55話
――十二月三十日。
何度か右手を握ったり開いたり、軽くひねったりして状態を確かめる。
僅かなピリリとした痛みと、テーピングによって少し膨らんだ感触がグローブの内側でわずかに主張していた。
「……痛む?」
隣でストレッチをしていた横井さんが、私の手元を見てそう尋ねる。
「少しだけです。動かせないほどじゃありません」
「少しだけ、ね?」
横井さんはじっと私の顔を見て、それから小さく息を吐いた。
「星野さんの『大丈夫』って、あんまり信用ならないんだよね」
「え」
「分かるー!」
反対側から、檜山さんが元気よく頷いた。
「理子ちゃん、平気な顔して無理するタイプだもん」
「そんなことは……」
「ある」
「あるね」
「あ……ぅ……」
二人に即答されて、私は返す言葉をなくした。
楽屋には、開演前の独特な緊張感が満ちていた。
衣装の擦れる音。スタッフさん達が行き交う足音。スピーカーから漏れてくる、客席案内の声。
いつもと同じ現場。
いつもと同じ本番前。
なのに、今日はほんの少しだけ、身体のどこかが現実に引っ張られている気がした。
「本当に、無理はしないでね」
横井さんが静かに言う。
「ブレイブが強い子なのは知ってるけど、中に入ってる星野さんまで無敵なわけじゃないんだから」
「……はい」
その言葉に、私は素直に頷いた。
私は無敵じゃない。
そんなこと、一昨日の夜に痛いほど思い知ったばかりだった。
* * *
「それじゃあ……またね、星野さん!」
「うん……今日はありがとう、陽向君」
精一杯の笑顔を見せて、左手で陽向君へと手を振って、人でごった返している新宿の駅のホームへと階段を登っていく。
陽向君と別れてから、私はずっとどこかぼんやりしていた。
電車に乗っても、最寄り駅についても、家に帰りついても。
段々と痛みを増していく右手首と同じくらい、ズキズキと痛む胸を抱え、モヤモヤを吐き出すように大きくため息をつく。
今日は一日楽しかった。それは間違いない。
老舗のカリーも、デパートを歩いた時間も、脱出ゲームも、紅茶の香りに包まれながら話したことも。
どれも全部、思い返すだけで胸が温かくなる。
陽向君は、私に自分の大切な秘密を話してくれた。
ステラが好きな理由。
ステラに救われたこと。
ステラみたいに生きようとして、今の自分になったこと。
その話を聞けたことが、嬉しかった。
嬉しかったはずなのに。
駅のホームで一人になった瞬間、胸の奥に残っていたのは、甘さだけではなかった。
彼は話してくれたのに。
私は話せなかった。
ステラ・ブレイブの中にいるのが、本当は私だということ。
あの子に向かってブレイブみたいに笑った私を。
あの決めポーズを、あの動きを。
陽向君はきっと見ていた。
なのに……。
『今の星野さん、ほんとに……』
彼は、その先を言わなかった。
聞かなかった。
踏み込んでこなかった。
だから私は、ほっとした。
ほっとしてしまった。
――また、私は逃げてしまったんだ。
家に帰ってから、痛む右手首をしっかりと冷やした。
保冷剤をタオルに包んで当てると、じんと鈍い痛みが広がる。
「……痛い」
思わず、小さな声が漏れた。
動かせないわけじゃないし、腫れもそこまでひどくはない。
でも、手を握ったりひねったりすると、奥の方がじわりと痛む。
明日の現場はMCだから大丈夫だとしても、明後日はステラ☆フォースの舞台。
嫌な予感が頭をよぎって、私は唇をきゅっと引き結んだ。
大丈夫。
これくらいなら動ける。
そう思った瞬間、陽向君の声が蘇る。
『今日は絶対に無理しないで』
「……ごめんね」
誰に向けた謝罪なのか、自分でも分からなかった。
陽向君になのか、先輩達になのか、ブレイブになのか。
……それとも、また何も言えなかった自分にか。
答えは出ないまま、私は冷たいタオルを手首に押し当て続けた。
* * *
「星野さん」
横井さんの声で、意識が現実に戻る。
「本番中、右手をかばいすぎると逆に目立つから。振り抜く時は手首じゃなくて、肘と肩で線を作って」
「……はい」
「無理に力を入れない。角度で見せる。分かる?」
「分かります」
「うん。なら大丈夫」
横井さんはそう言って、私の肩を軽く叩いた。
