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『ちくしょう、神に届け!』と叫んだ楽聖たちのために、みかん色の少女が32フィート管をぶち鳴らす話。  作者: 天音近


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第1章 高天原の共鳴

シーン1:東ザクセンの冷たい火花


1730年代、東ザクセンの冬の空気は、石造りの礼拝堂のなかで白く凍りついていた。


ヨハン・セバスティアン・バッハは、まだ蝋燭の灯りもまばらな薄暗いオルガン席で、鍵盤を睨みつけていた。


背後には、煤けた上着の袖をまくり上げ、自身の最高傑作である最新鋭のパイプオルガンを誇らしげに見上げる男――ゴットフリート・ジルバーマンが立っている。


「どうだ、ヨハン。この地を揺るがす32フィート管の鳴りは。お前の要求通り、低音の風箱は極限まで補強しておいたぞ」


ジルバーマンの不敵な笑みに対して、バッハは鼻を鳴らし、巨大な手を鍵盤の上に構えた。


これから行うのは、この新型オルガンの「鑑定」である。


しかし、バッハにとってこれは単なる仕事ではなく、この頑固な職人との命がけの対話だった。


バッハの足が、ペダル(足鍵盤)を深く踏み込む。


ハ短調の、あの重々しいパッサカリアの冒頭主題が礼拝堂の床を震わせた。


だが、その最初の一音が放たれた瞬間、バッハの太い眉が不快そうに跳ね上がった。


(……くっ、相変わらず手厳しいな、ゴットフリート)


絶対音感を持つバッハの脳内で、肉体の感覚と現実の音響が激しく衝突する。


ジルバーマンのオルガンは、現代の標準よりも遥かに高い『高音ピッチ(コーアトーン)』、すなわちA=470ヘルツを優に超える調律が施されていた。


バッハの指は確かに「ハ短調」の鍵盤を押さえている。


しかし、純度の高い錫(すず)で作られたパイプから吹き出す風は、当時の標準からすれば丸一音も高い「ニ短調」の響きとなって鼓膜を襲うのだ。


指の記憶が拒絶される。


演奏家を翻弄する、狂おしいほどの弾きづらさ。


しかし、その不自由さと引き換えに放たれた高音は、身震いするほどの美しさを持っていた。


キィィン、と凍てつくような、しかしどこまでも純粋な金属の響き。


それは「シルバートーン」と称される、ジルバーマンの執念が宿る眩い高音だった。


薄暗い礼拝堂の天井を文字通り切り裂く、光の刃。


「聞こえるか、ヨハン! これこそが俺の譲れない『天上の輝き』だ!」


背後からの職人の叫びに、バッハの唇の両端がニヤリと上がった。


「面白い。お前の造ったこの『光の化身』が勝つか、私の指が屈するか……徹底的に鑑定してやろう!」


バッハの指先が加速する。執拗に繰り返されるハ短調の低音の上で、ジルバーマンの頑固な高音が、火花を散らしながら響き渡り始めた。




シーン2:ウルフの遠吠えと、風箱の懸念


オルガン席のすぐ後ろで、ゴットフリート・ジルバーマンは上着の裾を握りしめ、冷や汗をかいていた。


バッハの指先が、ハ短調のパッサカリアの変奏を一つ、また一つと積み重ねていく。音が分厚くなるにつれ、礼拝堂の空間全体が、物理的な圧力となって震え始めていた。


ジルバーマンがこの新型オルガンに施したのは、彼が頑なに譲らない「六分の一ピタゴラス・コンマ・ミーントーン(中全音律)」の改良版だった。


主要な和音をこの上なく美しく響かせるための、職人のこだわり。


しかし、バッハが提唱する「平均律」のようにすべての調を自由に行き来する複雑な転調を行えば、たちまち調律の歪みが限界を迎え、狂おしいうなり――「ウルフの遠吠え」が礼拝堂に響き渡ることになる。


(頼む、ヨハン。ウルフを呼び出すような無茶な転調は、手加減してくれ……!)


