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『ちくしょう、神に届け!』と叫んだ楽聖たちのために、みかん色の少女が32フィート管をぶち鳴らす話。  作者: 天音近


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最終章 咆哮

シーン1 届かねえ! ちくしょう!


1978年9月

東ドイツ、ザクセン、フライベルク大聖堂


「Ich möchte einen Augenblick allein sein」

(しばらく一人にしてほしい)


リヒターはフライベルク大聖堂に到着した際、オルガンの前でじっと沈黙していた。


リヒターにとって、フライベルク大聖堂のジルバーマン・オルガンは、少年時代に何度も触れた「ザクセンのバッハ伝統」そのものだった。

1951年に西側に移住して以来、冷戦によって完全に閉ざされていた故郷の聖域に、27年という歳月を経てようやく戻ることができた。

鍵盤の前に座ったリヒターは、過酷な国境検問の緊張から解放された安堵感と同時に、自分がかつて学んだ純粋な音楽の原点に再び対峙する重圧に、激しく心を揺さぶられていた。


1978年当時、音楽界ではオリジナル楽器を用いた「歴史的演奏実践(古楽派)」が急速に台頭していた。

リヒターが築き上げてきた、モダン楽器によるドラマティックで峻厳なバッハ解釈は、西側メディアから「時代遅れ」と批判されることが増えていた。

リヒターは精神的にも孤立感を深めていた。

当時の東西共同録音のスタッフ(東ドイツのETERNAや西ドイツのARCHIVの技術者たち)の証言によると、リヒターがオルガンの前でじっと動かなかった時間は、大聖堂全体が凍りついたような異様な緊張感に包まれていたという。

東ドイツに残された本物の18世紀のオルガンと1対1で向き合う時間のなかで、あのバッハ先生本人の静かな言葉だけが思い出された。

「『待っておるよ』……お前が、本当の俺の音を鳴らしに帰ってくるのをな」

そうか、250年以上も待っていてくれたんだ、そうリヒターは確信した。


リヒターはしばらく鍵盤を見つめたまま、ただオルガンの発する静けさと、大聖堂の冷たい空気を身体に染み込ませていた。


その後、沈黙を破って彼が最初に鍵盤に触れ、ジルバーマン・オルガンが圧倒的な響きをあげた瞬間、同行したスタッフたちは鳥肌が立つほどの感動を覚えた。



BWV538 ドーリア調トッカータ


今までのどのオルガンとも全く違う、これは、オルガン自体が神器なのだ。

最初の一音から、空間の理を超え、それは、ギリシャ神話の天空よりもずっと低い場所、でも、人間の世界のどこよりも張り詰めた場所、パルテノン神殿があらわれた。

そこには冷徹なまでに完璧な、巨大な時計の歯車があった。

6分音符の連なりは、感情を一切挟まないように、カチッ、カチッ、と冷たく、あまりにも正確に刻まれていく。

リヒターの個人的な絶望も、古楽派からの批判も、冷戦の分厚い壁さえも、その巨大な音楽の幾何学の歯車の中にすべて巻き込まれ、粉砕され、調律されていく。


そして、その歯車が噛み合うにつれて、大聖堂の冷たい石の床から、「白銀の光の結晶」が幾何学模様を描きながら、天井に向かって生き物のようにツタを伸ばして這い上がっていく。


人間が弾いているんじゃない。

カール・リヒターという一人の男の身体を媒介にして、バッハという「宇宙の法則そのもの」が、大聖堂の空間をものすごいスピードで再構築していく。


他のどのオルガンとも違う。

なぜなら、そこには、はじめから、

「—……アム……リカバリー……バッハ」

(—は神の音を再構築する者……バッハである)

があるだけだから。


トッカータの旋律は厚みを増して進む。

手鍵盤から送られたバッハが書いた楽譜は、パイプに送り込まれ、パイプは悲鳴に似た喜びの声をあげはじめる。

このオルガンは器用なやつだ、泣く、喜ぶ、歌う を同時にする。

否

こいつは、悲しいから泣く、嬉しいから喜ぶ、楽しいから歌うんじゃない、

嬉しいから泣く、嬉しいから喜ぶ、嬉しいから歌うんだ。

切なくて涙が出るほど美しいのに、そこには確かな天上の喜び(光)があって、それが一本の命の線のようにずっと「歌い」続けている。

さらに、高く、高く、高く旋律が舞い上がる。


現場にいた録音スタッフたちにもリヒターの心の声が聞こえた。

魂に、ダイレクトに響いてくる。

「チクショー、チクショー、チクショーーーー!!!」という叫び。


くそ…、両親にも会えなくなって…

師匠にも、ありがとうすら言えなくて…

西側のオルガンは、ちっぽけで…


バッハは、完璧に、冷徹に、数式のように音楽を組み立てる「神様」なんかじゃない。

地上の理不尽や、最愛の子供たちや妻を失った悲しみ、自分の不完全さ、神のいる天上へとどうしても届かない人間の肉体の限界……そのすべてに、歯を食いしばって、悔し涙を流しながら、

