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『ちくしょう、神に届け!』と叫んだ楽聖たちのために、みかん色の少女が32フィート管をぶち鳴らす話。  作者: 天音近


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第3章 音楽は、言葉が力尽きたところから始まる

シーン1-1. 灰のなかの問いかけ(ライプツィヒ、1950年7月28日)



1950年、ライプツィヒ。


彼はまだ、戦争が残した深い灰の色の街に佇んでいた……


その年、ひとつの奇跡と、不条理な歴史の交差点がライプツィヒの聖トーマス教会に訪れる。


1943年、7年前の大空襲。


連合軍の爆撃によって街の4割が壊滅し、バッハの遺骨が眠る聖ヨハネ教会は無惨に破壊された。


1943年の空襲で焼失した身廊の廃墟は、復旧させずに「ガレキ」として早々に撤去された。


これは、歴史的建造物の復元よりも、社会主義的な新しい広場や近代建築の建設を優先したためだった。


しかし、トーマス教会だけは、まるでバッハの霊が盾となったかのように奇跡的に直撃を免れ、戦後の荒野にぽつんとそびえ立っていた。


1950年、バッハ没後200年祭、バッハの命日に合わせて数々のイベントが行われた。


1950年7月28日バッハの遺骨はトーマス教会の主祭壇へと移送され、厳かに再埋葬された。


その歴史的瞬間の中心に、わずか23歳の若きカール・リヒターがいた。


彼は臨時のトーマス教会オルガニストとして、すなわち偉大なるトーマスカントルの代行として、主祭壇の床に眠る聖骨のすぐ傍らで、ザウアー・オルガンの鍵盤に向き合っていた。


だが、若き狼は飢えていた。


世界はあまりにも不自由だった。


戦後の東ドイツが抱える慢性的な燃料不足と、極度に脆弱なインフラ。


教会の巨大なオルガンに風を送り込む電動送風機(モーター)は、日常的な停電と、常に乱高下する不安定な電圧の軛(くびき)に繋がれていた。


フルオルガンの圧倒的な音響、伽藍全体を震わせる咆哮を望むことなど、この時代のライプツィヒでは到底叶わぬ傲慢だった。


(ザウアー・オルガン……お前の音は暗すぎる……)


青年カールが選んだのは、人間の喉の渇き、あるいはむせび泣きを模したような、硬質でくぐもった木管——オーボエの音栓(ストップ)だった。


(これなら、なんとか……いけるか……)


奏でられるのは、『トリオ・ソナタ第6番 ト長調 BWV 530』の第2楽章 Lento。


右手と左手が、互いの傷口を確かめ合うように、重く、静かなため息を交わし合う。


その音は、旋律という永遠の修辞学(語り)となって、暗い伽藍に響き渡る。


(なぜ、こうなった……)


それは青年カール自身の、そして戦争で全てを失った人々の、神とバッハへの引き裂かれそうな問いかけだった。


世界はなぜ、こんな姿になってしまったのか。


これで良いのか。


問いかけるたびに、電圧の低下によってオルガンの風圧がふっと抜け、オーボエの響きは、息絶える鳥のように低くうめいて途切れる。


答えにならない声。


沈黙という名の拒絶。


近代の「電気」という不確実なシステムに、不滅のポリフォニーが切り裂かれるたび、カールの魂の底には、どす黒いほどの音楽への「飢餓」が澱のように溜まっていった。


(これでは、あそこにたどり着けない……)


師ギュンターラミンの厳しい指導の中で実践的な演奏手法を学んだが、しかしそれを支える他全ての環境が不十分だった。


歴史は、バッハを社会主義の英雄として掘り起こし、プロパガンダのため祀り上げた。


バッハの音楽そのものはプロパガンダのために作られたものではないが、1950年代の当局において、国家の威信とイデオロギーを正当化するために「バッハが持つ愛国的な側面や労働者的な側面」が政治的に利用されたというのが事実の背景であった。


プルパガンダ自体は音楽に関りはない、それは青年カールがまだ我慢できる範囲内ではあった。


(なぜ、こうなった……)


