第4章 不完全なる者たちを助ける天使たち
シーン1:二人の小さな「マリア」
1961年、ミュンヘン・バッハ合唱団練習室。
ロ短調ミサの録音を目前に控え、リヒターはいつにも増して神経を尖らせていた。
今日、ソプラノのマリア・シュターダーが初顔合わせで訪れる予定だった。
「シュターダー嬢は時間に正確な人だ。もうすぐ来るはずだ」
カールがそう言った直後、ドアがノックされた。
「どうぞ」
ドアが開き、入ってきたのは——
小さな、小さな女性だった。
身長は144センチほど。華奢で、まるで少女のように可憐な容姿のマリア・シュターダー。
しかし、その隣に——
「おいすー! 狼さん、こんにちは!」
同じくらいの身長の、オレンジ色の髪をした天使マリアンが、無邪気に手を振っていた。
二人が並んで立っている姿は、まるで双子の姉妹のようだった。
ただし片方は現実の人間で、もう片方は明らかにこの世のものではない。
カール・リヒターは言葉を失った。
「……シュターダー……嬢?」
シュターダーは少し恥ずかしそうに微笑みながら、小さな手を差し出した。
「はじめまして、リヒター先生。今日はよろしくお願いいたします」
その横で、マリアン(天使)はぴょんぴょん跳ねながら言った。
「私も! よろしくね!」
リヒターの脳内が一瞬真っ白になった。
(……なんだ、この状況は。二人とも……小さすぎる……)
テッパー姉御が後ろから大声で笑い飛ばした。
「ははっ! 狼君、今日はラッキーね! 天使が二羽も来たじゃないの!」
グラディも後ろから出てきて、思わず口元を押さえた。
シュターダーはマリアン(天使)を不思議そうに見つめていたが、なぜか自然に微笑んだ。
「なんだか……この子、懐かしい感じがするわね」
マリアン(天使)はにこにこしながらシュターダーの手を握り返した。
「シュターダーおねえさん、声がきれい!きっとパパも喜ぶよ!」
カールは額を押さえながら、ようやく掠れた声を出した。
「……シュターダー嬢。君は一人で来るはずだったよな?」
シュターダーは悪戯っぽく笑った。
「ええ。でも、どうやらもう一人、ついてきちゃったみたいですね」
練習室に、珍しく明るい笑い声が広がった。
二人が並ぶ姿は、まるで双子の姉妹のようだった。
その瞬間、リヒターの脳裏に11年前の記憶が鮮やかに蘇った。
——1950年、灰色のライプツィヒ、聖トーマス教会。
プロパガンダに塗れたバッハ没後200年祭の喧騒の中で、絶望に沈んでいた自分。
そして、突然脳内に響いた、たった一人のソプラノによる、圧倒的なキリエ。
あの時、澄み切った声が一瞬で世界を調律し、自分を跪かせた——。
「……シュターダー嬢」
リヒターは低く、しかし熱を帯びた声で言った。
「まず、キリエをお願いしたい。
ロ短調ミサの、最初のキリエ……
できる限り、純粋に、一人の声で」
シュターダーは少し驚いた表情をしたが、すぐに静かに頷いた。
「わかりました」
彼女は目を閉じ、深く息を吸った。
その瞬間、マリアン(天使)が小さく微笑んだ。
シュターダーの声が、静かに練習室に広がり始めた。
*Kyrie eleison……*
透明で、けれど芯のある、美しいソプラノ。
1950年のあの「天使の声」とは違うが、どこか通じるものがあった。
リヒターは目を閉じ、じっと聴き入っていた。
やがて、ゆっくりと目を開け、二人(?)の小さなマリアを見つめた。
「……似ている。
いや、違う。
だが、どちらも本物だ」
マリアン(天使)は嬉しそうにぴょんと跳ねた。
「狼さん、あの時のこと覚えててくれたんだ!
