57話
昼の公演は、何とか無事に終わった。
少なくとも、皆にはそう見えたはずだ。
ステージの上で陽向君の姿を見つけた時、胸は跳ねた。
赤いペンライトを握って、いつものように全力でブレイブを応援してくれている彼の姿に、何度も目が行きそうになった。
でも、そのたびに横井さんの言葉を思い出した。
舞台に出たら、見るのは全員。
誰も特別扱いは出来ない。
だから私は、彼だけを見なかった。
彼にも、彼以外の誰にも、同じように手を振った。
同じように笑った。
同じように、ブレイブとして接した。
でも、拳を振り抜く時や、子供たちに向けて大きく手を振る時。
――ズキリ、と右手首が何度も痛んだ。
そのたびに、動きが崩れ過ぎない程度に庇いながら動きを作っていく。
指先に力を入れすぎずに、手首を柔らかく、それでいて振り回し過ぎないように痛みを逃がす。
殺陣の時には、ドリームが少しだけ前に出てくれた。
ホープが、いつもより大きく跳ねてくれた。
私は一人でブレイブをやっているんじゃない。
そのことを、ステージの上で何度も思い知った。
* * *
その後のハイタッチ会には、目を輝かせている子供たちの列に混ざって、当然のように陽向君がいた。
「ブレイブ! 今日も最っ高にカッコよかったよ!!」
いつもの声。
いつもの笑顔。
差し出した両手に彼の手が触れる、そのほんの一瞬、彼の瞳が私の右手の方へ向いた気がした。
気のせい。
そう思いたかった。
ぽふん、と。グローブ越しに伝わった感触に胸が鳴った。
陽向君は、何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を細めて、それからいつものように笑った。
その笑顔が優しいほど、私はまた少しだけ苦しくなる。
それでも私は何事もないように、ブレイブのポーズで応えて彼を見送った。
「また最後の公演で会おうね、ブレイブ!」
陽向君が名残惜しそうに列の先へ進んでいく。
ドリームの前でまた嬉しそうに手を振っている背中を見て、私は胸の奥をそっと押さえたくなるのを、ぐっとこらえながら、次の人へと視線を向けた。
――その時だった。
「ブレイブ……ブレイブ……!」
次に私の前に立ったのは、大人の男性だった。
年齢は、たぶん私よりずっと上。
首には赤いタオル。
胸元にはブレイブの缶バッジがいくつも並んでいる。
その人は目を輝かせたまま、私に向かって両手を伸ばしてきた。
(応援、ありがとう!)
そう思って、ハイタッチする為に私も両手を上げる。
「ブレイブ、ブレイブ、今日も、今日もすごかった……!」
「……っ」
ぽふん、と触れるはずだった手が、そのまま強く握り込まれた。
右手と、左手。
両方を包み込むように握られて、ぐい、と上下に揺さぶられる。
「ブレイブ、ありがとう、ありがとう……!」
悪意があるわけじゃない。
その声は、本当に嬉しそうだった。
——でも。
「……っ、ぁ」
右手首に、鋭い痛みが走った。
……まずい。
そう思った瞬間には、もう一度、強く腕を振られていた。
テーピングの下で、何かが嫌な音を立てたような気がした。
「お客様、ハイタッチだけでお願いします!」
すぐに剥がしのスタッフさんが間に入ってくれる。
「ハイタッチだけですよー。ブレイブも次のお友達が待ってますからねー」
「あ、あ……ごめんなさい、ブレイブ……」
男性ははっとしたように手を離した。
そして、何度も頭を下げながら、隣のドリームの前へ進んでいく。
ドリームの前では、今度はちゃんとハイタッチだけをしていた。
普通に、嬉しそうに。
だから私は、何も言えなかった。
……言えるはずがなかった。
マスクの中で、汗が一筋こめかみを伝う。
右手首が、熱い。
さっきまでの鈍い痛みとは違う。奥の方が、ずきずきと脈を打っている。
本当は早く保冷剤を当てたかった。それでもハイタッチの列は、まだまだ長く続いていた。
「ブレイブー!」
次に来た小さな男の子が、両手を上げて走ってくる。
私は反射的に、いつものように右手を上げかけた。
「ぃっ」
痛い。でも、下ろせない。この子にとっては、今この瞬間のブレイブがすべてだから。
私は痛みが出ない角度を探して、左手を差し出し、右手で手を振ることにした。
ぽふっと小さな手がグローブに触れた。
「ありがとう、ブレイブ!」
男の子が笑う。
その笑顔を見た瞬間、私はマスクの内側で、ゆっくり息を吐いた。
大丈夫。
まだ、笑える。
まだ、ブレイブでいられるから。
* * *
最後の一人を見送り、通路の扉が閉じられ、ハイタッチ会が終わった。
その瞬間、私は右手を胸の前に抱え込んだ。
「……っ」
……痛い。
さっきまでより、明らかに痛い。
熱くて、重い。手首の奥で、何かがずっと脈を打っているみたいだった。
「星野さん!」
横井さんの声がすぐ隣から聞こえ、はっと顔を上げると、ホープのマスクを被ったままの横井さんが、私の右手を見ていた。
その後ろからも檜山さんが駆け寄ってくる。
「理子ちゃん、大丈夫? さっきの見えてたよ」
普段は控室に戻り、マスクを脱ぐまでは絶対に喋らない二人が声を掛けてくる。それだけで二人が心配してくれている事が伝わり、思わず口元が緩んでしまう。