「届かねえ! ちくしょう! なんで届かないんだ!!!」って、

鍵盤を殴りつけるようにして音階を駆け上がらせていたその人だ。


激しいスタッカートでリヒターの腕がもげそうになる、

3回、足りない、

そして次の4回…

そして……

他のオルガンでは到達不能な…まばゆい天の音の嵐

「届いた!! 」

「やっと会えた!!!」

そう思った。

その瞬間、リヒターの目には、かつてのバッハの目にも、天使の大軍勢がみえた!!!



BWV538 フーガ


…しかし、そこには何もなかった。

ただ、真っ白な世界が広がっているだけだった。


フーガの最初の一音が神器ジルバーマンオルガンから空間に置かれたその瞬間、少し離れた角に一つの石があった。

それはコーナーストーンであった。


あぁ、ここから積み上げるのだな。

リヒターはそう感じた。


永遠の彼方に消えてゆく音たちが次々と重なり合い、やわらかな、しかしこれ以上なく力強い低音部がフーガで提示されると、見る見る間に巨大な建造物が現れた、それは、廃墟ではない生きているパルテノン神殿だった。


リヒターはその神殿の中を歩く、床が透き通った物質でできている。


リヒターは一人ではなかった。

誰かが横にいる。


そう感じた。


4声のフーガが進む、ペダル部が途切れたとき、神殿の回廊は突然開けた。

そこには、リヒターが夢に見た、草原のオルガンがあった。

妻グラディが描いてくれた、アトミックオルガンがあった。

草が揺れ、花が咲き、小川には魚が沢山いる。


高音部の旋律が、終焉に近づくと、神器は一瞬息を吸い込んだ。

あぁ、何かが来る、そう感じた刹那、32フィートのパイプがうなりをあげた。


ブンッ!!!(ボキッツ!!!)

リヒターは32フィートのパイプが途中で折れたのかと錯覚した。

神器は楽譜からは想像もできない音を響かせる。


現実には、32フィート管は涼しい顔をしてそこに存在している。

違う、これは何かが違う、いや全てが違う。


そう感じた瞬間、巨人が足をおろした、しかし大地は揺れない。

そう感じたのだ、それは、ギリシャのゼウスだったのかもしれない。

それはサンダルフォンだったのかもしれない。

とにかく巨大な何かが大地を踏みしめた。


そして、32フィート管が唸った瞬間、沈黙の愛の神が、答えた。


そうさ、普通はありえない、誰も信じない


聖書の中でも、モーセやエリヤでも「沈黙の愛の神」(ヤハウェ様)の胸倉を掴めていない。

俺は、それを掴んだ…

「チクショー!!!」

って叫びながら。


沈黙の愛の神は確かに応答した。

全ては正しい、それでよい、と。


(みんな…ありがとう……)


他の言葉は見つからなかった。


神器は器用だ、その時、パルテノンの主人アテナの竪琴が演奏に入り込んでくるのを許した。

フーガの最終部、全てのパイプがこれでもか、と鳴りきっているところに竪琴の音が入り込む。


ポロロン……


そして、フーガが終わるとき、マリアンが演奏台の横にたっていた、数千年の天空の記憶を宿した聖なる光をその双眸に灯して。


そして、うやうやしくチュニックの両裾を持ち上げると、深々と礼をした。



シーン2 宇宙が崩壊する


1978年9月

東ドイツ、ザクセン、フライベルク大聖堂


BWV582 パッサカリアとフーガ


リヒターはパッサカリアの音を若き青年時代のバッハに重ねる。

正直心中穏やかでない。

ものすごく穏やかでない。


なぜならパッサカリアを作曲した当時のバッハは、

アルンシュタットの「バッハ教会(新教会)」にある、本物の公式案内板(プレート)に公に記載されているように……


20歳そこそこのリアルな青年バッハは、上司の言うことは聞かないわ、有給はブッチするわ、リューベック帰りの最先端の音響で真剣勝負を挑んで煙たがられるわ、売られた喧嘩には剣を抜いてガチで応戦するわの、「血気盛んではみ出しすぎている若者」だったのだ。