私、シュターダーおねえさんの声、すごく好き!」
シュターダーはマリアン(天使)を不思議そうに見つめながらも、柔らかく微笑んだ。
「なんだか……この子と一緒にいると、声が自然に上に向かっていく気がするわ」
その日、リヒターは初めて本気で思った。
(……この録音は、きっと特別なものになる)
二人の小さな「マリア」が並ぶ光景は、まさに高天原から届けられた、もう一つの「光の通奏低音」だったのかもしれない。
シーン2:二人の「マリア」
1961年2月、ミュンヘン。
ヘラクレスザールでの録音本番当日、スタジオの空気は異様な緊張と期待に満ちていた。
リヒターは指揮台に立ち、黄金期の精鋭たちをゆっくりと見渡した。
ヘルタ・テッパー(アルト)は、腕を組んで仁王立ちし、いつものように豪快に笑っていた。
力強く母性のある声で、合唱団の精神的支柱。
エルンスト・ヘフリガー(テノール)は、静かに目を閉じ、透明で叙情的な声の準備を整えている。
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バス)は、重厚で荘厳な低音を胸の奥に溜め、深淵のような存在感を放っていた。
そしてマリア・シュターダー(ソプラノ)は、小柄な体をまっすぐに立て、輝かしく透明な声を解き放つ準備をしていた。
その隣に、まるでマリアを鏡に映したような小さなオレンジ色の髪の天使マリアンが立っていた。
リヒターが低く言った。
「まずはキリエから。……できる限り、魂を込めて」
マリアン(天使)がぴょんと前に出た。
「ねえ、狼さん!
ここだとまだちょっと物足りないよ。
もっと高い天井で、たくさん反響する場所の方がいいと思う!
私、本気で歌ったら、きっともっと凄くなるよ?」
リヒターは一瞬驚いたが、すぐに目を細めた。
「……本気か?」
「うん! 本気!」
シュターダーも興味深そうにマリアンを見つめ、柔らかく微笑んだ。
「それなら……近くの聖堂をお借りしましょうか?
私も、この子の声をもっと聴いてみたいわ」
「……聖堂へ移動しよう」
一行は近くの聖堂へと移動した。
石造りの高い天井、ステンドグラスから差し込む午後の光。
聖堂全体が、音を慈しむように静まり返っていた。
マリアン(天使)は祭壇の前に立ち、深く息を吸い込んだ。
「じゃあ……本気で歌うね」
彼女は深く息を吸い込んだ。
その瞬間——
聖堂の空気が、音もなく張りつめた。
最初の一音が、静かに放たれた。
Kyrie_
その声は低く、しかし確実に上昇し、聖堂の床を這うように響いた。
そして——
ビリビリビリ……!
聖堂の巨大なパイプオルガンのパイプが、物理的に共振を始めた。
マリアンの声がオルガンのパイプに直接ぶつかり、地震のような低く重い伴奏を生み出す。
一つの声が、巨大な楽器全体を震わせるという、常識を超えた現象だった。
KyriE_ー
最初の響きがまだ収束しないうちに、マリアンは二つ目の声を重ねた。
二つの「KyriE_ー」が重なり合い、聖堂全体を揺るがす。
反響が反響を呼び、声が幾重にも折り重なって、まるで本物の合唱隊が歌っているかのような厚みと荘厳さが生まれた。
「主よ、憐れみたまえ」そんな生温いものではない。もっと深淵から湧き上がる、歴史が始まってからのすべての人類の悲願、渇望を音にしたものが目の前に炸裂した。
Kyrie eleison……
マリアンの声が頂点に達した瞬間、シュターダーが静かに声を重ねた。
二人のソプラノが絡み合い、光の渦となって聖堂を満たす。
テッパーのアルトが、母なる大地のように低く太く支えた。
彼女の声はすべての声を優しく包み込む。
ヘフリガーのテノールが、透明な光の糸のように織り込まれ、叙情的に旋律を彩る。
フィッシャー=ディースカウのバスは、深淵から響くような重低音で、すべての声をしっかりと大地に繋ぎ止めた。
Kyrie eleison…… Christe eleison……
聖堂はもはや一つの巨大な共鳴箱と化していた。
マリアン(天使)とシュターダーのソプラノが主導し、四人の声が完璧に融合する。
それは単なる宗教曲ではなく、神代の高天原でバッハがアマテラスに捧げた音が、地上に再現された瞬間だった。
リヒターは指揮棒を握ったまま、呆然と立ち尽くしていた。
目頭が熱い。
胸の奥が、激しく震えている。
(……これだ。これこそが、俺がずっと追い求めていた音……)
最後の「eleison……」の余韻が、長い残響となって聖堂の石壁に吸い込まれていくまで、誰も動けなかった。
静寂のあと、リヒターが震える声で言った。
「……完璧だ。
君たち全員……ありがとう。
これが、本物のロ短調ミサだ」
シュターダーはマリアンに近づき、そっとそのオレンジ色の髪に触れた。
「あなた……本当に天使なのね。
私、今日この声に出会えてよかった」
マリアン(天使)は照れくさそうに笑いながら言った。
「えへへ、どうだった?
