第2章 誰かが何かを覚えてる
プロローグ
純白の光がゆっくりとした反転のなか、バッハの意識は、歴史の、時間のあるべき場所へと戻っていった。
時は少し遡り、1721年12月3日、ケーテン。
丸太のような腕を持つ実直な職人、ヨハン・セバスティアン・バッハは、二人目の妻となったアンナ・マグダレーナをがっしりとお姫様抱っこし、新居の敷居をまたいだ。
若きアンナは、夫の噛み合わせの揃った厳つい顎を見上げ、これから始まる温かい家庭に深い安らぎを感じていた。
そこには先妻マーリア・バルバラとの間に生まれた、カタリーナ・ドロテーア(長女)13歳、ヴィルヘルム・フリーデマン(長男)11歳、カール・フィリップ(次男)7歳、ヨハン・ゴットフリート(三男)6歳も一緒にいた。
長女のカタリーナは少しドキドキしながら、長男のフリーデマンは少し寂しそうな物知り顔で、次男と三男のカール・フィリップとヨハンは何もわからない様子で、新しいおかあさんを待っていた。
バッハが静かに彼女を床へ降ろした、その時である。
ふと部屋の隅、窓から差し込む冬の柔らかな光のなかに目をやると――いつの間にか、そこにオレンジ色の髪をした、ちんまりとした小さな女の子がぽつんと座っていた。
背中には、まるで作り物のような小さな白い羽。
服装は、この時代のドイツの子供服とは違う、どこか古代ギリシャのチュニックのような不思議なワンピース。
バッハとアンナ、そして子供たちは、驚きよりも先に、そのあまりに自然な「佇まい」に言葉を失う。
「……セバスティアン。あそこに、誰かいます」
「どう見ても天使に見えるのだが……」
「天使さん?」とカタリーナ。
フリーデマンはただ目を丸くしている。次男と三男は言葉が出ないままだ。
「セバスティアン、これは神様からの祝福か、幸運の印でしょうか」
「……う~ん、どう見ても……」
プロレスラーのような厳つい顔のバッハは、下あごを突き出して激しく困惑する。自分の記憶にない「不具合」に直面した職人の顔だった。
(バッハの頭の中では、どう考えても浮気をして他に子供を作った記憶などないのに、結婚初日からいきなり家庭崩壊かと内心必死であった)
その時、オレンジ色の髪をした小さな天使が、すっと立ち上がった。
そして、あどけない、けれど信じられないほど澄み切ったソプラノの美声で、唐突に歌いだしたのだ。
「冬の光は退き、春が輝きを増す……」
その瑞々しい旋律が部屋の空気を震わせた瞬間、バッハの目が限界まで見開かれた。
「おー! それは私が身内のために書いた、あの結婚カンタータ(BWV 202)ではないか!?」
まだ楽譜を手にしたばかりの、世間には一切発表していないはずの秘曲。
オーボエの伴奏も、通奏低音のチェンバロもない。ただ、小さなオレンジ色の髪をした天使の生声だけが、部屋の中に春の山野の情景を現出させていく。
前半の「神々の力による愛の成就」を歌い終えると、小さな天使は「ふぅ」と息をつき、悪びれる様子もなく「おいすー」と小さく手を挙げた。
「後半の『結婚生活への教訓』のパートは、耳が痛いので省略します。バッハの家はこれからとっても子だくさんになる予定ですから、1人くらい最初から混ざっていても誰も気づかないかなって思いました。今日からよろしくお願いします」
どこか間の抜けた、しかしどこまでも無垢な声。
「気づくに決まっているだろう! 私の記憶にない!」
と、バッハはいつもの厳格なツッコミを入れるが、その声に怒りはなかった。自分の一番新しい音楽を、誰よりも美しく歌い上げてくれた不思議な存在を、この天才楽聖が拒絶できるはずもなかった。
アンナが優しく微笑み、その子の前にしゃがみ込む。
「天使さん、あなた、お名前は?」
オレンジ色の髪をした小さな天使は、一瞬だけ困ったように視線を泳がせ、それから小さく首を横に振った。
「まだ名前ない」