「音楽の神様」なんて、後世の人間が勝手に神格化した綺麗なラベルにすぎなくて、こういう事実を知っているリヒターからすれば、華麗なパッサカリアがどうしてもコメディに聴こえてしまう。


12年前、イエスボー教会の小さなオルガンで難儀していたころを思い出す。

「俺の音楽は、完璧な者だけが継ぐものではない。不完全で、届かなくて、めちゃくちゃな者たちが継いでこそ、光になるのだ」


(そうだよな、メチャクチャでいいんだった……)


20もある変奏がバッハ自身の楽しい失敗談に聴こえてくる。

ジルバーマンのオルガンは器用だ、真剣な音楽を鳴らしていても、楽しくなってくる。


リヒターの脳裏に、バッハ自身が…


教会の聖歌隊席(未婚の女性は立ち入り禁止)に彼女を連れ込んで、オルガンをポッポッと弾かせてデートしてたのがバレて…


(だよな…俺もやってみたかった…)


「4週間」って言って旅立ったのに、リューベックの音響モンスターに脳を焼かれ、さらに「娘と結婚しろ」っていうブクステフーデの罠からダッシュで逃げ回ったりしているうちに、気づけば「4ヶ月(3ヶ月以上の大遅刻)」経過…


(フッ…俺は西ドイツにブッチ…だ)


リューベックのギラギラした尖った最先端エフェクトをアルンシュタットの田舎のオルガンで炸裂させたら、保守的な会衆から「バッハの伴奏は奇妙な音ばっかり混ぜるし、長すぎるし、何歌って良いのか全然わからん!」と大バッシングを受けたこともある。


(だろうな…)


バッハは宗教音楽の人、教会音楽に身をささげた、という世間の認識。


(違うな…)


歴史上の教会音楽という巨大な欺瞞が、ここで完全に「生身の漢の、血の滲むような執念」へと裏返る。


完璧な聖人ではない。

自分と同じように、不完全で、めちゃくちゃで、それでも1音に命のすべてを懸けてドロップアウトした、ひとつの「孤独な魂」。


18世紀当時の教会のミサは確かに長かった。

それでも、バッハのオルガン曲はいつもミサの流れからはみ出していた。


(教会の付き合いばかりじゃ、やってられんだろうな……)


リヒターはバッハの出張時の「大量飲酒」記録も思い出す。

バッハは出張(オルガンの鑑定など)の際、宿代や食費をすべて依頼主に請求していた。その当時の「領収書(請求明細)」が今も残っているのだが、そのお酒の量が…尋常ではない。


1713年のハレ出張(わずか数日間)の記録:


「ビール:32クォート(約30リットル)」「ブランデー:2クォート(約2リットル)」「さらに大量のワイン」


(なるほど、俺がどれだけビールを浴びても追いつかん訳だ…)


1978年当時のの若い世代の音楽はリヒターの耳にも入っている。

ただのノイズだと切り捨てていたが、ここで考えがはっきりと変わった。


バッハ自身が「世界最強のパンクロッカー」だったのである。


(…これは笑えるな)


(先生も浴びるほど酒を飲んで、脳を焼き切る一歩手前で、ようやくあのパッサカリアの低音を絞り出していたんだ……)


オルガン曲は宗教音楽?


(うるせぇ……これははみだし野郎の……咆哮だ!)