カールは再度問いかける


カールの頭の中には、1950年のバッハ没後200年祭中に合わせライプツィヒで盛んに演奏されたBWV232ロ短調ミサのキリエの主題が重なり響いていた。


(あんなものは、本当のキリエではない……)


キリエは極めて重要なキリスト教の儀礼曲の導入部であるが、その圧倒的なスケール感から、当局は「全人類の団結、平和、そして階級を超えた人間愛の賛歌」としてプロパガンダに利用していた。


(本当のキリエとは、人間が命を削りながら求める続ける助けへの旋律だろうが……)


バッハ家は大家族だった。


最初の妻、マリア・バルバラ。その間にできた7人。


二番目の妻アンナ・マグダレーナ。そしてその間にできた13人、計20人もの子供たちの歴史。


大家族だったが、その子供の約半数を幼いうちに失った。


そして、その中で、膨大な曲を書いた。


彼女たち家族の遺骨は、この1950年の狂騒の中にも、そして遠い未来である現在に至るまで、冷たい土の底に置き去りにされたままだ。


引き裂かれたまま、決して隣に並ぶことはない。


不完全で、残酷な人間の歴史。


リヒターの横でそれを見ていた小柄な天使は、きゅっと胸を痛めるように、世界の遥か高天原へと向かって小さく呟いた。


(アマテラス様、あの狼さん助けたい……)


遥か遠い高天原からアマテラスは小さな天使にそっと神気をおくった。


その瞬間小柄な天使は、ポンっと光り一人の若い女性となってカールの横に立った。


カールは驚きハッと目を見開いた。


そしてその天使は重厚な合唱ではじまるロ短調ミサのキリエの主題の最初のハーモニーをたった一人でカールの脳内に響かせた。


それは、確かに一人の澄み切ったソプラノの声。

しかしトーマス教会の大伽藍に反響し、一人の声が幾重にも重なりたった見事なハーモニーとなる。しかも大聖堂のオルガンのパイプをビリビリと振動させ、まるでオルガンが鳴っているようだ。伴奏があるように聴こえる。


(ありえない!……これは……人間の力をこえた……)


驚くべきことには、彼女の声が始まる前のわずかな間、恐らくは彼女が歌うために空気を吸い込んだとき、それは本当に一瞬の間、世界のすべてがスローモーションの世界にはいった。


(だいじょうぶ、安心ですよ)


カールの心が途方もない安心感に満たされる。


音の出る前の一瞬(1秒の何千分の一)に、世界は調律され、それによって世界がシンクロし、「フワッ」と美しい風がふきつける


(だいじょうぶ……安心ですよ……)


音は放たれた!


Kyrie !(主よ!)


そのキリエの主題を聴いたときカールは、そこに立っていられず、ただ跪いた。


諤々と震え、ただボロボロと涙を流した。


(あぁ、これが本当のバッハの音!)




シーン1-2. 灰のなかの問いかけ(ライプツィヒ、1950年7月29日)


