第13話 使い物にならないはずだったもの
部屋に入った瞬間、真冥は顔をしかめた。
「……やっぱ、臭うな」
ゴミ袋から移し替えたスライムの粘液は、小瓶の中で不気味に揺れている。
魔物特有の、生臭くて甘ったるい匂い。
昨日より、少しだけ強くなっている気がした。
(密閉してもだめか……)
瓶を傾けると、粘液はまだ粘りを保っている。
だが、表面にわずかな濁りが出始めていた。
「日持ちしないなら……意味がない」
真冥は小さくつぶやく。
この粘液は確かに役に立つ。
だが、外で使うには保存できなければ話にならない。
布に染み込ませてみたが、しばらくすると乾いてしまい、あの“動きが鈍る感覚”は消えた。
密閉すれば腐って効果が落ちる。
乾かしたら効果が死ぬ。
(面倒くさいな……)
そのときだった。
「――ちょっと、真冥くん?」
ドアが開く音と同時に、聞き慣れた声がした。
「……うわ」
アローラは一歩踏み込んだ瞬間、露骨に顔をしかめ、鼻をつまんだ。
「なにこれ。魔物解体してる?」
「い、いえ……スライムの粘液です」
「聞かなくてもわかるけど、そういう意味じゃなくて」
半目のまま、部屋を見回す。
「これ、全部?」
「一部です」
「一部でこの臭い?」
アローラは深いため息をついた。
「で?今度はなにしてるの?」
「保存の実験です。日持ちしないと使えないので」
そう答えたとき、真冥は自分でも分かるくらい真剣な顔をしていた。
アローラはその表情を見て、一瞬だけ言葉を失う。
「……ふうん」
とりあえず一歩、部屋の奥へ踏み出した、その瞬間。
「――っ!?」
ずるっ、と音がした。
次の瞬間、アローラの足が滑り、体が大きく傾く。
「わっ――!」
どさり。
派手ではないが、確実に転んだ。
「だ、大丈夫ですか!?」
「……」
数秒の沈黙。
アローラは床に手をついたまま、ゆっくり体を起こそうとして――
「あれ?」
思ったより、動きが遅れる。
「……ちょっと、立ちにくいんだけど」
真冥の視線が、床に落ちた粘液に向いた。
「あ……それ……」
「もしかして」
アローラは自分の手と足元を見て、顔をしかめる。
「これ、例の効果?」
「……はい」
慎重に立ち上がるアローラ。
足元が微妙に滑り、動作が一拍遅れる。
「なるほどね」
軽く息を吐く。
「臭いし最悪だけど……効いてはいるわけだ」
真冥は無言でうなずいた。
「で、保存できないと?」
「はい」
「乾くとダメ、密閉するとダメ……」
アローラは部屋を見回し、棚の上の瓶に目を留めた。
「乾かさないなら、油とか?」
その一言に、真冥の目がわずかに見開かれる。
「……あ」
「なに、その反応」
「考えてませんでした」
慌てて棚から小さな油瓶を取ってくる。
少量を粘液に垂らし、ゆっくり混ぜる。
粘液は分離せず、より重たく、しっとりとした質感になった。
「……どう?」
「臭いは……少し、マシです」
完全には消えない。
だが、さっきよりは確実に弱い。
時間を置いても、乾く気配はなかった。
「……効果も、残ってます」
アローラは床の端を指で軽く触り、すぐに手を引っ込めた。
「うん、触りたくないけどね」
そう言いながらも、どこか納得した表情をしている。
「完璧じゃないけど」
「……使えます」
真冥は、小さな瓶に粘液を移し替えた。
量はわずか。
見た目もひどい。
臭いも、まだ残っている。
それでも――
「これなら、持ち歩ける」
ぽつりと漏れた言葉は、確信だった。
アローラはそれを聞いて、肩をすくめる。
「誰も褒めないわよ、そんなの」
「……分かってます」
「でも」
少し間を置いてから、続ける。
「生き残るには、十分ね」
そう言うとアローラは自分の衣服の匂いを嗅ぎながら部屋を出ていった。
真冥は何も言わず、瓶を握り直した。
それはまだ完成品じゃない。
価値もない。
売り物にもならない。
それでも――
昨日より、確実に“死ににくい“。