パパも、きっと喜んでるよ!」
テッパー姉御が豪快に笑いながら涙を拭った。
「狼君……これは歴史に残るわよ。本当に」
ヘフリガーとフィッシャー=ディースカウも、ただただ深く頷くばかりだった。
この日の録音は、ミュンヘン・バッハ合唱団の黄金期を象徴する、伝説的な一日にとなった。
二人の「マリア」が生み出した光は、
その後も長く、リヒターの胸の奥で「通奏低音」として鳴り続けていくことになる。
1964年、秋。デンマーク、コペンハーゲン、イエスボー教会。
カール・リヒターは、マルクセン&スン社が新調したばかりの近代的なパイプオルガンの前に、幾日も、幾日も座り込んでいた。
灰皿には、短くなったタバコの吸殻が山をなしている。睡眠不足で濁ったカールの瞳は、鍵盤を睨みつけたまま動かない。音栓を 引き、押し込み、また引く。その指先は、完璧な音を求めすぎるあまり、まるで自傷行為のように強張っていた。
「……チッ」
鍵盤を叩くように和音を鳴らし、カールは苦く呟いた。
平均律に極めて近いこのオルガンは、楽器としての正確さにおいて「満点」だった。唸り(ウルフ)がほとんど発生せず、複雑な転調も濁りなくこなせる。BWV 540(ト長調トッカータ)の明快なパッセージや、BWV 543、544、548といった転調のキレで魅せる名曲は、この硬質でクリアな響きのおかげで、ある種の計算された構築美として成立していた。
だが、ハ短調の『パッサカリア(BWV 582)』や、あの巨大な変奏群『おお神よ、汝義なる神よ(BWV 768)』の前に立つと、完璧なはずの精緻さだけでは至れない壁にあたった。
音が、小さくまとまりすぎるのだ。どんなに32フィート管の重低音を響かせても、冷たい石壁に反射した音は、豊かな残響にならずに「小さな箱の中で吼えている狼」のような窮屈さを露呈した。
「俺が求めているのは、こんな、小綺麗で正確なだけの現代のおもちゃじゃない……」
カールが鍵盤に頭をうずめようとしたその時、祭壇の影から、143センチのみかん色頭の天使がぴょんと跳ねて近づいてきた。
「狼さん、また目の下にクマさん作って、このオルガンといがみ合ってるの?」
リヒター本人の心の重みなどどこ吹く風という様子で、カールの隣のベンチにちんまりと腰掛けた。
「お前には分からないさ」カールは自嘲気味に笑い、タバコの煙を吐き出した。
「このオルガンは弾きやすいのは認める。だが、あの宇宙のようなオルガンに比べたら、これはあまりにも誠実すぎて、俺の魂がはみ出してしまう」
マリアンは短い足をぶらぶらさせながら、カールの強張った指先をじっと見つめた。
「でもね、このオルガン、おもちゃなんかじゃないよ。ほら、冷たい箱の中で、狼さんと一緒に精一杯歌おうとしてる。……狼さんが本当に行きたいのは、もっと銀色の、眩しいシルバートーンのところでしょ?」
「……!」
カールの胸の奥が、鋭く、熱く、抉られる。
