第18話 光のあたる場所
窓の外では、太陽がすでにその高度を誇るように高く昇っていた。
いつもならアローラに叩き起こされるか、生活リズムの染み付いた体が勝手に目を覚ます時間だ。しかし、真冥はまだ、深い眠りの底にいた。
昨夜、ハイ・ウルフの圧倒的な圧力を前に、一歩も引かずに粘液を撒き、剣を振るい続けた代償。
肉体と精神の限界を使い果たした真冥は、泥のような眠りの中で、ただ静かに呼吸を繰り返していた。
一方、支援所の食堂は、朝から異様な活気に包まれていた。
「あ、瑞希さん! こっちです!」
食堂の入り口で立ち止まっていた瑞希に、フェルドが大きく手を振った。
瑞希は寝不足の目をこすりながら、居心地が悪そうに肩をすくめる。
真冥が戻ったあと、心配で一睡もできなかったのだ。
彼が無事であることは確認したが、どうしても自分の目で「結果」を確かめたくて、吸い寄せられるように支援所へやってきた。
「……真冥、まだ起きてないの?」
「ええ。アローラ様が『今日は昼まで寝かせておけ』って。それより、見てくださいよ」
フェルドが促した先――食堂のテーブルには、昨日の輸送隊の面々が集まっていた。
瑞希の姿を認めた瞬間、一人の男が椅子を蹴るようにして立ち上がり、彼女のもとへ駆け寄った。
「あんた……瑞希さんだろ! 瑞希調合店の!」
「あ、え、はい。そうですけど……」
瑞希が気圧されて後ずさるのも構わず、男は瑞希の両手をがっしりと掴んだ。
「ありがとう! 本当に、ありがとう! この薬、あんたが作ったんだろ?」
男が差し出したのは、包帯が巻かれた自分の腕だった。
瑞希がおずおずとその様子を覗き込むと、男は自ら包帯を解いて見せた。
昨日、魔物の牙で傷つけられた場所。そこには、赤みすらほとんど引いた、新芽のような皮膚が再生していた。
「見てくれよ、この通りだ! 痛みも引いて、今朝はもう指も動く。魔法でもないのに、こんなに早く治るなんて……信じられねえよ」
「俺もだ! 昨日の今日で、もう荷物が持てそうなんだ」
「あの薬、魔法より馴染む感じがしたぜ。瑞希さん、あんた天才だよ!」
次々とかけられる、混じり気のない感謝の声。
瑞希は、掴まれた自分の手の熱さに、一瞬息を呑んだ。
「あ……あの……。わたしは、ただ調合しただけで……。素材を持ってきたのは真冥くんだし、きっかけも彼で……」
言葉がうまく出てこない。
前世で目指した薬剤師の道。
この世界で与えられた『再定義の神域』という力。
「戦えない」「役に立たない」とレッテルを貼られ、町の端っこで“ちょっと美味しくなる粉”を混ぜることで自分を誤魔化してきた。
けれど、今、目の前にあるのは――。
「……治ってる」
瑞希はぽつりと、自分にしか聞こえないような声で呟いた。
自分の知識と、真冥が拾ってきた「ゴミ」だと言われていた粘液。
それが噛み合い、再定義され、こうして一人の人間の日常を繋ぎ止めた。
「良かった……。本当に、良かった……」
瑞希は戸惑いながらも、込み上げてくる熱いものを堪えるように、ぎゅっと自分の胸の前で拳を握った。
誰かに認められたからではない。
自分が作ったものが、誰かの「痛み」を消した。
その純粋な事実が、彼女の枯れ果てていた自信を、ゆっくりと潤していく。
食堂に満ちる朝食の匂いと、快復を喜ぶ笑い声。
瑞希は初めて、この騒がしい「居場所」の温度を、心地よいと感じていた。
真冥が意識を取り戻したのは、太陽が真上に差しかかる頃だった。
「……っつ……」
起き上がろうとした瞬間、全身の筋繊維が悲鳴を上げた。
昨夜の死闘と、その後の極度の緊張状態から解放された体が、今になって代償を請求してきたのだ。
昨夜、眠りに落ちる直前、気休めとは思いつつも全身にあの万能軟膏を塗りたくっておいたのだ。
「流石に、筋肉痛には効かないか……」
苦笑しながら、ひどく痛む体を無理やり起こす。
打ち身や切り傷があった場所は、軟膏のおかげですっかり痛みが引いていたが、骨の髄まで染み付いた疲労感と筋肉の強張りだけはどうにもならなかった。
壁を伝いながら部屋を出て、食堂へと向かう。