「どうして?」
アンナが不思議そうに首を傾げると、オレンジ色の髪をした天使は少しだけ寂しそうに、でもすぐにお茶目な笑顔に戻って答えた。
「わかんない」
「困らない?」
「うーん」
「でもね」
「いつか誰かが呼んでくれる気がする」
「誰?」
「それもわかんない」
その日はバッハの年収の5分の1にも相当するワインが振る舞われ、多くの来客があった。バッハ一族はもとより、ケーテン公の関係者も訪れた。
4人の子供たちとオレンジ色の髪をした小さな天使は、子供部屋で遊んでいた。
あまりに自然な存在でバッハ家の4人の子供たちの輪に溶け込んでいたが、オレンジ色の髪をした小さな天使は、子供たちからの質問攻めにあっていた。
「ねぇ、何で名前が無いの?」
「わかんない」
「ねぇ、いつ生まれたの? 今は何歳?」
「わかんない」
「ねぇ、どこから来たの? 天国から来たの?」
「う~ん、わかんない」
「ねぇ、そんな格好で寒くないの?」
「さむくない」
「ねぇ、神様ってどんな姿してるの?」
「わかんない」
「歌が上手ね、どこで覚えたの?」
「楽譜ってデータ」
「ぇ? データって何?」
「背中の羽、触ってもいい?」
「うん、いいよ」
「うわぁ~本当にふわふわ! 今日は一緒に寝てもいい?」
うまく答えられない天使だったが、それでも子供たちの中に溶け込んで、バッハ家の隠し子のような存在になっていた。家族からは見えるのに、なぜか他の人々からはその存在は見えなかった。
バッハが仕事から帰ってきた一日の終わりには、家族全員で好きな楽器を持ち寄り演奏もした。オレンジ色の髪をした天使が好きな楽器は鍵盤楽器だった。小さな手をいっぱいに広げて演奏するチェンバロは、とても愛嬌があった。
ほかの兄弟たちがみんな成長していくのに、その天使だけはなぜか、こども体型のまま。
オレンジ色の髪をした天使は、バッハパパのようにパイプオルガンを弾きたいと思うけれど、ペダルに足が届かないことに悩んだ。真剣に悩んだ。
(届かない……)
あくる日も、
(むぅ……届かない……)
悩んだ末、ある日突然、オルガンの前に向かった時だけ「大きくなるスキル」を手に入れる。そしてある日突然。
「ポンッ」
届いた。
シーン1:落日の日
1750年7月。
ライプツィヒの薄暗い寝室。
バッハとアンナが結婚してから、29年の歳月が流れた。
脳卒中と、無謀な眼科手術による失明によって、ベッドに伏せっているバッハ。
かつてプロレスラーのようだった丸太のような体は痩せ細り、上と下の前歯が揃った特徴的な下あごが、浅い呼吸に合わせて微かに動いている。
枕元には、涙をこらえるアンナ。そして、29年前と全く変わらない「ちんまりとした姿」のまま、ベッドの端に寄り添うオレンジ色の髪をした小さな天使。
バッハは失明した目で、じっと天使のいるはずの空間を見つめた。
「……おい、ちびすけ」
弱々しい、けれど地鳴りのようなバリトンボイス。
「お前は、29年前から1ミリも背が伸びんし、結局最後まで名前も『わかんない』のままだったな……。だが、オルガンの前だけでは立派な淑女だった。お前の演奏には正直頭が上がらんよ。お前の休止符には、いつもそよ風のような絶対の存在があった。なぜ本来何もないところから新しい何かが出てくるのだ? あれは私には真似できん。お前が我が家の子供たちの良い遊び相手になってくれたこと……私の楽譜をよく隅々まで覚えていてくれたこと……だからここまで作曲ができた。ありがとう……」
天使は唇をぎゅっと噛みしめ、涙がこぼれそうになるのを必死にこらえる。
バッハは震える右手を伸ばし、天使のオレンジ色の髪にそっと触れた。そこには確かに「29年間の家族のぬくもり」があった。
「私の楽譜は散逸し、世間はすぐに私を忘れるだろう。……だが、お前が覚えている。私の音の、あの最後の和音の響きの秘密を……」