次の日、カールはバッハ・コンクール首席受賞の式典に参加していた。


お仕着せの拍手と赤旗のプロパガンダは、23歳のカールの耳にはただの雑音でしかなかった。


「何が首席だ。何が没後200年祭だ。俺はこんな、政治の道具にされたバッハ先生の死体置き場のために演奏したんじゃない」


ふてくされた顔のまま会場を飛び出したカールは、気づけば夜の闇の中、トボトボと足を引きずりながら、師ギュンター・ラミンに教えを受けた古い教室へと辿り着いていた。


季節はまだ、7月の終わり。


本来なら熱気がこもるはずの古い石造りの部屋は、なぜかひんやりと冷たく、まるでカタコンベの底のような静寂が満ちている。


窓の外からは、草むらにひそむ鈴虫の音が、チリン、チリンと、現実を削ぎ落とすように鳴り響いていた。


カールは、部屋の隅に置かれた古いチェンバロの前に腰を下ろす。


ピアノのように音が持続しない、引き算の楽器。


彼は鍵盤を一音、また一音と押し下げた。


鳴り響いたのは、マルチェッロの協奏曲をバッハが編曲した『BWV 974』のアダージョ。


装飾を削ぎ落とした、あまりにも静かで、あまりにも孤独な単音の導入。


爪が弦を「カサッ」と弾く乾いたノイズのあとに、ぽつんと置かれる音の粒子。


それは、まるで暗闇に落ちる滴のようだった。


7月7日は最初の母(マーリア・バルバラ)の命日、アンナ・マグダレーナは冬の2月だったか。


そして、昨日7月28日はバッハの命日だ。


「おれは、一体何をすればいい?」


問いかけるカールの指が止まる。


鈴虫の音だけが響く。音楽の聖地ライプツィヒで、カールに返ってきたのは、何ひとつ答えにならない「無音」という名の冷たい解答だった。


その時、チェンバロの上のローソクの光が、ふっと大きく揺れた。


壁に映るカールのシルエットがぐにゃりと歪み、信じられないほど巨大に膨れ上がる。


暗闇のセクタがバグを起こしたように、その光の影の向こうから、すーっと立ち上がってきたのは――いままで聴いたこともない楽器の響きだった。


チェンバロの鍵盤の上に、小さな、子供のような小さな手が重なっていた。


驚いてカールが息を呑む。そこにいたのは、ブロンドでも赤毛でもない、まるで「みかん」のような鮮やかなオレンジ色の髪をした、おそろしく小柄な天使だった。


「おいすー」


「狼さん!そんなふてくされた顔してたら、パパの骨が怒って這い出てきちゃうよ?」


天使はそう悪戯っぽく笑うと、小さな身体をいっぱいに使って、鍵盤に指を叩きつけた。


激震が走る。鳴り響いたのは『半音階的幻想曲とフーガ BWV 903』。


それはカールの知っている、お行儀のいいチェンバロの演奏ではなかった。


小柄な天使の体から放たれているとは信じられないほどの、凄まじい音の連打。


白鍵と黒鍵の境界線をのたうち回る半音階の泥流。


それはまるで、不条理な歴史の壁や、政治の檻、人間を引き裂くすべての境界線と真っ向から殴り合うような、命がけの「音の格闘技」だった。


激しいアルペジオが部屋の石壁を打ち鳴らし、カタコンベの死者たちを揺り動かす。


カールの網膜に、みかん色の髪が激しく揺れる残像が焼き付いて離れない。


「……あぁ!……貴方は……昨日の……Kyrie様」


カールの目から、熱いものが頬を伝って流れ落ちた。


昼間のプロパガンダに凍りついていた彼の心が、天使の剥き出しのポリフォニーによって、粉々に打ち砕かれていく。


みかん色の小柄な天使は、ピタリと演奏を止めるとニカッと笑って告げた。


「狼さん、感動しなくなったら、終わりだよ」


そうか、この小柄な天使が鳴らす、世界を裏切らない本物の響きを、俺は檻の外へ連れ出さなきゃいけない。


家族が人質になろうとも、歴史に押し潰されようとも、俺はこの音楽を缶詰に閉じ込めて、自由な宇宙へ届けるんだ。


カールの「火の亡命」への覚悟が、みかん色の光の中で、ついに産声を上げた。


1951年、彼はすべてを捨てて、演奏旅行中に西ドイツのミュンヘンへ亡命する。


それは、彼自身の正気を保つための生存闘争の始まりであり、四半世紀後にフライベルクで起きる、あの「シルバートーンの再起動」への、壮大なる逆流の第一歩だった。



シーン2:ミュンヘンの凍えるビラと、飢えた狼



フェリックス・メンデルスゾーンがこじ開け、アルベルト・シュヴァイツァーが密林の闇のなかで繋ぎ止めたバッハの光。


しかし、二度の世界大戦というおぞましい常闇を経て、敗戦国ドイツの地には、物理的な「新たな岩戸」がみしみしと構築されつつあった。


東西を分かつ冷徹な壁。


戦争ですべてを灰にされた焼け跡のなかで、己の正気を保ち、人間が生きるための「真の熱気」を爆発させる場所を求めて、青年カールは1951年、すべてを捨てて西側のミュンヘンへと脱出した。