ジルバーマンの祈りは、大聖堂の主(カントル)の容赦ない指先によって打ち砕かれる。


バッハは「ニ短調」の響きとして鼓膜に迫るその歪みを、超人的な指のコントロールだけでねじ伏せ、ミーントーンの限界を試すかのように、あえて和声を深く、複雑に変貌させていく。


不協和音のナイフが、ジルバーマンの胸を突き刺す。


だが、ジルバーマンの脳裏をよぎる懸念は、調律の歪みだけではなかった。


(……風箱だ。低音をあれほど補強したせいで……)


バッハのリクエストに応え、地を揺るがすような重低音を響かせるため、低音用の風箱(かぜばこ)は極限まで大容量化されていた。


しかしその代償として、大音量時に増強された低音の暴力的なまでの振動が、風箱の上に並ぶ小さな高音用パイプの弁を微かに揺らしてしまうのだ。


鍵盤を押さえていないはずの、小さな高音用の音栓から、わずかに空気が漏れる。


演奏者が意図しない、楽譜には存在しない微弱な「音漏れ(うなり)」が、大音量の裏側で発生する構造的な欠陥。普通の演奏ではきれいな倍音として認識されるこの音漏れだが、全てのストップを全開にする演奏の前では歪みに近い音となる。


バッハの足鍵盤が、32フィート管を限界まで鳴らし切る。


ドォォォン、と地の底から響くような重低音が礼拝堂の床を文字通り跳ね上げたその刹那、ジルバーマンの恐れていた事態が起きた。


大音響の隙間から、キィィン……と、細く、かすかな、狂おしいほどの高音のうなりが漏れ出したのだ。


それは「ウルフの遠吠え」ではない。まるで、冷たい礼拝堂の中で、誰にも気づかれずに泣いている、幼い子供の泣き声のような――不完全な人間が造った楽器の、悲痛な鳴き声だった。


それはまるで天使のすすり泣きだった。


「これだ……!」


バッハが弾きながら、吠えるように呟いた。




シーン3:天使のすすり泣きと、天岩戸


キィィン……。


凍てつくような、しかしどこまでも純粋な金属の響き。


限りなく歪みに近いかすかな漏れの音による倍音。


それは、すべての存在が一瞬、呼吸を忘れるほどの響きだった。


だが、その天使のすすり泣きは、ただの雑音ではなかった。


(誰かが呼んでいる)