バッハはアンナの方を見て告げた。
「かあさんや、今日はとてもきれいだよ……」
バッハはアンナの手を握り、そしてオレンジ色の髪をした小さな天使に微笑みながら、静かに息を引き取った。
静まり返った部屋で、オレンジ色の髪をした小さな天使は涙をポロポロとこぼしながら、小さな手を挙げる。
その時。
アンナが言った。
「ねえ」
「どうしたのママ?」
「あなた、本当に名前がないの?」
オレンジ色の髪をした小さな天使は頷く。
「うん、わかんない」
するとアンナ。
「それじゃ困るわ」
「なんで?」
「家族なんだから」
「『マリアン』、今日からそう呼びましょう」
微かに本人は不思議そうだ。
「どうして? だって私、人間じゃないよ?」
アンナ。
「だからよ」
シーン2:冬のインクと、忘れられた音楽帳
ヨハン・セバスティアン・バッハがこの世を去った後、地上の時計は残酷な速度で進み、そしてすべてを忘却の彼方へと追いやった。
かつて高天原の神々を震撼させたあの厳格な数理の音楽は、新時代を生きる人々から「古臭く退屈な算法の羅列」と切り捨てられ、楽譜はただの紙クズとして散逸していった。
1760年の年明け。
雪の降り積もるライプツィヒの薄暗い借家の一室。
一人の老女が、かじかむ指先に息を吹きかけながら、静かに窓の外を見つめていた。
アンナ・マグダレーナ・バッハ。
かつて宮廷を魅了した美声のソプラノ歌手であり、楽聖が最も愛した妻の面影は、困窮と孤独のなかですっかり痩せ細っていた。
息子たちはそれぞれの音楽を求めて去り、世間は彼女を「過去の遺物」として見捨てた。飢えと寒さが、年老いた肉体を容赦なく蝕んでいく。
その寒すぎる部屋の片隅で、オレンジ色の髪をした小さな天使はベッドサイドにちょこんと座っていた。
アンナの枕元には、どんなに生活に困窮しても、決して売ることも薪にすることもなかった、一冊の小さな手帳があった。
『アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳』
若き日にヨハンが彼女のために、美しいグリーンの装丁に金の刺繍を施して贈ってくれた、あの愛の手帳だ。
アンナが愛おしそうにその表紙に触れる。
天使は彼女の膝元にそっと寄り添い、お茶目な笑顔を浮かべて手帳の文字を覗き込んだ。
「ねえママ、これ覚えてる? パパったら、この曲の低音の進行を間違えて、後からこっそりインクで塗りつぶしたんだよ。私、特等席で見てたんだから!」
「そうね、そんなこともあったのよね」
ページをめくれば、ヨハンの力強い筆跡と、彼女自身がまだ若く幸せだった頃に書き写した、眩いきらびやかな音符たちが並んでいる。
「セバスチャン……」
かすれる声で、アンナは呟く。
彼女の耳の奥には、夫がかつて家でこぼしていた、あの「ジルバーマンのオルガンの愚痴」が今も温かく響いていた。空耳ではない、確かに聴こえる。
キィィン……。
大音量になると微かに漏れ出す、小さなパイプの、あの天使の泣き声のようなうなり。
「あの子たちの声がする、あの愛おしい不自由な楽器の音を……私は、一時も忘れたことはありませんよ」
アンナは優しく微笑み、細く痩せた手を伸ばした。
天使はその透き通る手を、両手でぎゅっと包み込む。
不思議とそこには、あの高天原でパパが感じた「幼くして先だった11人の子供たちの体温」が確かに存在していた。
「ねぇ……マリアン、やっぱりあなたは不思議ね、先だった子供たちが見える……あなたがあちらの世界をつないでくれたのね……」
1760年2月27日、アンナ・マグダレーナは、その小さな手帳を抱きしめるようにして、誰に看取られることもなく静かに息を引き取った。
彼女の亡骸は名もなき貧民の墓所へと葬られ、バッハ家の記憶はこれで完全に地上の歴史から消滅したかのように見えた。