その確信だけが心の奥に灯るのを感じた。
それから真冥は混ぜる油の量を何パターンか試し、小瓶に詰めた。
「……これで、どうなるかだな」
真冥は小瓶の栓を確かめ、倒れない位置に置き直す。
実験といっても、今できるのはここまでだ。
時間が経たなければ、結果は出ない。
真冥は一度だけ振り返り、小瓶を見た。
変化はない。
少なくとも、今は。
「よし……」
それ以上考えるのをやめ、剣を手に取った。
粘液が役に立つとしても、前提がある。
魔物を倒せなければ、意味がない。
素材も、検証の機会も、すべてはそこからだ。
真冥はアローラから借りている剣を腰に差し、部屋を出た。
中庭に向かう途中で、ちょうどアローラと鉢合わせる。
「あれ? 実験は終わったの?」
「とりあえず、放置です」
「放置」
アローラはその言葉を繰り返し、ふふっと笑った。
「研究者っぽくないね」
「結果を待つしかないので」
真冥は少し言いづらそうに、続ける。
「……それで、その間、お願いがあって……」
「なに?」
「剣の練習を、見てもらえませんか」
一瞬、アローラが目を瞬かせた。
そして次の瞬間には、にやりと口角を上げている。
「いいよ。やっと言ってくれた」
「え?」
「前から思ってたの。真冥くん、考えて戦うけど……当てる練習、足りてないでしょ」
図星だった。
「魔物の急所を一撃で狙えれば、生存率も上がりますし……」
「うんうん。理屈は満点」
アローラは真冥の剣を一度だけ指で弾いた。
「でもね。一撃で倒すって、“当てる”より前に考えることがある」
「……?」
「どこに倒すか」
アローラは中庭の地面を指さす。
「相手が倒れたあと、自分が安全な位置にいるか。それを考えて振るの」
真冥は剣を構え直す。
言われてみれば、今までそんなことは考えたことがなかった。
「じゃ、来て」
模擬用の木製標的を前に、アローラは軽く距離を取る。
「急所を狙わなくていい。まずは、置くつもりで振ってみて」
「……置く?」
「そう。振り回さない」
真冥は半信半疑のまま、剣を前に出す。
――軽く、置く。
鈍い音。
標的に当たったが、浅い。
「今のは、置こうとして迷ったね」
「……はい」
「大丈夫。みんなそう」
アローラは楽しそうだった。
何度か繰り返すうちに、真冥の腕はすぐに重くなる。
狙いすぎて遅れる。
力を入れすぎて軌道がぶれる。
「一撃必殺ってね、実は“速さ”より“覚悟”なの」
「覚悟……?」
「当たらなかったらどうしよう、って考えると遅れる」
アローラは真冥の剣先を、指で少しだけずらした。
「ここに来たら、もう振る。外れても、次を考えればいい」
何度目かの打ち込みで、真冥の剣が標的の中心を捉えた。
深く、安定した音。
「……!」
「今の」
アローラはぱちんと手を叩いた。
「それ。今の感覚、忘れないで」
真冥は息を切らしながら、剣を下ろす。
腕は痛い。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
アローラは伸びをしながら、ちらりと建物の方を見る。
「そういえばさ」
「はい?」
「部屋の粘液、爆発したりしない?」
「しません」
「即答だね」
くすくす笑いながら、アローラは歩き出す。
「じゃ、結果が出たら教えて。次は私も巻き込んでいいから」
「……え?」
「滑るやつ、ちょっと楽しそうだし」
そう言って手を振ると、アローラは支援所の中へ戻っていった。
真冥はしばらく、その背中を見送ってから、自分の部屋に戻る。
見上げれば空には星が瞬いていた。
部屋に戻りすっかり暗くなった部屋の明かりをつける。
真冥の視線は机の上の小瓶に注がれた。
変化は、まだない。
腐ってもいない。
消えてもいない。
「……まだ、ある」
それだけで、今は十分だった。
真冥は静かに栓を確かめ、明かりを落とし、夕食のために食堂へと向かった。




