56話
休憩も終わりに近付き、そろそろ行こうと立ち上がりかけた時に、鞄の中からスマホが震える音が微かに聞こえた。
「……?」
保冷剤を右手首に当てたまま、私は左手でスマホを取る。
画面に表示されていた名前を見た瞬間、胸がどくんと鳴った。
『星野さん、朝からお疲れ様! 今日もお仕事だったよね?』
『手首、ほんとに大丈夫? 無理してない?』
文字を読んだだけで、一昨日の夜のことが一気に蘇る。
駅へ向かう道。
私の鞄を持ってくれた彼の手。
心配そうに、何度もこちらを見ていた横顔。
『今日は絶対に無理しないでね』
「……無理は、してないよ」
誰に言い訳するでもなく、小さく呟いた。
いや、言い訳していないとは、言い切れないかもしれない。
でも、今日の私はブレイブだから。
ブレイブとして舞台に立つ以上、星野理子の弱いところを客席には見せられない。
そう思ってしまう時点で、たぶん横井さんの言う通り、私の『大丈夫』はあまり信用ならないのだろう。
少しだけ迷ってから、私は返信を打った。
『ありがとう』
『手首はちゃんと冷やしてるよ』
『痛みも昨日よりは落ち着いてるから大丈夫』
『陽向君も、今日はどこか出かけるの?』
送信してすぐに既読がついた。
……やっぱり早い。
『よかった!』
『いや、大丈夫って言われてもまだちょっと心配だけど!』
『でも冷やしてるならえらい!!』
えらいって……さぁ。
思わず口元が緩む。
あんなことがあったのに、こうやっていつもの調子でメッセージをくれるのが……ありがたくて。
それと同じくらい、申し訳なくて。
だって彼は、まだ何も聞いてこない。
ただ、私の手首のことだけを心配してくれているのだから。
そうしている間にも、画面には次のメッセージが届いていた。
『俺は今日、ステラの年内最後ステージ行くよ!』
『朝はちょっと駄目だったんだけど、昼と夕の回はチケット取れてさ!!』
『年内最後のブレイブ、全力で応援してくる!!』
ブレイブがはしゃいでいるスタンプが送られ、彼からのメッセージは止まった。
「……っ」
来るんだ。陽向君が。
今日のブレイブを見に来るんだ。
右手首に当てていた保冷剤の冷たさが、急に針でも刺すような痛みに変わった気がした。
『そうなんだ』
『年内最後だもんね』
『楽しんできてね』
そこまで打って、送信する前に指を止めた。
『楽しんできてね』なんて……まるで、私はそこにいないみたいな言葉を、また彼に言ってしまう。
本当は、ステージの上にいるのに。
彼が全力で応援するブレイブの中にいるのに。
「……」
私は一度、打ち込んでいた文字を全て消した。
それから、もう一度ゆっくりと打ち直す。
『そうなんだ』
『年内最後のステージ、楽しんできてね』
『ブレイブたちも、きっと喜ぶと思う』
送信ボタンをタップする。
……すぐに既読が付く。
『うん!!』
『めちゃくちゃ応援する!!』
『星野さんにも見せたいくらい、今日のブレイブも絶対すごいと思う!』
『終わったら感想送るね!!』
星野さんにも見せたいくらい。
その一文に、胸がぎゅっと締めつけられる。
見ているよ。
きっと、あなたが思っているよりずっと近くで。
そう返せたら、どれだけ楽だろう。
『うん』
『感想、楽しみにしてるね』
『でも、人多いと思うから気をつけてね』
『ありがとう!』
『星野さんも仕事無理しないで!』
『手首、ほんと大事にしてね!』
最後に、マフラーをぐるぐる巻きにしたわんこのスタンプが送られてきた。
それがあまりにも陽向君らしくて、私は少しだけ笑ってしまう。
笑って……それから、右手首をそっと押さえた。
「……頑張るね」
そう小さく呟いた。