マリアンは、静まり返った部屋で手帳の金の刺繍を見つめ、涙をこらえながら、
「おいすー……」
と、天国の家族へ向けて小さく呟いた。
少し抜けている天使の、それが彼女なりの最敬礼だった。
――だが、高天原の主、アマテラスはその光の系譜(DNA)を、決して見逃してはいなかった。
アンナの手帳に遺されたインクの染み。
そこに宿る「通奏低音」は、彼女の死から数十年後、ベルリンの退屈な街角で、肉屋の紙クズを広げた一人の若き天才少年――フェリックス・メンデルスゾーンの指先へと、運命の楔として引き継がれることになる。
シーン3:肉屋の紙クズと、蘇るマタイ
アンナ・マグダレーナの死後、バッハという名は完全に歴史の塵に埋もれたかに見えた。
楽譜は、あるものは失われ、あるものは日用品を包むためのただの紙切れとして切り売りされていた。
世界は二度目の天岩戸に閉ざされたかのように、光を失っていた。
――1820年代、ベルリン。
弱冠十代のフェリックス・メンデルスゾーンは、肉屋の店先で買い物を終え、包まれた肉を受け取った。
ふと、その肉を包んでいる、脂の染みた薄汚れた茶色い紙に目が留まる。
そこには、几帳面な、しかし異様な執念を感じさせる手書きの五線譜が並んでいた。
(……何だ、この楽譜は? 二つの合唱隊と、二つのオーケストラ……? 異常なほど精緻な多声構造だ)
早熟の天才少年であるメンデルスゾーンの脳内で、その掠れたインクの音符たちが、にわかに音を立てて鳴り響き始めた。
ホ短調の重々しい12分の8拍子。波打つような低音の歩みの上で、まだ見ぬ魂の叫びが交錯する。
その瞬間だった。
ガサリ、と紙を広げた彼の指先を、目に見えない強烈な火花が駆け抜ける。
キィィン……。
脳裏の奥の奥で、凍てつくような、しかしどこまでも純粋な金属の響きが鳴った。
それはかつて高天原の空を切り裂き、岩戸の奥のアマテラスの心を融かした、あのジルバーマンオルガンの「シルバートーン」の残響だった。
大音量の裏側で微かに漏れる、あの切ない「天使の泣き声」のうなりが、百年の時を超えて、インクの染みから少年の鼓膜へと直接語りかけてきたのだ。
オレンジ色の髪をした小さな天使は、アンナの死後100年間、ずっと暗い楽譜のインクの隙間で縮こまっていた。パパもアンナもいない寂しい世界で、ただひたすらに、この音を分かってくれる次の人間を待ち続けていた。
少年の指先が楽譜に触れた瞬間、天使は弾かれたようにインクの闇から飛び起き、少年の鼻先で嬉そうに宙返りをした。
「見つけた……! おいすー、新しいパパの友達!」
もちろん、その声はまだ少年の耳には届かない。ただの「奇妙なうなり」として脳を揺らすだけだ。
それでも、オレンジ色の髪をした小さな天使は少し抜けた笑顔で、少年の肩の上にちょこんと腰掛け、その横顔を覗き込んだ。そして彼の脳内に直接音を鳴らした。それはたった4つの音、B、A、C、H(変ロ-イ-ハ-ロ)だった。その瞬間、メンデルスゾーンは息を呑んだ。
「これは、ただの紙クズじゃない……!」
肉屋の店主が怪訝な顔をするのも構わず、彼はその包み紙が――大カントル、ヨハン・セバスティアン・バッハが遺したものだと、脳内に響いた4つの音から確信した。そして人類の至宝『マタイ受難曲』の直筆楽譜を、胸に狂おしく抱きしめた。
高天原の神殿で、知恵の神オモイカネが、時空の彼方をじっと見つめながら不敵に笑った。
「計算通りだ。あの男のDNAは、百年後の天才の指先に正しく『楔』を撃ち込んだぞ」
1829年3月11日。
ベルリン・シングアカデミーの礼拝堂は、異様な熱気に包まれていた。
20歳になったメンデルスゾーンが指揮台に立ち、タクトを静かに振り上げる。
百年の沈黙を破り、『マタイ受難曲』の最初の一音が響き渡った。
それは、キリストが人間の罪を背負って死に、正式な岩の墓所から復活していく、あの『BWV 768』でアマテラスに見せた光の系譜そのものだった。