そうバッハは感じた。


ジルバーマンの執念が宿る楽器と、バッハの厳格な指先が放つ音は、空間の理そのものを歪めはじめた。


20回目の変奏が終わり、曲が最高潮の『二重フーガ』へと突入する。


二重フーガは、すでに人間の手を離れ始めていた。


幾重にも絡み合う声部が、礼拝堂という石の器を超え、どこまでも遠くへ拡がっていく。


普通ならオルガンの前に展開する音の群れが、オルガンのはるか後方に広がり始めた。


バッハには見えていた。


――浅瀬を流れる小川。


――風に揺れる草花。


――その遥か彼方にそびえる、地上には存在し得ぬ透明なパイプの巨大なオルガン。


――山脈のように連なるパイプ群。


――雲を突き抜ける音塔。


世界そのものが、一つの楽器になったかのような光景。


そして――最後のクレッシェンド。


全てのパイプへ風を送り込むため、風箱が深く息を吸い込む。


その刹那。


音が途切れた。



否。


世界が、次の響きのために、呼吸を止めたのだ。


完全な静寂。


バッハの指だけが、なお鍵盤の上にあった。


そして――次の一音が放たれた瞬間、すべての空間が喜びに震えた。


その瞬間、礼拝堂を埋め尽くしていたはずの轟音が、ふいに消えた。



否。


音そのものが消えたのではない。


バッハも、ジルバーマンも、確かに鍵盤と風の振動を感じている。


しかし――耳だけが、世界から切り離されたように、何も聞こえなくなったのだ。


「……なに?」


ジルバーマンの喉が、初めて恐怖に掠れる。


礼拝堂の燭台の火が、風もないのに、ゆっくりと横倒しになる。


空気が軋む。



否。


軋んでいるのは空間そのものだった。


沈黙の中心で、あの「天使のすすり泣き」だけが、なお消えずに響いていた。


視界は激しく反転した。


見慣れた東ザクセンの冷たい礼拝堂は、一瞬にして掻き消える。


バッハが次に目を開けたとき、彼とジルバーマン、そして巨大なパイプオルガンは、見たこともない巨石がそびえ立つ、神代の荒野の真ん中に据え置かれていた。


「……な、なんだこれは! ここはどこだ、ヨハン!?」


ジルバーマンが悲鳴を上げ、オルガンの背後でへたり込む。


消えゆく音の彼方を見つめながら、バッハの指が鍵盤から離れた。


そのオルガンの周囲には、現世の人類とは明らかに異なる、圧倒的な神気(オーラ)をまとった異形の神々が立ち並び、その音色を見上げるようにして佇んでいた。


神々の視線の先にあるのは、天を衝くほどの巨大な岩の扉――「天岩戸」である。


世界は、すべての光を失った常闇に包まれていた。


驚愕に震える八百万の神々の列から、静かに一歩、前へと進み出る影があった。


「来たか、異国の楽聖よ」


バッハは周囲を見回した。


見たこともない星空。


見たこともない神々。


見たこともない巨大な岩戸。


「ここはどこです」


「高天原だ」


「……なるほど」


全然なるほどではない顔だった。


知恵の神・オモイカネは少し笑う。


「安心しろ、私も半分ほどしか理解しておらぬ」


「半分?」


「そなたが来た理由は分かる」


オモイカネは岩戸を見上げた。


「だが、なぜそなただったのかまでは分からぬ」


「……なるほど」


「分かっておらぬな」


「はい」


「私もだ」


「……なるほど」


「だからその顔は何だ」


オモイカネが、暗闇のなかで笑った。


しかしその怜悧な瞳は、バッハの指先がこれから編み出すであろう幾何学的な音の構造を、すでにすべて見抜いていた。


「その音こそ、天照(アマテラス)の心を揺らす、未来の秩序だ」


オモイカネは、地を走る低音を見つめながら、己の頭脳に刻まれた「算術の軌跡」を反芻していた。


主(アマテラス)が岩戸に隠れ、世界が常闇に沈んだあの日から、オモイカネは狂うことなく計算を続けていた。


アメノウズメの踊りや神々の喧騒――完璧にして原始的な神の調和では、主の頑なな孤独を溶かすには足りない。


算術が導き出した答えは、過酷なものだった。


主の心を動かすには、天上の音ではなく、遥か未来の地上の人間が、絶望の淵で編み出す『極限の秩序』が必要である、と。


オモイカネの知性は、時間も空間も超越して未来の地球を索敵し、そして見つけたのだ。



1730年代、東ザクセンの寒村。


偏執的な職人が、天上の音の輝きを求め、演奏家を拒絶するような半音高い調律でオルガンを造り上げている。


そしてそのオルガンの前に、幾人もの我が子を失い、血を吐くような悲しみを胸に秘めながら、ただ正気を保つために『完璧な数理(フーガ)』を鍵盤に叩きつける一人の楽聖が座っている。