「ブレイブは一人で立ってるわけじゃないから。ドリームもホープもいる。困ったら頼りな」
「……ありがとうございます」
檜山さんが、にっと笑って拳を差し出してくる。
「ラスト、ちゃんと三人で支えるから!」
「……はい!」
私は左手で、二人の拳に軽く触れた。
右手首はまだ痛い。
でも、胸の奥にあった重さが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
私は深く息を吸って、ブレイブのマスクを手に取った。
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最後の音楽が鳴り響く中、私は客席に向かって大きく手を振った。
『それじゃあみんな! また会おうねー!』
「ばいばーい!」
「ブレイブー!!」
「ドリームぅー!!」
降りていく緞帳の向こうで、子供たちの声が少しずつ遠くなっていく。
私は最後の最後までしっかりと手を振り続けた。
手を振る度に、右手首にじんとした痛みが走る。
それでも、手は下ろさない。
幕が完全に降りきる、その瞬間まで。
「……っ、はぁ」
緞帳が床に触れた瞬間、ようやく息を吐いた。
乗り切った。
年内最後のステージ、まずは一回目。
やっぱり右手は痛むが、動きは意地でも崩さなかった。
少なくとも、客席には悟られなかったはずだ。
「……どうだった?」
控室に戻ってマスクを外した瞬間、横井さんが真っ先にそう聞いてきた。
「大丈夫です。何とか」
「何とか、ね」
横井さんは私の右手首を見て、少しだけ眉を寄せる。
「外から見てる分には、ほとんど分からなかったよ」
「ほんとですか?」
「うん。右の振り抜き、少し角度変えてたでしょ。あれでいい」
その言葉に、私はほっと息を吐いた。
「ただし」
「……はい」
「昼と夕方、同じように持つとは限らないからね。休める時はちゃんと休む。冷やす。無理に握らないこと。いいね?」
「……はい、すみません……」
檜山さんが横からひょこっと顔を出す。
「あと、無理したら私と横井さんで羽交い締めにしてでも止めるからね!」
「そ、それは怖いです……!?」
「怖がってくれてよろしい! とにかく、無理はしないでね」
檜山さんの明るい声に、控室の空気が少しだけ緩む。
私もつられるように笑ったけれど、右手首の奥では、まだ小さな痛みがくすぶっていた。
一回目は、乗り切れた。
横井さんの言う通り、振り抜く角度を変えて、手首ではなく肘と肩で線を作る。
ドリームとホープも、ほんの少しだけ立ち位置を調整してくれていた。
……きっと、客席から見ればいつものブレイブだったはずだ。
でも、一度マスクを外してしまえば、そこにいるのは星野理子であって、強くも無敵でもない、右手首を痛めている普通の人間だった。
「ほら、冷却冷却」
横井さんが保冷剤をタオルで包んで差し出してくれる。
「あ、ありがとうございます!」
「次まで時間あるから、ちゃんと冷やしておきなね」
「はい!」
私は言われた通り、椅子に腰を下ろして、右手首にタオル越しの冷たさを当てた。
「……っ」
じん、と鈍い痛みが広がる。
でも、耐えられないほどじゃない。
動かせないわけでもない。
なら、大丈夫だ。
そう思おうとした瞬間、自分の中の声が、すぐに言い返してきた。
『本当に?』
朝の公演は乗り切れた。
でも、今日はあと昼と夕の二回公演がある。
年内最後のステージだからこそ、どの回も手を抜けない。どの回にも、今日のブレイブを楽しみに来てくれた子供たちがいる。
……そして。
私は控室の隅に置いていたスマホへと、視線を向けていた。
朝の客席に陽向君はいなかった。
ハイタッチの時に、赤いブレイブのシャツを身につけた人影を見つけるたびに、ほんの一瞬だけ心臓が跳ねた。
彼の姿を無意識のうちに探してしまっていたんだと、自分で気付いてしまって、少しだけ苦笑する。
昨日あんなことがあったばかりなのに。
彼に言えないことを、また一つ増やしてしまったばかりなのに。
それでも私は、客席のどこかに彼の姿を探してしまう。
会いたい。
見てほしい。
でも、見られるのが怖い。
矛盾だらけの気持ちを抱えたまま、私は保冷剤を当てた右手首をそっと押さえた。