重厚な合唱が重なり、オーケストラが地鳴りのような通奏低音を響かせる。
指揮台のメンデルスゾーンのすぐ横で、オレンジ色の髪をした小さな天使は黙って座っていた。それでも合唱の低音の波に包まれると、かつてバッハの大家族のなかで愛されていた頃のように、温かい涙を流していた。
その瞬間、高天原のアマテラスは、地上の暗闇から再び眩い日輪の光が昇ってきたのを見た。
「還ってきたか、楽聖ヨハン。そなたの音は、やはり暗闇には閉じ込めておけぬな」
メンデルスゾーンの振るうタクトによって、第二の天岩戸はこじ開けられた。
バッハの音楽は「古臭い算法」などではなく、人間の魂を永遠に歌い続ける「光の通奏低音」として、地上の歴史に完全なる大復活を遂げたのだ。
そして、この蘇った光のバトンは、大戦の暗雲が立ち込める二十世紀の空を越え、赤道直下の密林で一人闘うアルベルト・シュヴァイツァー博士の元へと、確実に手渡されていく。
シーン4:密林の通奏低音と、トタンのピアノ
1940年代。
再び地上の世界は、二度の世界大戦という、人類史上最も深くおぞましい「常闇」のなかに叩き落とされていた。
高天原の天宮から地上を見つめる最高神アマテラスの瞳は、激しい苦痛に揺れていた。
西の果てでは、剥ぎ取られたユダヤの人々の髪が山をなし、夜を徹して狂気の火葬場が黒い煙を吹き上げている。完璧な算法であったはずのバッハの音楽さえもナチスの軍靴の足音へ変えられ、人間の尊厳を蹂躙していた。
そして、彼女の愛する日出づる国、日本。1945年8月、広島と長崎の空に、人類の傲慢が放った「偽りの太陽」が炸裂した。
神の領域の火を盗んだ原子爆弾の白い閃光が、一瞬にして何十万もの民の命を消し去り、天を衝く不吉なキノコ雲となって太陽の光を完全に遮っていく。
地上の岩戸は、今度こそ完全に、二度と開かぬほど呪わしい闇によって閉ざされようとしていた。
その戦火と狂気の硝煙から遥か遠く離れたところに、一人の男がいた。
赤道直下アフリカ・ガボンの密林――ランバレンネ。
夜の帳が下りた粗末な病院の一室で、一人の初老の男が、じっと鍵盤に向き合っていた。
アルベルト・シュヴァイツァー。
医師であり、神学者であり、かつてフェリックス・メンデルスゾーンが救い出した楽譜の系譜を受け継ぎ、バッハの精神を紐解く大著を書き上げた高潔な音楽家。
彼は7歳からピアノを、14歳からパイプオルガンを血に馴染ませてきた。
21歳の時、「30歳までは学問と芸術に専念し、30歳からは世のために尽くす」という、キリストが布教を始めた故事に倣った壮絶な決意を固める。
27歳でストラスブール大学神学科講師という栄誉を得るも、30歳で誓い通りすべてを捨てて医学部へ進学。
38歳で勝ち取った医学博士の学位論文 の 題名は、あまりにも尖り、人間の狂気と理性を凝視した『イエス・キリストの精神錯乱』であった。
「白人が黒い肌の兄弟たちに犯した植民地略奪の罪を、己の肉体をもって贖う」
その執念でガボンへ渡った彼だったが、第一次世界大戦の勃発により、ドイツ国籍であったためにフランス領のこの地で捕虜となり、ヨーロッパへ強制帰還させられるという絶望の淵を這う。それでも大戦後、再びこの密林の病院へと舞い戻ってきたのだ。
過酷な湿気と熱気がすべてを腐らせ、シロアリが容赦なく木を食い荒らす夜、シュヴァイツァーは部屋の片隅に据えられた奇妙な楽器の前に座る。
熱帯の凶々しい気候から木材と弦を守るため、全体を無骨な亜鉛の板――トタンで覆い尽くされた、パリ・バッハ協会から贈られた特製のペダル(足鍵盤)付きピアノだった。
「……おお神よ、汝義なる神よ」
シュヴァイツァーが低く賛美歌の歌詞を呟き、大きく無骨な足で、トタンの底に備え付けられた木製の足鍵盤を深く踏み込んだ。