職人の譲らない頑固さと、演奏家の妥協なき執念。


そして、大音量時に風箱から漏れ出す、あの『天使のすすり泣き』という名の構造的欠陥(バグ)。


「神の領域に達せんとする人間の歪み。それこそが、時空の壁を破るエネルギーとなった」


彼が仕掛けた召喚の陣は、バッハの指先がミーントーンの限界を叩いた瞬間のエネルギーをそっくりそのまま高天原へと引きずり込んだのだ。


オモイカネは不敵に笑い、天を衝く巨大な岩の扉の、そのわずかな隙間を指差した。


「さあ、楽聖ヨハン。我が算術の計算通り、その音の幾何学を、あの頑なな闇の扉へと叩きつけるが良い。天岩戸に、未来の『楔(くさび)』を撃ち込め!」


オモイカネのその言葉が、バッハの職人魂に火をつけた。



――楔(Wedge)。


その単語が脳裏をよぎった瞬間、バッハの指先は、弾いていたハ短調のパッサカリアの鍵盤を鋭く離れ、間髪入れずに別のストップ(音栓)を引き抜いていた。


オモイカネの咆哮に応じるように、バッハの両手が、そして両足が、ジルバーマンの最新鋭オルガンへと叩きつけられた。


ジルバーマンオルガンの風箱が、これまで以上の空気を吸い込んで咆哮する。


ハ短調(Cマイナー)の重々しい闇の響きから、一瞬にして、空間を裂くようなホ短調(Eマイナー)の強烈な和音へと世界が転調した。


楽譜上のホ短調(Eマイナー)の強烈な和音から、現実には丸一音高い、この世で最も鋭利な『嬰ヘ短調(F#マイナー)』の光が解き放たれた。


『前奏曲とフーガ ホ短調 BWV 548』――通称、楔(Wedge)。


バッハが解き放ったのは、自らの作品の中でも最も強固な推進力をもち、最も厳格な数理によって構築された、音の要塞だった。


楔を撃ち込めるか否か、勝負は最初の一音で決まる。


その最初の一音が放たれた瞬間、高天原に集った八百万の神々は、一斉にのけぞった。


ドォォーーーン! と脳天を叩き割り、後頭部を巨大なハンマーで殴りつけるような、圧倒的な主題。


それは、並の演奏家が一生をかけても到達できない、命のすべてを乗せた暴力的なまでのエネルギーだった。


現世の遥か未来において、カール・リヒターという一人の男だけが再現することになる、『バッハの真の熱気』が、今、神代の荒野に現出し、空間の理を書き換えていく。


中心の音から、あたかも神が身をよじるように、音程が外側へと、上下へと、執拗に、かつ圧倒的な推進力を持って広がり、巨大化していく。


純度の高い錫のパイプから放たれるジルバーマン特有の高音ピッチが、ホ短調の鋭さと絡み合い、文字通り「光の楔」となって天岩戸の巨石の隙間へと突き刺さる。


背後でへたり込んでいたジルバーマンは、目を見開いて叫んだ。


「ウ、ウルフだ! ヨハン、その調性(ホ短調)はミーントーンの限界だ! ウルフの遠吠えがくるぞ!」


だが、バッハは笑っていた。


「吠えさせておけ、ゴットフリート! お前の造ったこの不完全な名器の悲鳴こそが、この世界の闇を抉る楔だ!」


次にバッハの指先が鍵盤に触れた瞬間、楽器全体が苦悶の悲鳴を上げた。


だがそれこそが神代の闇を打ち破るカギだった。


不自由な調律が生み出す歪みすらも、バッハは天岩戸を破壊するための鉄槌として利用していた。


「俺の楽器はどうなっているのだ? これが本当の力なのか?」


バッハの横で腰を抜かしつつ、ジルバーマンは呟いた。


「ゴットフリート! 信じるんだ、大丈夫だ、あとはオルガンがやってくれる」


とバッハは答えた。


前奏曲が終わり、後半のフーガへと突入する。


中心の音から外側へと、執拗に音程を拡大していく『楔』の主題。


それはもはや、ただの音の連なりではなかった。


フーガ中盤にかけて、両手がこれでもかと超高速な半音階パッセージを弾き倒す。


それは、もはや「音楽」ではなく「格闘技」のような音の嵐だった。


漆黒の常闇のなか、小さな天使を背に乗せた一頭の巨大な神龍が、天に向かって飛び上がっていく姿が、高天原に集った八百万の神々の目にはっきりと見えていた。


「はて? これは面白い」


オモイカネは呟いた。


――その神龍の首の後ろには、なぜかオレンジ色の髪を猛烈に振り乱し、涙目でパニックになりながら、剥がされまいと必死にしがみついている「小さな生身のバグ(天使)」のような影がへばりついていた。