「そうだ、俺はあの音に戻らなければならない。フライベルク大聖堂の、ジルバーマン・オルガンに。東側の、あの……」
冷戦の壁が阻む、決して帰れない故郷。カールは鍵盤にそっと触れた。
「ここでの録音は必要な通過点だ。この不自由さも、俺の血肉にする。だが……」
「だいじょうぶだよ、狼さん」マリアンはにこっと笑い、カールの肩に、驚くほどあたたかい小さな手を置いた。
「パパも、きっと待ってる。いつか、ちゃんと『あの音』に辿り着けるから」
数時間後、リヒターはグラモフォンの録音技師たちとの緊迫した打ち合わせに参加していた。
その最中、ミュンヘン・バッハ合唱団の黄金期を支えるメンバーたちが、カールが格闘するオルガンを見に聖堂へやってきた。その中には、ソプラノの至宝、小さなマリア・シュターダーの姿もあった。マリアンとシュターダーは仲良く(?)オルガンのベンチに座っていた。
二人の身長は143cmと144cm。
どちらも遠いペダルに足が届かない。
そこで、二人で連弾。
「真ん中の32フィート管は私が踏むの!」
「だめよマリアン! 低音は安定感が大事なんだから、私が踏むわ!」
二人が小さな体を左右に揺らしながら、本気で揉め始めた。
ベンチの上でお尻が交互にずれ、危うく落ちそうになる。
マリアン「シュターダーおねえさん、ずるい! 私の方がパパの音楽を長く知ってるもん!」
シュターダー「でも私は人間として、ちゃんと責任を持って低音を支えたいの!」
「じゃあ交互に!」
「順番決めて!」
「えーい! じゃんけん!」
打合せから帰ってきたリヒターは最初、呆然と見ていたが、二人が本気でじゃんけんを始めると、思わずタバコをくわえるのも忘れて近づいた。
「…………おい、お前ら」
彼はため息をつきながらも、結局二人の間に膝をついてアシストを始めた。
左側にマリアン、右側にシュターダーを座らせ、自分が真ん中で二人の腰を軽く支えながら、ペダルを交互に踏ませるという、史上稀に見る珍妙な連弾体制が完成した。
マリアン「狼さん、もっと左に寄って!」
シュターダー「カール先生、右もお願い……きゃっ、ずるっ!」
「わっ、落ちる!」
二人が同時に前傾した瞬間、リヒターの両手が慌ただしく動く。
片手でマリアンの腰を、もう片手でシュターダーの背中を支えながら、必死にバランスを取っている。
その姿は、普段の「バッハの鬼」と呼ばれる厳格なカール・リヒターとは全く別人だった。
テッパー姉御が後ろで腹を抱えて笑い転げた。
「はははっ! カール君、顔が! 顔が完全に父親よ!
タバコも忘れてるし、すごい可愛い顔してるわ!」
リヒターは耳まで赤くなりながら、珍しく声を荒げた。
「……うるさい、テッパー!
この二人を放っておいたら本当に落ちるだろうが!
それから、みんなの前でカール君はやめろ!」
マリアンはリヒターの手にしがみつきながら、無邪気に笑った。
「狼さん、あったかい!