今日のステージも、ブレイブも、陽向君が大切にしている憧れも。
そして、まだ言えないこの秘密も。
全部、壊したくない。
スマホの電源を落とし、鞄の奥へと押し込むと、もう一度保冷剤を右手首に当てた。
昼の公演まで――あと少し。
* * *
開演時間が近くなり、客席側のざわめきが少しずつ大きくなっていく。
控室で見るモニターからはその音だけでなく、熱気も伝わってくるようだった。
子供たちの声。
保護者の話し声。
スタッフさんのマイクによる案内。
その全部がスピーカーからノイズ交じりに聞こえてくる。
いつもなら、その音は私を舞台へ向かわせてくれる合図だった。
けれど今日は、その中に混ざるたった一人の気配を探してしまう。
陽向君が、あの中にいる。
まだ姿を見たわけじゃない。
それでも、そう思うだけで、右手首に巻いたテーピングの感触が急に重くなった。
「星野さん」
横井さんに呼ばれて、私は顔を上げる。
「客席、見すぎないこと」
「……見てません」
「まだ何も言ってないのに?」
「……すみません」
横井さんが小さく笑う。
「探したくなる相手がいるのは悪いことじゃないよ。でも、舞台に出たら見るのは全員。分かる?」
「はい」
「その上で、届く人にはちゃんと届くからさ」
その言葉に、胸の奥が小さく跳ねた。
届く人。きっと、届いてしまう人。
私は右手首を一度だけ軽く握って、痛みの具合を確かめる。
大丈夫。まだ動ける。
そう言い聞かせて、ブレイブのマスクを被った。
瞼を開けば、ブレイブとして見る世界が広がる。
音は少しこもっているが、それでも客席のざわめきは波のように届いてくる。
子供たちがはしゃぐ高い声。
開演を待つ、期待に満ちた空気。
その全部が、マスク越しの私の身体を少しずつブレイブへ変えていく。
大丈夫。
私は――ブレイブだ!
「ステラ、スタンバイお願いします!」
無言のまま、身振りで返事をして、私たちは舞台袖へと向かう。
(大丈夫、できるよ)
そう言い聞かせて、私は袖の暗がりに立った。
舞台の向こうで、オープニングの音楽が鳴り始める。
『みんなー! 今日はステラ☆フォース、年内最後のスペシャルステージに来てくれてありがとうー!』
MCのお姉さんの声に、客席から大きな歓声が上がった。
その声の中に、彼の声が混ざっているのかもしれない。
――だめ。今は考えちゃダメだ。
彼の姿を探したら、きっと私は星野理子に戻ってしまう。
舞台袖の暗がりで、深く息を吸った。
そして、音楽の合図と同時に、左右に立つ二人と顔を見合わせ、最初に私が駆け出していく。
スモークを突き抜け、レーザーが交差する光の中へ——。
『どんな時でも、誰かの笑顔のために! 守り抜く勇気の星! ステラ・ブレイブ!』
続いて、ドリームが。
『あなたの夢が、私の力! 彩る夢の星! ステラ・ドリーム!』
最後に、ホープが。
『信じる力は闇夜を照らす! 導く希望の星! ステラ・ホープ!』
『『『星の輝きをあなたへ! ステラ☆フォース!!』』』
三人でぴたりと決めポーズを取る。
「「「わぁぁぁぁーっ!!!」」」
スポットライトが視界いっぱいに広がる。
客席が、光の向こうに浮かび上がる。
赤いタオル。
赤いペンライト。
ブレイブのTシャツ。
そのどれかに、ほんの一瞬だけ心臓が反応しかける。
でも、私は目を逸らさなかった。
見るのは一人じゃない。
会場に来てくれた、みんなだ。
そう教えてくれた横井さんの言葉を胸の中で繰り返しながら、私はブレイブの決めポーズを取った。
——右手首に、小さな痛みが走る。
……笑え。
ブレイブはこれくらいで、痛そうな顔なんてしない。
私はマスクの内側で歯を食いしばって、いつも通り、大きく腕を振り抜いた。