本人もなぜそこにいるのか、全く分かっていない風で、ただただ必死に巨竜の鱗をホールドしている。


その過酷な嵐の頂点、第119小節目。


たった一つの四分休符。


両手がこれだけ激しく高音パイプの空気を使い果たした直後に、ペダル音が断ち切られる。


ペダルの音が全停止する。


楽譜上はたった一つの四分休符。


しかし、今まで風箱から低音管に送られていた流体エネルギーはすぐには止まらない。


「ブンッ」


楽譜には書かれていない音。


これはバッハが仕掛けた「音楽的な罠」。


高天原の空をのたうち回り、鋭い爪で雲を裂いて上昇した神龍は、最高点に達し、今度は重力のすべてを味方につけて地へと急降下した。時を同じくして、天岩戸に激突する。


地響きを立てて地に落ち、再び天へと這い上がっていく音の波。


その神龍の咆哮(大音響)の裏側で、再び風箱の限界が訪れた。


低音の凄まじい振動に耐えかねた空気弁から、再びキィィン……と、楽譜にない高音のうなりが漏れ出す。


それは、巨竜の背中で、必死に父親を呼ぶ、あの天使の泣き声だった。


否、それは不完全な人間が完全なる神を呼ぼうとする叫びであった。


不完全な人間の執念が宿るシルバートーンと、楽譜にない高音のうなり、そして神龍の如きフーガのエネルギー。


それが「楔」となって、天岩戸の巨石へ、 そして岩戸の奥深くに隠れる太陽の女神アマテラスの魂へと、真っ直ぐに叩き込まれた。



シーン4:岩戸の奥の動揺


天岩戸の奥。


そこは、いかなる光も、いかなる命の気配も存在しない、完全なる絶対の孤独だった。


太陽の女神アマテラスは、暗闇のなかで膝を抱え、静かに目を閉じていた。


外で八百万の神々がどれほど騒ごうが、アメノウズメがどれほど賑やかに踊ろうが、彼女の頑なな心が融けることはなかった。


神々の調和は完璧すぎて、原始的すぎて、彼女が抱える「世界を照らし続けることへの深い疲弊と孤独」という名の闇には届かなかったのだ。


だが……


ドォォーーーン!


突如として、岩戸の巨石を透過し、アマテラスの脳天を真っ直ぐに叩き割るような、凄まじい音が襲いかかった。


「……っ!?」


アマテラスは息を呑み、眩い瞳を見開いた。


後頭部を巨大なハンマーで殴られたかのような、圧倒的な音の打撃。


それは彼女がこれまでの神代で一度も耳にしたことのない、地上の人間が命のすべてを乗せて放ったホ短調(Eマイナー)の鉄槌だった。


楽譜上のホ短調(Eマイナー)の強烈な和音から、現実には丸一音高い、この世で最も鋭利な『嬰ヘ短調(F#マイナー)』の光が解き放たれ天岩戸に侵入してきた。


立て続けに、岩の隙間から「うねり」が滑り込んでくる。


中心の音から外側へと、引き裂くように身をよじるように音程を拡大していく『楔』の旋律。


アマテラスの神眼には、閉ざされた暗闇の向こうで、小さな天使が涙目でパニックになりながら一頭の巨大な神龍にしがみつき、天に向かって狂おしく飛び上がり、そして重力のすべてを伴って地に激突する姿がありありと見えていた。


(何という、悍ましくも、美しい音か……!)