神器よ、そろそろ本気を出そうじゃないか。


この日の神器の調律は平均律に近いものだった。

20世紀のオルガン復興運動の一環として、ジルバーマンオルガンも平均律に近い調律となっていた。


18世紀にバッハ自身がこのオルガンを鑑定した時は、「六分の一ピタゴラス・コンマ・ミーントーン(中全音律)」の改良版だった。

それは、主要な和音をこの上なく美しく響かせるための、ゴットフリート・ジルバーマンという一人の職人のこだわりだった。


変調に伴うウルフトーンの心配は少ないが、同時に音が伸びきらない不完全さも内包していた。


そんなものは、ジルバーマンオルガンがジルバーマンオルガンである限り、関係ない。

1730年、バッハが鑑定をしながら高天原に召喚された時に見たのと同じ光景がリヒターの目にもみえた。


――浅瀬を流れる小川。


――風に揺れる草花。


――その遥か彼方にそびえる、地上には存在し得ぬ透明なパイプの巨大なオルガン。


――山脈のように連なるパイプ群。


――雲を突き抜ける音塔。



世界そのものが、一つの楽器になったかのような光景。


そして――最後のクレッシェンド。


全てのパイプへ風を送り込むため、風箱が深く息を吸い込む。


その刹那。


今回は音は途切れなかった。


その代わり宇宙が崩壊した。


あるものがない、ないものがある。

天が崩れる、誰もがそう思った、しかしそこは喜びに包まれていた。

神器ジルバーマンオルガンは涼しい顔でそこに存在している。


初めに音(言葉)があった、そして創造がはじまった。


カールは鍵盤からそっと手を離した。

宇宙をぶち壊し、新しく創り変えたその指先は、すでに限界を超えて細かく震えている。


しかし、彼の唇は不敵に、そしてま生ま生しく歪んでいた。


(伝統だの、宗教だの、そんなモワモワした檻は……たった今、バッハ先生のガソリン(ビール)で全部焼き尽くしてやったぞ)


視線の先、崩壊した宗教の瓦礫の向こうから、さらに巨大な、”I am who I am”という名の「壁」が冷徹に立ち上がってくるのが見える。


「さあ……バッハ先生。次はBWV768だ。神との、本当の一本勝負(タイマン)をはじめようじゃないか」



シーン3 タイマン


1978年9月

東ドイツ、ザクセン、フライベルク大聖堂


BWV768 「ようこそ慈悲厚きイエスよ」


題名からして、キリスト教のストライクゾーンど真ん中。

この作品の原型はバッハがかなり若いころのものだという。

最初は手鍵盤だけのオカリナが奏でるようなメロディだけだった。


リューベック帰りのバッハはこれに足鍵盤のパートを加えた。


バッハはこの作品をとても大切にしていた、死に直面する少し前まで推敲を続けていた。題名はあくまで「ようこそ慈悲厚きイエスよ」という羊の皮をかぶせたままに。


バッハは年齢が進むにつれ大家族を抱えた、家族を養うために教会の楽長という職に就いた。教会の楽長というポストは、教会(宗教)という檻に縛られはするものの、器楽曲においては比較的自由な作曲もできた、しかしオルガン曲は微妙な立ち位置にあった。


歴史上最古のオルガン「ヒュドラウリス」。

それは紀元前にアレクサンドリアで生まれた水圧で動くものだった。


そこから1000年以上の時をかけて、パイプオルガンというシステムは巨大化した。

中世において、教会の建築とパイプオルガンは、当時の人間が持ちうる最高峰の科学技術(建築学・音響学・物理学・冶金術)の結晶だった。


これは、人間がたった一人で、神の創った大自然の音(風の咆哮、雷鳴、天使の歌声)をすべて掌握し、再構築するための巨大な計算機(テクノロジー)だった。


何千本ものパイプに均等に風を送り、何百もの音色(ストップ)を一人で統べるその座は、まさに「コックピット」。


これを操れば、私は、人間は、神の領域(絶対的な調和)に触れられるのではないか


教会のシステム(ドグマ)において、人間はどこまでも「不完全な罪人」であり、神の言葉を代弁する神父様や牧師様、そして教会の規律に絶対服従することが大前提。


それなのに、オルガンというコックピットに座り、数千のパイプ、つまり「大自然(神の被造物)のすべて」を自分の十本の指と二本の足だけで完璧に支配(計算)し、調和させてしまう男がそこにいる。


教会は神を讃えるためにオルガンを育てた。


しかし、その巨大な楽器は、皮肉にも一人の演奏者に「創造そのもの」を体験させる装置へと進化してしまった。


神を讃えるための玉座は、

いつしか神に手を伸ばすコックピットへ変貌していた。


それこそがオルガンという楽器に脈々と流れる「傲慢なまでの挑戦の遺伝子」であり、バッハがどこからともなく引き継いでしまったパンクな本能(天才)そのもの。だからこそ、バッハは生涯、この「怪物のコックピット」を愛し、狂ったように鍵盤を叩き続けた。


こうなると、皮肉なことに演奏者はキリスト教からドロップアウトせざるを得なくなる。神父様以上に演奏者が神に近づくとか、教会ではありえないから。


この一見、美しく神聖に見える「パイプオルガン」という大それたテクノロジーの裏側に隠された、人間の「悍(おぞ)ましき傲慢」と、そこからの「必然のドロップアウト(決別)」のロジック。


