003 影を売る商人
村に、その商人が来たのは冬の終わりだった。
黒い外套に、黒い荷車。
売り物は何も積んでいなかった。
代わりに商人は、広場でこう言った。
「影を買います」
誰も意味がわからなかった。
「人の影です。銀貨十枚」
笑いが起きた。
だが、貧しい村だった。
銀貨十枚あれば、小麦を何袋も買える。
最初に手を挙げたのは、粉挽きの老人だった。
「影なんぞ、なくても困らん」
商人は夕陽の中に老人を立たせた。
地面に伸びた影へ、銀色の鋏を入れる。
ちょきん。
本当に音がした。
切り離された影は、布のように地面から剥がれた。
商人はそれを丸め、黒い瓶へ押し込んだ。
老人の足元には、もう何もなかった。
「ほらな」
老人は銀貨を鳴らして笑った。
「何も困らん」
◇
翌日から、村人たちは次々に影を売った。
鍛冶屋。
羊飼い。
酒場の女将。
そして、母も。
「妹の薬が買えるもの」
私は止めた。
でも母は笑った。
「影なんて、夜になれば見えないでしょう?」
銀貨十枚で、妹の薬と食べ物が買えた。
母はいつも通りだった。
夕餉を作り、妹の額を撫で、私を叱った。
だから私も、考えすぎだったと思った。
◇
三日目の夜。
森の方から声がした。
笑い声だった。
窓を開ける。
村外れの木々の間に、人が立っていた。
一人。
二人。
十人。
真っ黒な人影。
月明かりの中で、立っている。
顔はない。
それなのに、誰が誰なのかわかった。
粉挽きの老人。
鍛冶屋。
羊飼い。
酒場の女将。
そして。
母。
影たちは、村を見ていた。
◇
次の夜。
また森へ行った。
今度は、影たちが喋っていた。
「おはよう」
母の声。
「今日は寒いね」
女将の声。
「小麦を挽いてくる」
老人の声。
同じ言葉を何度も繰り返している。
少しずつ。
少しずつ。
上手くなっていた。
母の影が、私の名を呼んだ。
「ルカ」
私は息を止めた。
もう一度。
「ルカ」
昨日より母に似ていた。
私は走って家へ戻った。
◇
「母さん、影を買い戻そう」
母は鍋をかき混ぜながら首を傾げた。
「どうして?」
「森にいるんだ」
「何が?」
「母さんの影が」
母は笑った。
「変な夢でも見たの?」
「本当だよ」
母の手を掴んだ。
冷たかった。
驚いて離す。
母が私を見る。
「どうしたの?」
その顔は母だった。
でも。
一瞬だけ。
私の名前を思い出すのに、時間がかかったように見えた。
◇
翌朝。
黒い荷車は消えていた。
商人もいない。
広場には、影を売った村人たちが集まっていた。
皆、ぼんやり森を見ていた。
その日の夕方。
粉挽きの老人がいなくなった。
翌朝には戻ってきた。
「どこに行ってたんだ?」
そう聞くと、老人は笑った。
「どこにも行っとらんよ」
足元を見る。
影があった。
昨日までなかったはずの影が。
私は安心しかけた。
老人が手を振った。
けれど、
足元の影は動かなかった。
◇
一人ずつだった。
影を売った者が夜に消える。
朝には戻る。
そして、影も戻っている。
誰も気にしなかった。
「最初からあっただろう」
皆そう言った。
私だけが覚えていた。
◇
六日目の夜。
母が寝台から起き上がった。
目を閉じたまま、家を出る。
私は後を追った。
森の中。
母の影が待っていた。
黒い人の形。
母と向かい合う。
しばらく見つめ合っていた。
そして影が、母を抱いた。
二つの身体が重なった。
音もなく。
どちらか一方が、地面へ沈んだ。
もう一方が、こちらを向いた。
「ルカ?」
母の声だった。
私は逃げた。
◇
朝。
母は台所にいた。
いつものようにパンを焼いている。
足元には影がある。
「おはよう、ルカ」
私は返事ができなかった。
「どうしたの?」
「……母さん?」
「そうよ」
笑い方も同じだった。
声も。
顔も。
全部。
妹が母へ抱きつく。
母は優しく頭を撫でた。
何も違わない。
だから私は、
森で何を見たのか、
わからなくなった。
◇
その夜。
眠れずにいると、
窓の外から声がした。
「ルカ」
母の声。
寝台から起きる。
窓の向こう。
地面に、
黒い影が這っていた。
人の形。
顔はない。
それが家の中の母を指差した。
そして、
爪のない手で地面を掻きながら、
何度も言った。
「わたし」
「わたし」
「わたし」
台所から母の声がした。
「ルカ?」
影が震えた。
「誰と話してるの?」
私は、
振り返れなかった。