西ドイツへ渡ったリヒターは、すぐにミュンヘンの聖マルコ教会のオルガニストに就任し、同時にミュンヘン国立音楽大学の講師に迎えられた。


同年、のちの「ミュンヘン・バッハ合唱団」となる団体の指揮をしたが、この時点ではメンバーの絶対数が不足していた。


皮肉なことだが、自由の天地であるはずの西ドイツ・ミュンヘンで彼を待っていたのは、華やかな自由や喝采ではなく、冷酷なまでの無関心という名の常闇だった。


1952年、厳しい冬のミュンヘン。


石畳を凍らせる寒風が吹き抜ける街頭に、外套の襟を立てたリヒターが、一人でぽつんと立っていた。


誰も、名もなき若きオルガニストのバッハなど聴こうとはしない。


リヒターはかじかむ指先で、安っぽい紙に印刷された自作のチラシを握りしめていた。


そこには、彼の妥協なきビジョンを具現化するための、泥臭い叫びが書かれていた。


――『バッハを、一緒に歌いませんか?』


「……バッハを……バッハのカンタータを、一緒に」


リヒターは通り過ぎる人々にビラを差し出すが、誰もが怪訝な顔で彼を避けていく。


リヒターのバッハは、教会で静かに祈るための「敬虔な子守唄」ではない。


常に何かと格闘している、剥き出しの暴力だった。


寒さと孤独で、リヒターの魂がガチガチと凍りつきそうになった、その時だった。


「おいすー!」


「また会ったね」


ミュンヘンの雑踏のなか、およそ1950年代のドイツには存在し得ない言葉、妙に軽くて抜けた、しかしどこまでも温かい不思議になつかしい声が響いた。


リヒターの背後の街灯の上に、ふわりと、小柄な天使が舞い降りた。服装は、この時代のドイツの子供服とは違う、どこか古代ギリシャのチュニックのような不思議なワンピース。


その天使は、国境も鉄のカーテンもすべてを飛び越えて、この孤独な青年を追って彼の元へと飛んできた。


リヒターは息を呑み、誰もいないはずの背後を見上げた。


そこにはみかん色をしたとても恐ろしく小柄な天使がいた。


「……Kyrie様……」


天使はリヒターの横に舞い降りると、少し抜けたお茶目な笑顔を浮かべながら、ビラを握りしめるリヒターの手の上に、自分の透き通る手をそっと重ねその手からタバコをとりあげ捨てた。


「こら!またタバコ吸ってるし!!」

「昨日もあんまり寝てないし、お酒臭いし!!」


リヒターの目が点になる。


「いい?アフリカのおじいちゃんも、イケメンのメンデルスゾーンもパパも、みんなこの音の中で闘ってたんだよ。だから、負けちゃダメ!」


「あれ、みて……」


そういって、小柄な天使は曇り空の一方向を指さした。


そこには、曇り空を突き破り天使のはしご(レンブラント現象)が現れた。


天使が語りだす、リヒターは声も出せずにただ聞いていた。


「ね?、パパのオルガンがあんなところに生えてる」


「あれが、狼さんの目指すところ……」


「パパはねこんなことも言ってた……」


「みんな小川なんだって、でも大海につながってるって」


「だから、だいじょうぶ」


「ちょっと待っててね……」


小柄な天使はそう言うと、その場でバレエのようにチュニックの裾をもちあげて、お辞儀をした。するとそこには小柄な天使の姿はなく、腰まで長いみかん色の髪の毛をした、立派な天使の姿があった。


リヒターと天使の前には、見たこともない物質でできたオルガンのコンソールがあった。天使はおもむろにコンソールに向かう。


天使の手が鍵盤を押す瞬間、それはほんの一瞬、世界のすべてがスローモーションの世界に入った。天使は鍵盤を押す瞬間に「……recovery……」と小さく言ったようにリヒターには聞こえた。これから出されるポリフォニーを受け入れる準備をするように光のオルガンの風箱に大量の空気がため込まれるのが感じられる。そしてまるで季節が突然春になったよう。花が咲き乱れる平原、魚が泳ぐ小川が見えた。そよ風が吹いていた。花がゆれ、天使のチュニックの裾も「フワッ」と揺れる。