BWV768は教会のための音楽じゃない。


自分が、たった一人で、宇宙の絶対的な数式(神)”I am who I am”の胸倉を掴みに行くための、タイマンの道具。


リヒターもまた、20世紀の「伝統的なバッハ演奏の権威」という檻からドロップアウトし、孤立無援でこの神器ジルバーマンに向き合っている。


オカリナの音が聴くものをはるか過去に誘う。

1音ごとに、カナンの地の土埃が見え、風が舞う。

14の十字架、受難の石碑の物語が、音となり聴くものに訴える。

主題が一つ、変奏の数は11、14の受難の石碑に2つ足りない。

これは恐らくバッハがあと、5年生きていたら同じ数になっていただろう。


第10変奏の終わり、4分休符が二つある箇所まで来た。

フライベルク大聖堂に、静寂が戻っていく。


「バッハ先生、あんたもそうだったんだな。

教会のため、イエスのためなんて綺麗事を言いながら、あんたがこのコックピットでやろうとしていたのは……神への反逆(タイマン)だったんだ」


そう思いついた刹那、日輪の輝きがリヒターの視界をホワイトアウトさせた。そこにはミュンヘンに来たばかりのころ、妻グラディが描いた草原のオルガンの絵を説明してくれた東洋の最高神の姿があった。


リヒターの脳裏に彼が見たこともない33年前のシーンが現れた。


ここは…

海だ、

1945年4月7日。鹿児島県徳之島北西沖。

黒煙と爆炎、凄絶な重油の臭いが立ち込める、地獄の海。


数分前まで東洋一の威容を誇っていた超大型戦艦「大和」の鉄の巨体が、断末魔の咆哮を上げて傾ぎ、今まさに底なしの深海へと沈み始めていた。

一人の青年――吉田満は、その阿修羅のごとき渦の中に身を投げ出した。


生きるためではない。ただ、肉体が、細胞が、生を求めて暴動を起こしていた。

「何でもいい、掴まれるものに――」

必死の思いで流木やドラム缶の破片にしがみつく。しかし、数万トンの鉄塊が沈むときに発生する狂ったような引き波の渦は、人間のちっぽけな抵抗など嘲笑うかのように、吉田の身体を容赦なく光の届かない海底へと引きずり込んでいく。


渦が巻く。

飲み込まれる。


(苦しい……!)


渦に飲まれてから最初の1分半。

吉田は必死に息を止めていた。だが、極限状態の肉体において、脳は狂ったように「酸素を吸え」と命令を下す。抗えない生存本能が、水中で口を開かせた。


ゴボリ、と容赦なく冷たい海水を誤飲する。

塩水が肺胞をまたたく間に満たし、浸透圧によって血液中の水分が肺へと引きずり出されていく。肺の酸素交換機能が、音を立ててストップした。

細胞が、脳が、1秒ごとに死に向かってシャットダウンを始める。

意識の輪郭が、急速にモザイクのように崩れていく。


その、死の深淵。完璧な絶望の暗闇の中で。

リヒターの耳に、いや、吉田の脳内アリーナに、信じられない「音」が鳴り響いた。


――BWV1005。

『無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番 ハ長調』。


それは美しいが神聖な神の調べなどではない。たった4本の弦しかない、あまりにも不完全な、一挺の剥き出しのヴァイオリンのから紡ぎだされる「届きたい」という意思。


そこには神の救いなど関係ない。

あるのは、人間の思考だけで編み上げられた、凶暴なまでの意志の力だ。

たった一人で、不完全な楽器を引き裂くようにして、限界の先へと手を伸ばし続けたバッハの、あの執念の調べが、重油の海で溺死しかけている吉田の心臓に、爆音のノイズを撃ち込み続けた。


(まだだ。まだ、死んでたまるか――!)


宇宙の冷徹な物理法則(”I am who I am”)が「お前はここで死ぬ不完全な人間だ」と告げるのなら、バッハのフーガは「その壁をぶち斬って這い上がれ」と、吉田の魂の胸倉をガシッと掴んで、光の方へと強引に引きずり上げていく。