完璧な天上の秩序ではない。


そこにあるのは、不自由な調律(ミーントーン)の歪みと闘いながら、怒り、抗い、それでもなお光を掴み取ろうと狂気的なまでのエネルギーで突き進む、人間の執念そのものだった。


神龍のフーガが最高潮に達し、高天原が激しく震える。


第119小節目の四分休符でペダルの音は一瞬途切れたが、第119小節目の四分休符から曲の終わり(170小節)まで、最初の厳格なフーガのテーマへと戻り、すべてをなぎ倒すような「勝ち誇った旋律」の総攻撃が始まった。


その時、神龍の咆哮の裏側から、もう一つの音がアマテラスの鼓膜を震わせた。


キィィン……。


細く、かすかな、狂おしい高音のうなり。


巨竜の荒々しい足音の隙間から漏れ聞こえるその音を聴いた瞬間、アマテラスの胸の奥で、カチリ、と世界の理が外れる音がした。


(これは……すすり泣く声?)


それは、凍てつく闇のなかで、誰にも気づかれずに泣いている、幼い子供の産声だった。


我が子を次々と失い、血の滲むような悲しみを胸に秘めながら、それでも正気を保つためにこの完璧な音の要塞を構築した、「あの男」の傷痕から漏れ出たうなりだった。


「これほどまでの闇を背負いながら……お前は、この私に『光の楔』を撃ち込むというのか」


最高神としての冷徹な仮面の下から、一人の「母」としての慈悲が溢れ出す。


完璧な神の世界には存在しない、泥臭くも愛おしい人間の体温。


アマテラスの頑なだった心の岩戸が、その音によって、内側からみしみしと音を立てて崩壊を始めていた。


彼女は立ち上がり、ゆっくりと、岩の扉へと手を伸ばした。



シーン5:岩戸が開き、アンコールへ


ガラガラと音を立てて、天岩戸の巨石が内側から動いた。


次の刹那、閉ざされていた暗闇をすべて焼き尽くすように、圧倒的な黄金の白光が爆発した。


高天原に本物の太陽の光が戻り、八百万の神々が歓喜の声を上げる。


まばゆい日輪を背負い、光の中心からゆっくりと歩み出たのは、世界の理そのものである最高神・天照大御神(アマテラス)だった。


永い孤独を湛えた太陽の瞳で、彼女はまず周囲の神々を見た。


泣いている神。笑っている神。五体投地している神。


彼女は小さく息を吐く。


「……まったく。騒がしい者たちだ」


その声だけで、高天原が震えた。


アマテラスはゆっくりと視線を巡らせ、オルガンの前に佇む異国の男を見つけると、その鋭い瞳で彼を射抜くようにゆっくりと歩み寄った。


「……そなたか」


バッハは一礼した。


「ヨハン・セバスティアン・バッハです」


「名は知っておる」


「久しぶりだった」


神がぽつりと言う。


「何がです」


「誰かに慰められたのは」


アマテラスはバッハを見つめる。


「見事な調べであった、楽聖ヨハン。だが困った」


「何がでしょう」


「そなたのおかげで出てきてしまった。責任を取れ」


神々は絶句する。バッハは困惑する。


そのバッハの横で。


   (責任取って結婚?)


と小さな可愛い声が聞こえたような気がした。


オモイカネだけがクスクスと笑っている。


「楽聖ヨハン、そなたに礼を述べよう、まだ、世界は終わっていなかったのだな」


アマテラスは再び真摯な表情に戻り、告げた。


「世界に光を取り戻した天才を、このまま帰すわけにはいかぬな。……楽聖よ、一つ問いたい」


彼女の声が、バッハの魂に直接響く。


「そなたの音楽の底に流れる、引き裂かれるような暗闇を私は見た。そなたが西の果てで信じるあの神は、十字架の上で死の間際、『我が神、どうして私をお見捨てになったのですか』と天を仰いで呟いたというな。神でありながら闇に突き落とし、父に拒絶された男の絶望。……楽聖よ、この者が最後に呼んだ『父』とは、かつてモーセやエリヤに語った、あの恐るべき絶対の理、『私はある(I am who I am)』という名の、冷徹な孤独のことなのか?」