パパも、昔はこうやって家族みんなでオルガン弾いてたんだよ?」
シュターダーは照れくさそうに微笑みながら、小声で言った。
「……カール先生、意外と優しいんですね」
リヒターは二人の小さな体を支えながら、深いため息をついた。
(……俺は一体、何をやっているんだ)
しかしその口元は、完全に緩んでいた。
その時、地鳴りのような、圧倒的な包容力を持ったバリトンボイスが聖堂の空気を激しく共振させた。
「おい、ちびすけ! 元気でやっているな?歯( ̄∇ ̄;)ハッハッハ」
その声は、まるで32フィート管の低音が直接空気を震わせるかのように、重く、力強く、しかしどこか愛情に満ちていた。
マリアンの顔がぱあっと輝いた。
「あー! パパだ~!!!」
オルガンの背後の巨大な影から悠然と姿を現したのは、肉厚なハンティングジャケットを羽織った、丸太のような背中の大男。ヨハン・セバスティアン・バッハ、その人だった。
マリアンが嬉しそうに叫んでその極太の腕にしがみつく。バッハは豪快に笑いながらマリアンの頭を大きな手でくしゃくしゃに撫で回し、目を丸くして固まっているもう一人の小さな歌姫に視線を移した。
「お? 今日は新しいちびすけがいるな。そちらはシュターダー嬢か。いいコンビだ。二人とも同じくらいの背丈で、足が鍵盤に一ミリも届かないところがまた良い! ハッハッハ!」
「パパ! シュターダーおねえさん、声がとってもきれいなんだよ!」
バッハはイエスボー教会のオルガンを前に、楽しそうに笑いながら言った。
「お前がまた、オルガンで変なことをやってるようで見に来たんだが……
ふむ、ずいぶん賑やかになったものだな」
マリアンはリヒターの腕から飛び出し、バッハに向かってぴょんぴょん跳ねながら駆け寄った。
「パパ! 久しぶり! 見て見て、私もう少し大きくなったよ!」
「何を言っておる?1ミリも伸びとらんぞ、歯( ̄∇ ̄;)ハッハッハ」
バッハはマリアンの頭を大きな手でもう一度優しく撫でながら、リヒターの方を見た。
「ほう……お前が、俺の音を継いでいる若者か。
カール・リヒター、だったな。
随分と……大変そうだな?(笑)
カールの顔から、一瞬で血の気が引いた。真っ青を通り越して、完全に真っ白。完璧主義の狼の膝が、がくがくと目に見えて震えていた。
「……バッハ……先生……?
俺は……夢を見ているのか……?」
テッパー姉御は後ろで腹を抱えて笑い転げ、シュターダーは目を丸くして呆然としていた。
バッハは豪快に笑いながら言った。
「夢でも幻でもない。
ただ、ちびすけが楽しそうにしているから、様子を見に来ただけだ。
……おい、リヒター。
その二人を支えるのは大変だろうが、しっかりやれよ。
俺の音楽は、完璧な者だけが継ぐものではない。不完全で、届かなくて、めちゃくちゃな者たちが継いでこそ、光になるのだ」
リヒターはまだ真っ青のまま、ただただ頷くことしかできなかった。
「……せ、先生……」
バッハは、深く優しい声で言った。
「カール・リヒター。お前の音は、ちゃんとここまで届いておるぞ」
「……!」
「ゴットフリート(・ジルバーマン)の音でなくとも——」
バッハは、イエスボー教会の現代的でコンパクトな天井を見上げた。
「お前の中にある、血を流すような音は、ちゃんとこの親父の胸に届いておる」
マリアンがカールの方を振り返り、悪戯っぽく、そして最高に優しく笑った。
「ね? マリアンがだいじょうぶって言ったでしょ、狼さん」
リヒターはしばらく涙を堪えるように激しく喉を震わせていた。それから、ゆっくりと、祈るようにバッハに尋ねた。
「……先生、一つだけ、聞いていいですか」
「なんだ」
「フライベルクのジルバーマン・オルガンは……俺を、拒まないでしょうか」
バッハは静かに、しかし確かに微笑んだ。
「待っておるよ。お前が、本当の俺の音を鳴らしに帰ってくるのをな」
バッハはそう言うと、リヒターの前にあったBWV 540の楽譜の、終わりのページをザッとめくった。
「リヒターよ、ひとつ教えてやろう。このト長調のトッカータの、このパッセージはな……。シュターダー嬢、その音栓を引いてくれ」
「は、はい、先生!」
シュターダーが緊張しながらも、澄んだ高音を宿すストップを引く。
「ちびすけ、シュターダー嬢、ここから弾いてみてくれ。できるだけ、お前たちの命の喜びを表すように、スタッカートではずみをつけてな」
「良いか、リヒター…ここだよ」
バッハがそう言った瞬間、バッハの丸太のような足が、力強くペダルを踏み込んだ。
ドォォォォン……!!!