(だいじょうぶ、安心ですよ)


カールの心が途方もない安心感に満たされる。


そして、次の瞬間光のパイプオルガンから音が放たれた!音は天に向かい、前後左右にひろがる。永久の昔からそこにあった神の和音、こうあるべき音、こうでなければならない音が放たれた。


「あぁ、これはパルティータの最終楽章だ。宇宙が震えている……」


天空が、地平線に見える山々が、みなここにある。今ここにある。


青年カールには、天使のはしごの向こうにフライブルクの聖マリア大聖堂がみえた。そこではバッハ自身が小さな狼を見据えていた。


彼の胸の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。


演奏が終わり、すらりとした天使の姿とオルガンのコンソールはもうすでにそこにはなかった。代わりに小さな天使の輪郭と小さな声だけが聴こえた。


「I……am……recovery……」


青年カールは凍える手を力強く握り直し、再び、迫り来る人々に向けてビラを突き出した。


その瞳の絶望は、今や、世界を照らす真の光へと変わりつつあった。



シーン3-1:孤独な狼を支えた者たち


1951年、ミュンヘン


徐々にメンバーが集まりミュンヘンバッハ合唱団は成長期でした、若きカールは毎日狼のように吠えていた。


当時の青年カールは文字通り不摂生の塊だった。

機関車のようにタバコを吸い、チェンバロの前でもタバコを離さない。

やにだらけのチェンバロ、タバコの煙で指揮者が見えない合唱の練習、練習がおわった後の浴びるように飲むビール。

奥さんのグラディの心配をよそに家に帰るのは遅く、睡眠不足のまま次の日は朝からオルガンの前で他の楽団員が来る前にもう何時間もバッハを弾きまくる。


そんな彼の暴走を押さえる者が二人いた。


グラディ・リヒター、カールの愛妻


グラディの小さなアトリエは、ミュンヘンの古いアパートの最上階にあった。

戦後の物資不足の中で、彼女は画家として細々と依頼を受けながら生活を立てていた。カールが亡命直後に転がり込んだとき、彼女は一切迷わず彼を受け入れた。

「カール、あなたは音楽に生きてるんだから。残りのことは私がなんとかする」

彼女はそう言って、絵筆を置いては彼の食事を作り、チラシの束を抱えて街頭に立つのを手伝った。

カールは時折、申し訳なさと感謝で胸が潰れそうになった。

「お前がいなければ、俺は……」

「しっ。言葉はいらない。ただ、演奏して。私が一番聞きたいのは、あなたのバッハなんだから」


ある夜、激しい練習を終えたカールが疲れ果ててソファに沈むと、グラディは静かにスケッチブックを手に取った。

「ねえ、カール。あなたが夢で見たっていうオルガン……もう一度話してくれない?」

カールは天井を見つめたまま、ぼそりと答えた。

「……ただの夢だ。ありえないほど巨大で、光でできているような……。パイプが山脈みたいに連なってて、天を突き破ってる。風箱が息を吸うたびに、世界そのものが調律される気がした」

グラディは微笑みながら、炭筆を走らせ始めた。

彼女の指は驚くほど速く、確かだった。まるでそのオルガンを実際に目撃したかのように。


数日後、グラディは一枚の大きなキャンバスをカールの前にそっと置いた。そこに描かれていたのは、言葉を失うほどの光景だった。広大な緑の平原に、まるで神代の遺物のようにそびえ立つ、巨大なパイプオルガン。