神からの、存在論的な問い。


バッハは一瞬、鍵盤の上で指を震わせたが、すぐに深く息を吸い、前を見据えた。


「……いいえ、最高神よ。それは違います」


バッハは力強く首を振った。


「あの方が叫んだ時、天の『父』もまた、我が子を失う痛みのなかにありました。それは――私が我が子らをあちらの世界へ見送ったとき、この胸に空いた、あの狂おしい暗闇と同じでございます。私の音楽には、常に全体を支える『通奏低音(バッソ・コンティヌオ)』がございます。上にいかなる悲痛な旋律が重なろうとも、低音は決して途切れず、その歩みを止めない。異国の最高神よ。あの方が呼んだ『父』とは、孤高なる概念ではございません。人間が絶望のどん底で『なぜ見捨てるのか』と泣き叫ぶ、まさにその暗闇の底に、共に身を沈め、共に涙を流し、無言で私たちを支え続けている――沈黙の愛。それこそが、私の信じる『父』にございます」


バッハの言葉に呼応するように、風箱の隙間から、あの「天使の泣き声」が温かく漏れ出した。


「……そうか。ただの理ではない。そなたたちの神もまた、我が子を失う痛みを、そしてその沈黙の温もりを知る『父』であったか。形は違えど、天上の理は一つ。楽聖よ、もう一度、そなたの音を聴かせてくれぬか。その神が辿った、受難と復活の光を」


最高神からのアンコール。


バッハは不敵に微笑み、ストップを引き抜いた。


次に彼が紡ぎ出したのは、厳かなコラールパルティータ――『おお神よ、汝義なる神よ(BWV 768)』の主題であった。


ジルバーマンがこだわり抜いた半音高い調律によって、キリストの受難を表現する不協和音はどこまでも鋭く、痛切に高天原神殿に響き渡る。


しかし変奏が進むにつれ、その音は、絶対であるはずの死を破って蘇ったキリストの「復活」の光となり、今まさに岩戸を開いて世界を照らしたアマテラスの「日輪」の輝きと、完全に一つに融和していった。



シーン6:言葉なき再会(第1章・結び)