3分経過の、まさにその直前。


激しかった渦の力が、ふっと嘘のように弱まる。

吉田の身体が、浮力によって海面へと急浮上していく。


「――ぷはーっ!!!」


水面に顔を突き出し、汚れた重油の空気を、吉田が肺いっぱいに吸い込んだ瞬間。

リヒターの脳内を、眩いばかりの白銀の光――BWV1005の、あのハ長調の完全和音の残響が、爆発するように満たした。


ハッとして、リヒターの十本の指がジルバーマンの鍵盤の上で凍りつく。

目の前にあるのは、大和の海ではない。フライベルク大聖堂の、冷徹な静寂だ。


リヒターは心の中で、教会の天井に向かって、いや、音楽を「形骸化した宗教」の檻に閉じ込めてきた歴史そのものに向かって、静かに牙を剥いた。


世間が『宗教音楽』と呼び、ありがたがっているものの正体を、いまここで見せてやる。


最終楽章。伝統的な楽譜が要求する「プレーヌム(満弦)」の調和など、今のカールの敵ではない。


リヒターの十本の指は、凍りついた静寂を切り裂き、ジルバーマンのコンソールと一体化した。ペダルと主鍵盤のストップ(音色選択)から、この神器特有の、最も力強いリード管――「ポザウネ」と「トランペット」のレバーを、迷わず限界まで引き抜く。


ここからの音は生温い教会の祈りではない。

この音楽は宗教じゃない。生への執念だ。


狂ったように激化する16分音符の奔流と、複雑に絡み合う多声部(フーガのライン)が、金属のリードを引き裂く豊麗な低音の嵐となって大聖堂の空間を支配していく。ジルバーマンの強靭な風圧は、音を一切濁らせることなく、一本一本のラインを「剥き出しの音」としてくっきりと空間に彫り込んでいく。


響け。響け。

これこそが、33年前の遠い極東の地獄の海で、生身の漢の魂を生還させた『生への執念』の本当の姿だ。


大音響の中、鈴の音が聞こえた、「しゃらんしゃらん……」

鈴の音の主が動くだけで、遥か東方の古い森の、青々とした木々の匂いが立ち込める。


鈴の音の主は宣う、

ジルバーマンオルガンよ今日こそお前の信じる銀色の音で歌え

そして、わが神器と一つになれ


鈴の音の主、天照大御神が手にしていたものは、

ーーー八咫鏡(やたのかがみ)


リヒターよ、

われは、楽聖ヨハンに助けてもらったことがある

われは八百万の神の一人として、あの海の底までわれの光届かなかったこと、悔いてる

そなたに、八咫鏡(やたのかがみ)を託す


今こそ風を喰う塔の音でこの世の理を書き換えよ


そうだ、ここで俺がバッハ先生の真の意思を証明できなかったら、200年前の先生の苦労が徒労に終わってしまう。


リヒターの脳裏に、今日まで協力してくれたすべての顔が映し出される。

グラディ

テッパー

シュターダー

ヘフリガー

フィッシャー

……

師匠ラミン

バッハ先生

そして、マリアン

「WE……ARE……RECOVERY……BACH!!!」

(我々は神の音を再構築する者、バッハである!!!)


ありがとう……みんな……ありがとう……


宇宙の彼方に消えていったはずの最後の音がやんだ瞬間、

ひとしずくの、たった、ひとつの「神のしずく」が地上におちた


しずくはフライベルク大聖堂の屋根を貫通し、ジルバーマンオルガンの上に戻ってきた

まばゆい、日輪の光が、ジルバーマンオルガンから大陸にひろがってゆく、海を越え、はるか東の国まで。


それを見ていた、アマテラス様はそっとつぶやいた。

西洋の最高神よ、そろそろ恥ずかしがる時間もおわりですよ、と


世界は真っ白であった。

その中に12体のみかん色の光があらわれた。

はじめの天使は、11人の小さな天使をつれていた。

12人の天使は、数千年の天空の記憶を宿した聖なる光をその双眸に灯していた。


そして、全員でうやうやしくチュニックの両裾を持ち上げると、深々と礼をした


「狼さん、よかったね……」


マリアンが礼を終える。


そのまま横へ一歩退く。


すると、


神殿の柱の向こうから、


ゆっくり、


木靴の音が響く。


コツ……


コツ……


コツ……


誰も顔を見なくても分かる。


あの歩き方。


あの存在感。


32フィートそのもの。


そして、


柱の陰から、


ヨハン・セバスティアン・バッハが現れる。


笑っている。


豪快ではない。


父親が帰ってきたような、


安心した笑顔。


もう十二年越しの約束だから。


涙だけが勝手に流れる。


「……先生。」


「帰って来たな。」


二十七年間閉ざされていた故郷。


十二年前の約束。


「おかえり」


この言葉を聞いたリヒターはフライベルク大聖堂のオルガンコンソールに戻っていた。



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