ベタ、ベタ、と湿った重低音が、夜の密林の闇へと染み出していく。
弾く曲は、あの『BWV 768』。かつてバッハが天岩戸の前で、アマテラスに「神の受難と沈黙の愛」を説いた、あのコラールパルティータだった。
ピアノの音は、ヨーロッパの石造りの大聖堂にある本物のパイプオルガンのように壮大には響かない。トタンの金属性のケースに遮られ、どこか籠もった、不自由で、あまりにも泥臭い音だった。
鍵盤を強く叩けば、トタンの板がビリビリと不格好に震え、楽器の限界を告げる悲鳴のような雑音が混ざる。
ヨーロッパの戦場で、ナチスの軍歌に変えられたパパの音楽に深く傷つき、あてもなく世界の暗闇を彷徨っていたあのオレンジ色の髪をした小さな天使は、この密林の不格好なトタンの震えに引き寄せられるようにして、開け放たれた窓から滑り込んできた。
天使は、汗と泥にまみれたシュヴァイツァーの白髪の頭の上で、優しく羽を休める。
「不器用な音……。でも、ここにあるパパの音は、ちっとも怒ってないや」
オレンジ色の髪をした小さな天使はトタンのケースにそっと耳を当てた。
ふと、ピアノの脇に置かれた小さな丸い缶が目に入る。
遠い東洋の国、日本のファンから博士の元へはるばる届けられた、パリパリとした食感の、甘くて香ばしいお菓子――風月堂のゴーフルだった。
オレンジ色の髪をした小さな天使は思わず、一枚つまみ食いしようと手を伸ばすが、ここではなぜか実体がないため指がすり抜けてしまう。
「もう! パパの音がこんなに変なトタンの音になってるし、お菓子は食べられないし……!」
オレンジ色の髪をした小さな天使は小さく唇を尖らせながら天を仰いだ。
パパの愛した、あの突き抜けるような光の音――シルバートーンが、この赤道の熱気と無骨な金属板のせいで、完全に窒息しかけている。
(このままじゃ、パパの音が世界の闇に負けちゃう……!)
(パパ、どうしたらいい?)
その時、オレンジ色の髪をした小さな天使には、偉大なるカントルの声が聞こえた。
「ちびすけ! お前は楽譜の何もないところから、いつも私にわからない音を出していたではないか? 今それができないでどうする?」
「ひぇ~パパ、あの時はパパが演奏していた横にいたからできたんだよ。今は無理無理無理!」
その時、別のとても懐かしく優しい声が聞こえた。
「セバスティアン、この子をそんなにいじめちゃだめよ」
「あ、ママ!」
「マリアン、偉いわ。私たちが去ったあと、あなたは本当に辛抱強く頑張ったわ。今は誰かの助けが必要なのね。マリアン、あなたには東洋の神様がいらっしゃる。覚えてる? 彼女ならこんな時力を貸してくれるわ」
「あ……ぇ? ママ、なんで知ってるの? ……うん、でも、わかった、やってみる!」
オレンジ色の髪をした小さな天使は天を仰ぎ、「東洋の最高神」の名を、現世で初めて口にした。
「おねがい、アマテラス……!!」
その小さな、祈りにも似た叫びが、アウシュヴィッツの煙を越え、広島のキノコ雲の遮る常闇を貫いて、高天原の天宮へと真っ直ぐに突き抜けた。
地上を覆うあまりの惨劇に心を痛めていたアマテラスは、その声を聴いた瞬間、まばゆい日輪の瞳を見開いた。
「覚えているぞ、そなたは楽聖ヨハンが紡ぎだした音の龍の背に乗っていた小さな天使。応えよう、小さき調律師よ。人間の傲慢が太陽を模した偽りの火(原爆)を造るなら、私はその不自由な箱に、本物の命の光を還そう」
次の刹那、ランバレンネの粗末な一室で、決定的な超常現象が起きた。
シュヴァイツァーが木製のペダルを強く踏み込んだその瞬間、アマテラスの放った目に見えない神気がトタンのケースを貫いた。
ビリビリと震えていた無骨な亜鉛板が、一瞬にして、あの18世紀の東ザクセンの冷たい、純度の高い『錫のパイプ』の輝きへと変貌した。そして空間の音響構造が歪んだ。
キィィン――!!!