一本一本のパイプは現代の摩天楼のように太く高く、半透明のガラスのような物質でできていて、内部に光が宿るように輝いている。

最も太い低音パイプは、地平線を突き破らんばかりの威容で、雲を貫いていた。

その前に、小さな天使のような後ろ姿が座り、鍵盤に手を置いている。カールは息を呑んだ。

「……これだ。俺が夢で見たのは、まさにこれなんだ」

グラディは少し照れくさそうに微笑んだ。

「あなたが話してくれたとき、描きながらずっと変なことを考えてたの。

 こんなに大きいパイプ、音速で考えたら音が追いつかないんじゃないかとか……

 自重で潰れないのかな、雨が降ったら水が溜まるよね、って。

 あなたが夢で見たものを描いてるはずなのに」

カールは思わず笑った。

「技術者みたいな心配の仕方だな」

「あなたが技術者みたいに真面目な顔で夢の話をしたからよ」

二人は顔を見合わせて、久しぶりに声を上げて笑った。


その時、アトリエの隅の、西日が差し込む埃のきらめきが、一瞬にして凍りついたように静止した。

戦後の物資不足で薄暗かった部屋の空気が、まるで真夏の正午の太陽を直接注ぎ込まれたかのように、白く、圧倒的な熱量で満たされていく。


「……え?」


グラディの息が止まる。

カールの飢えた狼の視線が釘付けになったその場所に、日輪の残像を背負い、神代の衣をまとった高貴な女性──アマテラスが、静然と立っていた。

その足元には、みかん色の淡い光をまとった、驚くほど小柄な天使が、寄り添っている。


アマテラスは、ミュンヘンの煤けたアパートの壁など初めから存在しないかのように、ただ遠い地平を見つめるような眼差しで、グラディの描いた巨大なオルガンのキャンバスへ、静かに歩み寄った。

彼女が動くだけで、部屋のなかに、遥か東方の古い森の、青々とした木々の匂いが立ち込める。


アマテラスは、長い袖の重なりから、白く、形の良い指先をそっと伸ばし、キャンバスに描かれた光のパイプに触れるか触れないかの距離で止めた。


「案ずるな、人の娘よ。

お前が描いたその器は、音ではなく、光を響かせるためのもの。

時空の理に縛られた人間の耳には追いつかずとも、魂には、一瞬で届く。

このオルガンはそのためのものだから」


それは、鈴の音のように清らかでありながら、大地の底を揺るがすような、逆らいがたい威厳に満ちた声だった。カールは、己の全存在がその声の前に平伏しそうになるのを、辛うじてこらえていた。


アマテラスはゆっくりとカールに向き直ると、その静謐な瞳で彼を射抜いた。


「さあ、小さな調律者よ。この者に、楽聖ヨハンが遺したまことのオルガンを伝えなさい」


「おいすー!」


その厳かな沈黙を破って、みかん色の髪をした小さな天使──マリアンが、ふわりと空中に浮かび上がった。


天使は二人の間に降り立ち、グラディの描いた絵をじっと見つめると、ぱあっと顔を輝かせた。


「わぁ……! パパがアマテラス様のところで弾いたやつだ! ママが昔、話してくれたのと同じ!」


カールは全身を硬直させた。


「……Kyrie様?……パパ?」


マリアンは無邪気に首を傾げて、悪びれもせずに言った。


「うん、パパ! ヨハン・セバスティアン・バッハだよ?

 狼さんも、パパの音をいっぱい弾いてるもんね」


カール・リヒター、24歳。

その瞬間、背筋に氷の刃が突き刺さったような感覚に襲われた。


(……なんだ、この子は。本当に……?)


彼の顔から血の気が引いていくのを、グラディは心配そうに見つめていた。

マリアンはそんなカールの反応などお構いなしに、絵の前でくるくる回りながら続けた。


「パパ、いつも『音は言葉が力尽きたところから始まる』って言ってたよ。

 狼さんも、そろそろ本気で始めなきゃだめだよ?」


カールは震える指で自分の顔を覆った。

理性が全力で否定しようとする一方で、魂の奥底では、確かに何かが「カチリ」と音を立てて繋がった気がした。


グラディは静かにカールの肩に手を置いた。


「……カール。この子、あなたの夢も知ってるのね」


カールはようやく掠れた声で答えた。


「ああ……。彼女はKyrie様だ、僕がライプツィヒで落ち込んでいるとき助けてくれた。彼女がいたから君にも会えた……これは、もう、夢でも幻でもないのかもしれないな」


