすぐ伸びており、なにも見えない。
親友マルテを連れ去った、ラーズたちの気配は、もう魔法でも追えそうになかった。
僕が走ったところで、追いつくことは――。
ラーズたちからマルテを取り戻したい一心で、ソルと共に駆け出していた。でも冷静に考えれば、ラーズたちの移動手段はおそらく馬、足で追いつけるわけがなかった。
イルムの俊足でも、たぶん無理だ……。
肩で息をし、立ち尽くすリーフ。こらえていた涙が、こぼれ落ちた。
いったい、どうしたら……! ごめん、マルテ……!
目の前がまっくらになった、そのとき――。背後から、ガシャガシャ、と音が聞こえてきた。馬車だ。この辺りに目ぼしい建物などはないようだったので、おそらく、墓参りの客を乗せているのだろう。
希望の光が見えたよう、リーフは急いで傍らに立つソルに訴えた。
「ソル! あの馬車に乗せてもらおう! それでラーズたちを追いかけて――」
「リーフ。無理だ。もうやつらの姿は見えない。それより、イルムのところへ戻ろう」
ソルは、すぐに追いかけたい気持ちはわかるが、と、リーフの気持ちを汲みつつ、イルムのほうへ戻るよう促す。
「でも……! せっかくちょうどよいところに馬車が……!」
「リーフ。馬車はそんなに速度も出せないし小回りもきかない。追ってもらえるにしても、追跡には不向きだ。それより――」
「それより?」
リーフは焦りと不安をなんとか抑えつつ、ソルの言葉の続きを待つ。
「あの少女だ。あの少女は、連中の仲間に違いない。連中の行方を知る手がかりになるだろうし――、こう言うのも気が引けるが――、うまくいけば交換条件になる」
あっ、と思った。こちらには、イルムが捕らえた少女がいるんだ、と思い出す。
でも、とリーフは思う。
あの胸騒ぎは、なんだったんだろう。
自分と同じくらいか、年下に見える少女。ラーズと違って、そんなに怖くない、魔法の力はそう強くない、そんなふうに思えた。
どうして、イルムのことが心配になったのだろう。
よくわからない、わからないけれど、イルムの姿を見れば不安なんて吹き飛ぶ、そう思い直し、リーフはソルと共に墓地の奥へと走った。
あれ。
海竜のイルムは、不思議に思う。
ここ、海の底だ。
ニンゲンの青年の姿に変身しているはずだった。それなのに、海にいる。
ゆらゆら、ゆらゆら、海藻の森。
確か私は――、リーフとソル、マルテと一緒、墓地にいたはずでは。
マルテ、墓地、と考えたとき、ちょっとめまいを感じた。
『海の中って、気持ちいいわね』
少女の、声がした。イルムは声のほうに目をやる。
人魚だ。
赤い髪の、人魚の少女がいた。
『面倒なこと、悩みごと、嫌なこと、すべて、忘れちゃう、海ってそんな気持ちになるわ』
人魚の声は、とても心地よかった。人魚だというのに、まるで外部から来たもののような海の感想を述べるのは奇妙なことだが、イルムはなぜか不思議とは思わなかった。
イルムの肌に、全身を包むような海水の感覚。姿も、いつも通りの海竜の姿だ、と思った。
『イルムは目まぐるしく変化する地上より、ゆったりした海の中で暮らすのが一番なのよ。だって、海竜さんなんだもん』
そうだ。私は海竜だ。初めから、今も。そして、これからも。
海竜、と考えたとき、なにか淡い閃きのようなものがあった。
竜か。竜といえば、地竜、それから、水竜。そんな種族もいたな……。
『あら、イルム。あなたはずっと海にいたじゃない。そんな種族、知らないでしょ?』
ずっと、海に、いた……?
くすくすと笑いながら、人魚はその身をくねらせる。
『そっか、きっと、地上と海を行き来する海鳥さんの話でも聞いて知ったのね。でもイルム、知らない世界のことは、知らなくていいのよ』
そうか。
そうだ、と思った。イルムは、海で暮らし、海のことしか知らないのだ、と思った。
『イルムの友だちは、同じ海の仲間の私だけ。きっと海鳥さんの話から、夢でも見ちゃったのね』
夢、だったのか。
そうかもしれない、と思った。海竜が、地上の他の種族を知るわけがないな、と思った。
夢だから、水竜と地竜、そんな不思議な存在を見たのだろう。
水竜と、地竜。ふたつの存在について考えたとき、胸がざわつくような、落ち着かない感じがした。
水竜という言葉に、なにか切なく悲しい、しかし愛おしい、なんともいえない響きを感じた。地竜という言葉に、とても大切なことを忘れているような、焦りのようなものを感じた。
この、焦りは――。
なんとかしなくてはいけない、自分がなにかしないといけない、そんな気がした。
でも、なにを……?
よくわからなかった。すべてがぼんやりとして、頭が回らない。
『イルムは、私が大好き。私も、イルムが大好きよ』
人魚の、舌足らずな甘ったるい声。声が響くたびに、頭がしびれたようになにも考えられなくなる。
ゆらゆら、揺れる海藻。
すい、りゅう。ち、りゅう。
言葉が、ほどけていく。意味が、失われていく。
『イルム。ずっと、ずうっと、一緒よ』
リーフ……。
今、一瞬だけ名前が浮かんだ。それはまるで、発光する生物が目の前を横切ったときのよう。
今、私はなにを思った?
大切な響きのような気がした。心からするりと逃げ出してしまうよう、しかし必死に手を伸ばして掴みたいと思う、それほど大切ななにか――。
『イルムは、私の声だけ聞いていればいいのよ』
この子の声だけ――。
『そして私のお願い、ちゃんと聞いてちょうだいね。イルム。私、今怖い敵に狙われてるの』
怖い敵……?
『ニンゲンよ。空びと、地びと、両方なの。海の中まで追ってくる、嫌なやつら』
空びと、地びと、と聞いて、少し思い出しそうになる。
『とっても困ってるの! ほんと、いやあね!』
人魚の大袈裟な声に、思いはかき消される。
困らせる嫌な、やつら、か……。それは放っておけないな……。
『イルム、私のために戦ってくれるよね? やっつけてくれるよね? お友だちだもんね?』
友だち――。
友だち、と聞いて、胸の中があたたかくなる。しかし、そこでもなにかとても重要なことを忘れているような気がした。
友だち……? 私には、この子だけ……、だったのだろうか?
ふと、思考が止まる。あたたかな記憶が、すり替えられているような違和感。
『イルム。大好きよ』
甘い声に、支配される。光は、遠いところに行ってしまったらしい。
青い海。どこまでも、深く、遠く。
初めからずっと、私は海にいた――。
美しい海。美しい、輝くような水色。
水色だった。イルムのつけているペンダントと、同じ。
イルムの瞳が映している青は、海ではなく――、アグネーテの手のひらの上の魔法石だった。
「思った通り、イルムはとてもいい子ね」
イルムは、海の中ではなく、墓地に立っていた。姿はニンゲンの青年のままだったが、イルムはそのことに気付かない。
傍にはニンゲンに変身させられ、操られている状態の地竜のシエンシアもいるのだが、今のイルムには見えない。
イルムの意識は、アグネーテの魔法に絡めとられていた。




