007 地図にない村
雨が降り出したのは、森へ入ってすぐだった。
旅人のエルドは、外套の襟を立てて歩いた。
地図では、次の町まで半日のはずだった。
だが、日が落ちても森は終わらない。
道を間違えたか。
そう思った頃、
木々の向こうに灯りが見えた。
小さな村だった。
◇
「こんな所に村なんてあったか?」
門のそばにいた老人に聞くと、
老人は笑った。
「昔からあるさ」
家は二十軒ほど。
中央に井戸。
小さな宿屋と、パン屋。
子供たちが雨の中を走っていた。
どこにでもある村だった。
宿の女将は、ずぶ濡れのエルドを見るなり言った。
「早く入りな。風邪をひくよ」
温かい豆の煮込みと、
焼きたての黒パンが出てきた。
「いくらだ?」
「明日の朝でいいよ」
妙に親切だった。
でも、
嫌な感じはしなかった。
◇
食堂には村人が集まっていた。
羊飼い。
鍛冶屋。
薬師。
皆が旅人を珍しがって話しかけてくる。
「王都はまだ石畳なのか?」
「まだって?」
「いや、なんでもない」
別の男が慌てて笑った。
少女がエルドの隣に座った。
「旅人さん、明日もいる?」
「朝には出るよ」
「そっか」
少し残念そうだった。
「また来るから」
エルドが言うと、
少女は不思議そうな顔をした。
それから笑った。
「うん。待ってる」
◇
翌朝。
雨は止んでいた。
宿を出ると、
女将が小さな包みを渡した。
「道で食べな」
中には丸い焼き菓子が三つ。
「代金は?」
「昨日の分もいらないよ」
「それじゃ悪い」
女将は首を振った。
「久しぶりのお客さんだったから」
村の出口まで、昨日の少女がついてきた。
「またね、旅人さん」
「ああ。またな」
手を振って、
エルドは森を出た。
◇
それから三年後。
エルドは同じ地方を旅することになった。
あの村を思い出した。
地図には、相変わらず載っていない。
今度こそ場所を書き込んでおこう。
そう思い、
記憶を頼りに森へ入った。
道も同じだった。
大きな岩。
二股の樫。
小さな沢。
間違いない。
だが、
村があった場所には何もなかった。
木々が生えているだけだった。
「……そんなはずない」
何度探しても、
井戸も。
宿も。
家もなかった。
◇
近くの町で尋ねた。
「この辺りに、小さな村がなかったか?」
古道具屋の主人が首を傾げる。
「村?」
「森の中だ。井戸があって、宿屋があって」
エルドが特徴を話すうち、
主人の顔が変わった。
「……その村なら知ってる」
「どこだ?」
「もうないよ」
「移ったのか?」
主人は首を振った。
「百年以上前に、山崩れでなくなった」
エルドは笑った。
「冗談だろ」
「俺の曾祖父が子供の頃の話だ」
古い帳面を見せられた。
そこには、
村の名前と、
住人の名が残っていた。
宿屋の女将。
鍛冶屋。
薬師。
昨日のことのように覚えている名前ばかりだった。
最後に、
一人の少女の名。
エルドは指を止めた。
◇
その夜。
宿で荷物を整理していると、
鞄の底から小さな紙包みが出てきた。
開く。
丸い焼き菓子が、
一つだけ残っていた。
三年前にもらったもの。
腐っていなかった。
固くもなっていない。
焼きたてのように、
まだ甘い匂いがした。
エルドは長い間、それを見つめた。
そして半分だけ食べた。
残りは包み直した。
またあの森を通ることがあったら、
持っていこうと思った。
誰に渡すのかは、
自分でも分からなかった。