挿絵(By みてみん)


シーン3-2:孤独な狼を支えた者たち(その2)


そしてもう一人、へルターテッパー


数日後、ミュンヘン・バッハ合唱団の練習事務所。


昼下がりの陽光が埃っぽい窓から差し込む中、テッパー夫人はいつものように猛々しく指揮棒を振り回していた。


「そこ! アルトの入り、もっと腹の底から出して! ため息みたいに歌うんじゃないわよ! ここは復活の喜びなんだから、ちゃんと胸張って歌いなさい!」


彼女は元々合唱団のマネージャー兼声楽指導者で、戦後の混乱期にカールと共に這い上がってきた女傑だった。口は悪いが面倒見は抜群で、団員たちからは「テッパー姉御」と恐れ慕われている。カールの破天荒さを誰よりも近くで見てきた彼女は、グラディと共に「狼の首輪」を握る数少ない人間の一人だった。


その時、テッパーのすぐ横の古いアップライトピアノの上に、ふわりと小さな影が現れた。


「おいすー! テッパーおばさん、今日も元気いっぱいだね!」


みかん色の髪をした小柄な天使、マリアンが無邪気に手を振っていた。


テッパーはピタリと指揮棒を止め、目を見開いた。


「……おばさん? おばさんって誰よ! 私はまだ三十路手前なんだから! 『テッパー姉御』で十分でしょうが!」


マリアンはきょとんとした顔で首を傾げた。


「え? でもおばさん、あったかい声してるもん。おばさんって呼んだ方が嬉しいかなって……」


テッパーは一瞬むっとした顔をしたが、すぐに豪快に笑い飛ばした。


「ったく、この子は……可愛い顔して毒を吐くわね。まあいいわ、好きに呼びなさい。ただし、団員の前では絶対に『おばさん』って言うんじゃないわよ!」


「えへへ、了解! じゃあここではおばさんで!」


テッパーは腰に手を当ててため息をつきながらも、どこか嬉しそうに笑った。


「まったく……忙しいってときに現れるんだから、タイミング良すぎるわね。この子は本当に天使か悪戯っ子か、どっちだか分かんないわ」


「えへへ、両方!」


マリアンはくるりとピアノの上に座り直すと、小さな手を鍵盤に這わせ始めた。

テッパーはため息をつきながらも、すぐに笑顔になって彼女の声に合わせた。


二人のデュオが始まる。


ヘンデル『メサイア』第3部より——

「私は知る、私を贖う者は生きておられる」


マリアンの透き通るようなソプラノが天井を突き抜けるように高く響き、テッパーの豊かで少しハスキーな、力強いアルトがそれをしっかりと受け止め、支え、包み込む。

二つの声は、戦後の埃っぽい練習室の中で、まるで古い教会に差し込む一筋の光のように美しく絡み合った。


テッパーは歌いながらも、時折鋭く指摘を飛ばす。


「いいわよマリアン! もっと胸を開いて! そこ、もっと喜びを乗せて! ……そう、それよ! 天使のくせに歌い方上手いんだから、ったく!」


「うん! テッパーおばさんも、かっこいい声!」


二人が夢中になって歌っていると、ガチャリとドアが開いた。


入ってきたのは、タバコのやに臭を全身に纏わせ、目が充血した青年カール・リヒターだった。

朝からオルガンを弾き続け、睡眠不足の狼は、疲れ果てた様子で部屋に入ってきた。


「……なんだ、この音は」


カールがぼんやり呟いた瞬間、マリアンがぴょんと跳ねて彼の方を向いた。


「狼さん! おかえりなさい!」


テッパーは腕を組んで、にやりと笑いながらカールを睨んだ。


「よう、狼君。今日もやに臭いったらありゃしないわね。グラディさんが可哀想よ、まったく。……それより、さっきからこの子と『メサイア』を歌ってたんだけど、どう? 悪くないでしょう?」


カールは疲れた顔のまま椅子にどっかりと腰を下ろした。


テッパーは指揮棒の先でカールの肩を軽く突きながら、呆れ半分、愛情半分で続けた。


「ほら、座ってないで聞きなさいよ。あなたがいつも『本物の音』を探してるって言うなら、こういう声の響きも大事でしょ? ……ったく、こんな可愛い天使が味方についてるっていうのに、あなたはまだまだ未熟ね」


マリアンはカールの膝の上にぴょんと飛び乗り、明るく言った。


「ね? 素敵でしょ?