その瞬間、イエスボー教会の「小さな箱」だったはずの低音パイプが、歓喜の地鳴りを上げて空間を完全に拡張した。
「もう一度だ! 今度は今の高音の旋律をすべてシュターダー嬢が受け持て! ちびすけ!力を貸してくれ!イメージをリヒターに見せるんだ」
シュターダーの演奏する天上の眩いソプラノのような高音旋律と、バッハの踏み込む圧倒的な低音のポリフォニーが、完全なる同調を果たしたその瞬間——。
聖堂の空気の一粒一粒が反転し、厳かな静寂が満ちる。
ちびすけ天使マリアンの瞳から幼さが消え、数千年の天空の記憶を宿した聖なる光がその双眸に灯った。
「——アイ……アム……リカバリー……バッハ」
(私は神の音を再構築する者……バッハである)
その静かな託宣とともに、シュターダーにも、そしてカールの睡眠不足の脳内にも、壮麗な「天上の光景」が同時に現出した。
楽譜の、あの二つの旋律が交錯する一点を突き破り、オレンジ色の天使は白銀の翼を持つペガサスの背に乗って、イエスボー教会の天井を透過し、成層圏へと一気に急上昇していく。冷戦の壁も、ベルリンの分断された空も遥か眼下に置き去りにして、人間が住む青い惑星がその神々しい姿を現す宇宙の臨界点まで。
天空の階梯の頂点。マリアンは世界の調律者(天使)としての威厳を纏い、胸の前でそっと手を合わせた。
「天空の友よ、地上の友よ、共に喜べ!」
神代のアマテラスから託された、宇宙の運行を司る無限の神気が、彼女の祈りによって一滴の眩しい「しずく」へと凝縮されていく。
そして、しずくが、ひとつ、たったひとつ、地上へ落ちた。
イエスボー教会の冷たい石の床に滴り落ちた一滴のしずくは、目に見えぬ光の波紋となってオルガンのすべてのパイプを駆け巡り、硬質だった近代的な楽器を、宇宙の通奏低音を鳴らす「奇跡の聖堂」へと生まれ変わらせた。
リヒターは、溢れ出る涙を拭うのも忘れ、覚醒したオルガンの響きの中に、バッハの笑顔の中に、ただ魂を委ねていた。
バッハはリヒターの肩に大きな手を置き、静かに言った。
「リヒター、お前は俺の音楽を『完璧に再現しよう』としているな。
それは素晴らしいことだ。
だが……忘れるな。
俺の音楽は、『完璧』ではない。
俺も、お前と同じように、不完全で、届かなくて、めちゃくちゃだった。
だからこそ、俺は音楽を書き続けたんだ」
リヒターは震える声で答えた。
「……でも、俺は……あなたの……先生の音楽を、正しく伝えたいんです」
バッハは優しく笑った。
「『正しく』? そんなものはない。
お前が感じたままに、お前の『不完全さ』をぶつけろ。
それが、俺の音楽を『光』にする唯一の方法だ」
バッハは豪快に笑いながら、最後に一言残した。
「楽しめよ、カール君。
音楽は、堅苦しいだけではつまらんぞ」
こうして、1964年から1966年にかけたイエスボー教会での録音は、人類の至宝として成功を収めることになる。
冷たい平均律の中に、確かに宿った神のしずくの残響。
遠い東側の鉱山の向こうで、ジルバーマン・オルガンは、静かに彼を待っている。
(待っておるよ……)
そこから、実に十二年。
カール・リヒターは、ボロボロになりながらも、その約束の地へと向かって、孤独な狼の旅を続けることになる。
(第4章 了)