廊下を進むにつれ、昨日までの重苦しい空気とはうって変わった、賑やかな笑い声が聞こえてきた。
扉を開けると、そこには湯気の立つ料理を囲み、快活に談笑する輸送隊の男たちの姿があった。
「あぁ……。皆さん、もう大丈夫なんですか?」
真冥が掠れた声で尋ねると、食堂中の視線が一斉に彼に集まった。
「おぉ、兄ちゃん! やっと起きたか!」
昨日、血まみれで横たわっていたはずの男が、ガハハと豪快に笑いながら立ち上がった。
「おかげさんでこの通りよ! 見てくれ、あの深手が嘘みたいだ。瑞希さんの薬も凄いが、あんたがすぐに処置してくれたおかげだ。ありがとな!」
「本当に。兄ちゃんが飛び出していった時はもっと肝が冷えたぜ。無事に戻ってこれて、何よりだ」
もう一人の男も、スープの皿を掲げて真冥に感謝を告げる。
彼らの瞳にあるのは、昨日までの「絶望」ではなく、今日を生きる「活力」だった。
「良かったです……。僕こそ、勝手な真似をしてすみませんでした」
真冥が頭を下げると、すぐ隣から冷ややかな、けれどどこか安堵の混じった声が響いた。
「本当よ。無謀すぎるわ」
振り返ると、そこには腕を組んだ瑞希が立っていた。
彼女は輸送隊の男たちに囲まれていた時の戸惑いとは違い、いつもの少し気の強い表情に戻っている。
「……もう少し、自分の実力と行動の結果を考えてから動きなさいよ。アローラが間に合わなかったら、今頃あんた、お墓の中だったんだから」
「……はい。面目ないです」
瑞希の正論に、真冥は小さくなるしかない。
だが、瑞希の瞳の奥が、昨日よりもずっと明るく澄んでいることに真冥は気づいていた。
彼女もまた、この光景の中に自分の「価値」を見つけたのだ。
「でも、まあ……」
瑞希は少しだけ視線を逸らし、小さく付け加えた。
「あんたが素材を運んでこなかったら、彼らもこうして笑えてなかったでしょうね。……そこだけは、認めてあげる」
その言葉に、真冥は筋肉痛の痛みを一瞬忘れて、静かに微笑んだ。
瑞希の小言がまだ続こうとしたその時、背後の扉がバタンと勢いよく開いた。
「はぁぁぁ……。終わった。やっと全部終わったわよ……!」
そこに立っていたのは、ポニーテールも少し乱れ、目の下に微かな隈を作ったアローラだった。
昨日放り出した書類の山を、一晩かけて全てまとめ上げたのだろう。
アローラはゾンビのような足取りで食堂へ入り、真冥の姿を見つけると、すっと目を細めた。
「やっと起きたか、この寝坊助」
「あ……アローラさん。おはようございます。昨日は、本当に助けてくれてありがとうございました」
真冥が居住まいを正して礼を言うと、アローラは「ふん」と鼻を鳴らした。
「礼なんていいわよ。運良く間に合っただけ。……というか、あんな危うい戦い、二度と見たくないわ」
そう言いながら、アローラは激励のつもりか、豪快に真冥の肩をバンバンと叩いた。
「っつ……!? い、痛い、痛いですって! 全身筋肉痛なんですから!」
真冥が悲鳴を上げながら肩をすくめると、アローラはニヤリと肉食獣のような笑みを浮かべた。
「あら、そんなに痛いの? じゃあもっともっと鍛えないとねぇ。防御も回避も甘いからそうなるのよ。がぜん、しごき甲斐が出てきたわ!」
「……え、まだやるんですか?」
「当たり前じゃない。次はハイ・ウルフを軽く倒せるくらいになってもらうんだから!」
「無理ですよ、あんなの……!」
顔を真っ青にする真冥。
その情けない返答と、それを見て満足そうに笑う最強天使。
二人の掛け合いを見ていた瑞希や輸送隊の男たち、さらには食堂のおばちゃんまでもが、たまらずドッと大きな笑い声を上げた。
「頑張れよ、兄ちゃん! 天使様の特訓なら、次はドラゴンでも倒せるようになるぜ!」
「無茶言わないでください!」
賑やかな笑い声が、食堂の天井を抜けて青空へと響いていく。
真冥は痛む体を押さえながらも、その輪の中に漂う温かい空気に、心地よく身を委ねていた。
今日この場所にある笑い声は、間違いなく真冥と瑞希が、泥臭く足掻いて掴み取ったものだった。