BWV 768


第10変奏の最後に、二つの四分休符がある。


音の完全停止。


単なる無音ではない、楽譜にはない音。


しかしこれもバッハが仕掛けた「音の罠」であった。


それは列王記上第19章の回帰。


預言者エリヤのあまりにも有名な「静かな細い声(静かにささやく声)」のエピソード。


エリヤが洞窟に身を潜めていたとき、主(神)が通り過ぎていかれた。


最初は、山を裂き、岩を砕くほどの猛烈な大風が吹き荒れた。しかし、その風の中に主はいなかった。


次に、激しい地震が大地を揺るがした。しかし、その地震の中にも主はいなかった。


その次に、すべてを焼き尽くすような火(火山)が燃え盛った。しかし、その火の中にも主はいなかった。


人間が圧倒され、恐怖し、神の力を恐れる、激しい激動のエネルギー。


けれど、聖書はこう続ける。


火のあとに、「静かにささやく細い声」(あるいは、かすかなそよ風の音)が聞こえた。エリヤはその声を聴いたとき、初めて顔を外套で覆い、神の前に立ったのだと。



第11変奏の始まり、すべての音が出る前、楽譜には何も書かれていない箇所。


刹那、高天原に転送されていたジルバーマンのオルガンがアマテラスの神気に満たされ、その輪郭がさらに大きくなった。


それはまさしくバッハが自身の演奏中に見た、あの平原のオルガンだった。


音が始まる前の、ほんの一瞬の隙間――。


それは、鍵盤にそっと指を触れた瞬間――。


あるいは、何かがオルガンのシステムと同調した瞬間――。


それはまた、音速の壁を書き換えるための予備動作――。


物理的な音符(データ)が鳴り響くよりもわずかに早く――。


これからこの世界のすべてを調和で満たすという、時空の深呼吸のような、優しい風が「フワッ」と平原の緑を揺らした。


何一つ失っていないし、力んでいないし、飢えていないという提示。


これから始まる怒涛のポリフォニーを、最初からすべて「満たされているもの」として包み込むための、秘密のパスワード。


バッハのシルエットに、オレンジ色の髪の毛をした天使のような何かが重なる。


「ついにやりおった、か」


オモイカネが呟く。


『おお神よ、汝義なる神よ』の最後の長調の和音が、天上のパイプから解き放たれ、黄金の光の中に溶けていった。


人が、神が、地が、天が、宇宙が、すべての理が喜びに震えた。


次の瞬間、あらゆる「音」が世界から消失した。


八百万の神々の歓声も、ジルバーマンの風箱のうなりも、東ザクセンの冷たい風の気配すらも消えた。


バッハの視界を埋め尽くしたのは、目を射るような眩しさではなく、母親の胎内にいるかのような、温かく柔らかな純白の光だった。


――完全な、沈黙。


だが、それは拒絶の静寂ではなかった。


バッハが人生で一度も楽譜に書き込むことのできなかった、究極の「調和」という名の沈黙だった。


その光の織物の向こうから、小さな影が一つ、また一つと、静かに歩み寄ってくる。


衣服の擦れる音すらしない。しかし、バッハの魂が激しく震えた。


「……あ、あぁ……」


声にならなかった。名前を呼べば、その瞬間に消えてしまうのではないかと怖れた。


だが、呼ぶ必要などなかった。


生まれて数日で冷たくなった我が子。


洗礼名しか与えられなかった幼子。


父親の顔を覚える前に逝った娘たち。


七人の子供たちが、そこにいた


病の苦しみも、死の間際の青白い顔もない。


みな、陽だまりのような温かさをまとって、ただ静かに父親を見上げている。


最も小さな子が、トコトコと歩み寄り、バッハの震える右手の、オルガンの鍵盤を叩き続けた無骨な人差し指を、両手でそっと包み込んだ。


――温かい。


その瞬間、バッハの目から止めどなく涙が溢れ落ちた。


彼は厳格な宮廷楽長としての衣服を忘れ、膝を突き、地についた手で子供たちを一塊に抱きしめた。


子供たちの小さな腕が、バッハの首や背中に回される。


言葉は交わされなかった。


『どうして死んでしまったのか』という父親の長年の呪いも、『守ってやれずすまなかった』という血を吐くような罪悪感も、その沈黙の抱擁の中で、雪が水に溶けるように消え去っていく。


そこにあったのは、ただ一つ。


『お父さん、私たちは、ここにいるよ』という、確かな存在の響きだけだった。


バッハが信じた「父なる神の沈黙の愛」が、今、子供たちの体温となって彼を包んでいた。


上にいかなる絶望の旋律が流れようとも、この命の通奏低音だけは、決して途切れてはいなかったのだ。


光の彼方で、アマテラスが静かに微笑んでいた。


彼女は何も言わない。しかし、その眼差しは、この奇跡が太陽の女神から一人の父親へと贈られた、永久の祝福であることを示していた。


子供たちが、バッハの涙を小さな手のひらでそっと拭う。


最も年長だった子が、バッハの耳元で、風のささやきのような吐息を残した。


――お父さん。もう、寂しくないよ。


その横で、みかん色の髪の小さな天使は元気に微笑んでいた。


「おいすー、パパ、私がついているから、大丈夫!」


その温もりを魂の奥深くに刻み込んだ瞬間、純白の光がゆっくりと反転し、バッハの意識を、歴史の、時間のあるべき場所へと押し戻していった。



(第1章 了)

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