「どうしたのだ? これは何だ?」
部屋を満たしたのは、トタンの音漏れなどではなかった。
凍てつくような、しかしどこまでも純粋な金属の響き。
かつて高天原の空を切り裂き、天岩戸の巨石を開けさせた、あのジルバーマンオルガンの「シルバートーン」そのものが、熱帯の密林に現出した。
密林の虫の声が、一瞬だけ止んだ。
熱帯の湿った夜気が、凍てつく東ザクセンの冬のように張り詰める。
そして、ジャングルの奥で、名も知らぬ獣たちが、一斉に天を見上げた。
「……あぁ!?」
シュヴァイツァーは驚愕に目を見開いた。
指先は確かにトタンに覆われたピアノの鍵盤を叩いている。
かつてシュヴァイツァーは1905年から翌1906年頃、バッハの音楽に最も適したオルガンの響きを求めて、ドイツやフランス各地の歴史的な楽器を実際に弾いて回る調査を行っていた。その一環として、ザクセン地方に残るジルバーマンの代表作であるフライベルク大聖堂のオルガンを自ら演奏し、その響きを体験している。これはまぎれもなく、あの時の音であった。
世界のすべてが超スローモーションになった。そして、その大音響の裏側から、楽譜にはない、あの第10変奏の最後の大休止と、その後に吹くそよ風のような音にならない音が、神話の記憶を伴って博士の魂へと直接流れ込んできた。
その刹那、シュヴァイツァーはすべてを理解した。
「……あぁ、主よ。あなたはここに、私たちと共に、この世界の絶望の底にいてくださるのですね……」
シュヴァイツァーは演奏を止めず、白髪の頭を深く垂れて、ボロボロと涙をこぼした。
イエスの錯乱をも見つめ、戦争の不条理によって捕虜となり、それでもすべてを捨てて贖罪のために闘う男。
彼が奏でる不自由な響きのなかに、確かに人間の熱い体温が、亡き子供たちの、そして今この瞬間も大戦や原子の火で散っていく無数の名もなき魂の産声が宿っていることを、確信した。
この夜、密林のトタンの奥底でアマテラスの真の光に触れた経験こそが、やがて来る 1957年、老いた彼が世界に向けて「核兵器への絶対的反対」を毅然と公言し、偽りの太陽の火を消すための新たなる戦いへと立ち上がる、不滅の通奏低音となったのである。
アマテラスは、暗闇のなかに一筋の、決して消えない黄金の伏流水(通奏低音)が流れているのを見つめ、静かに微笑んだ。
「見事だ、医師アルベルト。世界がどれほど闇に包まれようとも、そなたがその音を繋ぐ限り、光の系譜は途切れぬ。……さあ、次の世代へ、楽聖ヨハンの楔を渡すのだ」
「楽聖ヨハンの音楽は、ただ地上の人間に聴かせるためのものではない。これは星々の運行、光の波、宇宙の数理そのものを写し取った『天上の描写』なのだ。いつか人類がこの星を出る時、この音こそが宇宙の共通言語になるだろう」
シュヴァイツァーの頭のなかにアマテラスの言葉が直接響いた。
それは大戦の砲声や地鳴りを撥ね退け、何もない焼け跡から力尽くで光を引っ張り出すもう一人の巨人へ、もう一つの奇跡と共に伝わることになる。
(第2章 了)