「……大丈夫です。ちょっと痛んだだけで」
「ちょっとじゃなかったでしょ」
横井さんの声は低く静かで、真剣な色しか含まぬその声に、思わず背筋が伸びてしまった。
「早く控室戻ろう? すぐ冷やさないと」
「はい……」
私は頷き、二人に背を押されるが如く足早に控室へと舞い戻った。
控室に戻り、扉が閉まった瞬間、檜山さんが慌ててマスクを外した。
「理子ちゃん、手、見せて!」
「だ、大丈夫ですって。本当に、見た目はたぶん何とも……」
「いいから」
素早くグローブを外している横井さんに短く言われ、私はきゅっと口を閉じた。
ゆっくりと、ブレイブのグローブを外す。
スルリと密着していたグローブがこすれていく動作だけで、右手首の奥がずきりと痛んだ。
「……っ」
思わず息を呑む。
グローブの下から出てきた右手首は、ぱっと見ただけなら、大きく腫れているわけではなかった。
赤くもなく、腫れも出ていない。
動かそうと思えば、指もちゃんと動く。
(良かった……見た目は普通だ)
ほっと胸をなでおろそうとした時、横井さんの手が伸びた。
「触るよ」
横井さんが確認してから、そっと私の手首に指を添えた。
「いっ……!」
情けない声が漏れた。
見た目には何もないのに、触れられたところから、熱を持った痛みがじわりと広がっていく。
「うーん……熱、持ってるね」
横井さんの眉が、少しだけ寄る。
檜山さんも、さっきまでの明るい顔を消して、私の手首を覗き込んだ。
「さっきの人、かなり強く握ってたもんね……」
「でも、悪気があったわけじゃないです」
反射的にそんな言葉が出てしまった私を、二人が同時に見た。
言った私も自分で驚いて、少しだけ視線を落とした。
「すみません。でも……本当に嬉しそうだったから。ブレイブに会えて、すごく嬉しかったんだと思います。だから」
「だから、痛かったって言わなかった?」
「……」
何も言い返せなかった。
横井さんは、責めるでもなく、小さく息を吐いた。
「その人の気持ちを大事にしたいのは分かるよ」
「……はい」
「でもね、星野さん。ブレイブを好きでいてくれる人のためにも、ブレイブが壊れちゃだめなんだよ」
その言葉に、胸が小さく詰まった。
ブレイブが壊れる。
そんなふうに言われて、初めて怖くなった。
私は、もう一度右手首を見下ろす。
見た目は何ともない。
なのに、確かに痛い。
外からは分からないところだけが、熱を持っている。
まるで、私の秘密みたいだと……ぼんやりと思っていた。
「とりあえず冷やそう!」
檜山さんが保冷剤を取りに走る。
「テーピングも巻き直す。あと、夕方のハイタッチはスタッフさんに共有して、右手はあまり出さないようにする」
「え……でも」
「でもじゃない」
横井さんの声が、少しだけ強くなった。
「出たい?」
「……出たいです」
「うん。だと思った」
横井さんは私の目をまっすぐ見た。
「でも、出たいと出られるは別。そこは分かってる?」
「……はい」
「なら条件付き。夕方の公演、右手を使うアクションは減らす。決め技の振り抜きはドリームとホープで支える。ブレイブは中心に立つだけで画になるように、こっちで位置を作るから」
「でも、それじゃ……」
「ブレイブが弱く見える?」
言いかけた言葉を先に言われて、私は息を止めた。
横井さんは少しだけ笑った。
「大丈夫。ブレイブは一人で強いから格好いいんじゃないよ」
檜山さんが戻ってきて、私の右手首にタオル越しの保冷剤を当ててくれる。
冷たさが、熱を持った痛みにじわりと染み込んでいく。
「みんなで立って、それでも前を向くから格好いいんだよ」
「……っ」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
舞台の上で、いつも一番前に飛び出していたブレイブ。
誰よりも先に拳を握って、誰よりも先に敵へ向かっていくブレイブ。
でも、彼女の隣には……いつもドリームがいた。ホープがいた。客席から声をくれる子供たちがいた。
そして今日は、私の右手首を心配してくれる先輩たちがいる。
「……お願いします」
私は小さく頭を下げた。
「夕方の公演、最後までブレイブでいさせてください」
「無理したら止めるからね」
「……はい」
「痛みが増したらすぐ言うこと」
「……はい!」
「その返事、信用していい?」
「……できるだけ」
「そこは断言しなさい!」
「はい! ちゃんと言いますっ!!」
檜山さんが、ようやく少しだけ笑った。
「よろしい。じゃあ夕方は、私たちが理子ちゃんの右手になるから」
「右手にしては二人とも元気すぎませんか」
「元気な右手の方がいいでしょ?」
「それは……そうかもしれません」
笑って身体が僅かに震えるだけでも、右手首はチリチリと痛む。
保冷剤で冷やしていてもなお、まだじんじんと熱を持っている。
年内最後のステージ、本当に最後の一回。
冷やしても、休ませても、本番までに痛みは完全には引いてくれないだろう。
それでも、動けないわけじゃない。
(大丈夫。大丈夫だよ、私)
そう自分に言い聞かせて、時計の針が着々と進んでいくのを、睨むように見つめていた。
痛みも。
秘密も。
胸の奥に抱えたまま。
それでも、最後の幕は上がる。