 『私は知る、私を贖う者は生きておられる』……

 パパも、こういう曲が大好きだったよ!」


カールは一瞬固まった。


「……また、その『パパ』か」


マリアンは無邪気に頷いた。


「うん! パパはヨハン・セバスティアン・バッハだもん。

 狼さんは、パパの音をこの時代にちゃんと届ける人なんだよ?」


テッパーは苦笑しながらも、温かく二人を見守った。


「まあ、いいじゃない。この不思議っ子がいる限り、あなたは一人じゃないのよ。

 さあ、休憩は終わり! 次は『マタイ』よ。狼、さっさと立て! 私たちがここまで来たんだから、最後までちゃんと走り切りなさい!」


カールはゆっくり立ち上がり、煙草の匂いを纏ったまま、再び指揮台へと向かった。


その背中は、まだ若く未熟だった。

しかし、確かに、少しずつ「光の通奏低音」を宿し始めていた。



シーン4:「ごめんなさい」、「ありがとう」


1956年2月28日、ミュンヘン。


朝の練習事務所に、ライプツィヒからの電報が届いた。


「ギュンター・ラミン死去 2月27日 脳出血」


カール・リヒターは電報を握りしめたまま、しばらく動けなかった。


57歳。絶頂期にあった師の突然の死は、あまりにも唐突だった。


「……先生」


彼は椅子に崩れ落ち、煙草に火を点けるのも忘れて天井を見つめた。


東ドイツに残してきた最後の絆が、音もなく切れた瞬間だった。


その夜、カールは珍しく早めに家に帰った。


グラディが心配そうに声をかけるのも上の空で、彼はアトリエの隅に座り込んだ。


そこへ、いつものように小さな光が現れた。


「おいすー……狼さん、どうしたの? 顔色悪いよ?」


マリアンが心配そうにカールの膝に降り立った。


カールは掠れた声で答えた。


「……先生が、亡くなった。

 俺が一番最初に師事した、本当の意味での先生だ。

 ライプツィヒで、俺を叩き直してくれた人だ。

 なのに俺は……西に逃げて、先生にちゃんと『ありがとう』も言わないまま……」

声が震えた。


マリアンは小さな手をカールの大きな手に重ねた。


「パパも、たくさん人を失ったよ。

 家族も、先生も……。でも、パパはいつも『ごめんなさい』って言って、それからまた演奏を続けたんだって。

 ママがそう言ってた」


カールは目を閉じた。


目に浮かぶのは、厳しくも温かかったラミンの顔だった。


「……先生、ごめんなさい。

 もっとちゃんと、先生の背中を見ておくべきでした。

 もっと、先生のバッハを盗んでおくべきでした……」

彼の声は嗚咽に変わりかけた。


マリアンは優しく、けれどはっきりと言った。


「でも、狼さんは今、頑張ってるよ。

 グラディさん、テッパーおばさん、みんながいるよ。

 だから……『ありがとう』も、ちゃんと言わなきゃ」

カールはゆっくりと目を開けた。


グラディが静かに彼の肩に手を置いていた。


テッパーからの電話も、合唱団員たちの心配も、すべてが今、胸に染みてくる。


「……ありがとう。

 先生、ありがとうございました。

 そして……今、支えてくれているみんな、ありがとう」


その言葉を口にした瞬間、カール・リヒターの胸の奥で、何かが静かに、深く、根を張った。

師の死は、終わりではなかった。


それは、彼が本当の意味で「楽聖ヨハンの通奏低音」を継ぐための、痛切な通過儀礼だった。


1956年の冬の終わり、


若き狼は、煙草の煙の向こうで、静かに、しかし確かに、新しい決意を固めた。


(第3章 了)

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