54話
「今の星野さん、ほんとに……」
陽向君のその言葉の続きを聞く前に、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
少しずつ、確実にこちらへ近付いてくる。
「警察、来たみたいだね」
「……うん」
陽向君はそれ以上、何も言わなかった。
さっきの私を見て、何かを言いかけていたはずなのに。
その言葉を飲み込むように、彼は一度だけ目を伏せて、それからいつものように私の隣に立った。
やがて、通りの向こうから警察官が二人駆け寄ってくる。
「通報があったのはこちらですか!」
「はい! この人です!」
男を押さえていた店員さんの一人が声を上げる。
地面に組み伏せられた男は、まだ口汚く何かを喚いていたけれど、警察官が来ると、さすがに周囲の空気が一気に変わった。
「お怪我をされた方はいませんか?」
「こちらの親子が絡まれていて……」
「この方たちが助けてくれました!」
誰かの声に、警察官の視線がこちらへ向く。
「君たちも当事者かな? 少し話を聞かせてもらえる?」
「……はい」
私は小さく頷いた。
緊張が解けたせいか、さっきまで平気だったはずの足が、ほんの少しだけ震えている。
それを悟られないように、私は背筋を伸ばした。
「大丈夫?」
隣で、陽向君が小さく聞いてくる。
「うん。大丈夫だから……」
ポーカーフェイスのまま、そう答えた。
……それでも私の強がりは陽向君には通用しなかったみたいで、ずっと心配の色を浮かべたまま、私の隣に立ち続けてくれた。
* * *
それからしばらくの間、パトカーの近くで警察官に事情を説明した。
女の子が男とぶつかってしまったこと。
母親が何度も謝っていたこと。
それでも男が大声で威圧し続けていたこと。
……私が間に入ったこと。
陽向君が通報してくれたこと。
話しながら、私はできるだけ冷静でいようとした。
さっきまでの自分の行動を、まるで他人事みたいに説明しているのが、不思議だった。
「君、よく間に入れたね。怖かったでしょう」
警察官にそう言われて、私は一瞬だけ言葉に詰まる。
「……怖かったです」
正直に答えると、隣の陽向君が、わずかにこちらを見た。
「でも、あの子が怖がっていたので」
それ以上は、言えなかった。
『助けて、ブレイブ』
あの声が聞こえたから。
身体が勝手に動いてしまったから。
そんなこと、説明できるはずもない。
やがて男は警察官に連れられていき、母親と女の子も、別の警察官に付き添われながら状況を話していた。
女の子は最後にもう一度だけこちらを振り返って、小さく手を振ってくれた。
その手には、まだブレイブのぬいぐるみキーホルダーが握られている。
私は笑って、同じように手を振り返した。
ブレイブの決めポーズではなく。
星野理子として、普通に。
それでも女の子は、少しだけ安心したように笑ってくれた。
「……よかった」
そう呟いた瞬間だった。
「……っ」
右手首にズキリと鈍い痛みが走った。
さっき、男の腕を受け流そうとした時。
思った以上の力で引き戻された、あの感覚が蘇る。
その時は気付かなかった。
きっと、緊張と必死さで痛みを感じる余裕がなかったのだ。
「星野さん?」
陽向君の声に、私は慌てて手を下ろした。
「……ううん。なんでもない」
「なんでもなくないでしょ。今、痛そうな顔してたよ?」
「……ちょっと、手首をひねっただけ」
「ちょっとじゃないかもしれないじゃん!」
「っ……!」
陽向君の声が少しだけ強くなる。
決して怒っているわけじゃない。ただ……真剣に告げてくれているだけだ。
「ちゃんと冷やそう。できれば病院も」
「病院は大げさだよ。普通に動くし、たぶん捻っただけだから」
「でも」
「本当に大丈夫。……明日、様子見て痛かったら行くから」
そう言うと、陽向君はまだ何か言いたそうに口を開きかけたが、結局何も言わずに、ゆっくりと息を吐いた。
「……分かった。でも、今日は絶対に無理しないで」
「うん」
「荷物、持つよ」
「え、いいよ。そんなに重くないし」
「持つから」
「……はい」
有無を言わせない声だった。
私は小さく笑って、鞄を彼に預ける。
陽向君はそれを受け取ると、私の右手首を気遣うように、そっと歩幅を合わせてくれた。
騒ぎが少しずつ収まっていく。
さっきまで野次馬で埋まっていた道も、少しずつ元の流れを取り戻していた。
人々はまた、それぞれの目的地へ向かって歩き出す。
まるで、何事もなかったかのように。
でも、私の右手首には、まだじんとした痛みが残っている。
そして胸の奥にも、別の痛みが残っていた。
「……星野さん」
「……何?」
隣を歩く陽向君が、ぽつりと名前を呼ぶ。
私は思わず少し身構えてしまった。
さっきの続きを聞かれるのかと思ったから。
『今の星野さん、ほんとに』
……あの言葉の続きを。
でも陽向君は少しだけ私を見て、それから困ったように笑った。
「……今日は、ほんとに色々あったね」
「……うん」
「でも、星野さんが無事でよかった」
……それだけだった。
それ以上は、何も聞いてこなかった。
私の動きのことも。
ブレイブの台詞のことも。
女の子に返した決めポーズのことも。
何も。
なのに、どうしてだろう。
彼の優しさが……苦しかった。
「……ありがとう、陽向君」
「うん」
冬の夜風が二人の間を通り抜ける。
駅へ向かう道を、私達はゆっくり歩いた。
楽しかったデートの余韻。
陽向君が打ち明けてくれた秘密。
言えなかった私の秘密。
そして、右手首に残った小さな痛み。
全部が混ざり合って、胸の奥で静かに熱を持っていた。




