51話
陽向君は静かに紅茶を一口啜り、口を湿らせると、どこか遠くを見るような目をしながら、ゆっくりと口を開いた。
「これ、誰かに話すの……初めてなんだけどね」
「……?」
「あはは。そう、誰にも……言ったことはなかったけど、星野さんならきっと分かってくれるって思うから」
そう言って、彼は少しだけ照れたように笑った。
「聞いてくれる?」
「……うん。もちろん」
私は姿勢を正しながら頷いた。
「俺さ、小さい頃は……本当にどこにでもいる子供だったんだ。今もだけどね?」
カップを両手で包みながら、彼はゆっくりと語り始めた。
「アニメも漫画もゲームも好きで、外でもよく走り回ってた。……まあ、普通の男の子だよ」
「うんうん」
「で、その頃さ。友達はみんな変身ヒーローとか、バイクに乗るヒーローとか、そういうのにハマってて。で、休み時間になると、みんなでヒーローごっこするわけ。俺は誰々役ー! って」
そう言って陽向君は懐かしそうに目を細めた。見つめる視線の先には、紅茶に映る彼の顔があった。
「でもさ。不思議と俺は、なんか……ピンと来なかったんだよね」
「ピンと来ない?」
「うん。かっこいいとは思うんだけど……なんか、自分がなりたいのは、これじゃないなって」
そこまで言って彼は少しだけ言葉を止め、ゆっくりと目を閉じた。
「そんな時にさ。……たまたま、見ちゃったんだ」
「……初代の、ステラ?」
「そう」
彼は深く頷き、微笑みながらゆっくりと目を開いた。
「最初は、ほんとにたまたまだったんだ。日曜の朝にテレビつけたままにしてたら、始まって」
「うん」
「女の子向けのアニメだってすぐ分かった。キラキラしてて、可愛くて。……俺が見るもんじゃないなって、正直思った」
「……でも?」
「……見ちゃったんだよね。最後まで。それも別に1話とかでもない、中途半端な話数から」
陽向君の目が遠くを見るように細められる。
「その回でね。ステラが独りぼっちで泣いている女の子を助けるんだ」
「……うん」
「その子、誰にも理解してもらえなくて、ずっと一人でいて。……もう誰も信じられないって、泣いてて」
彼の声が、少しだけ低くなった。
「そしたらステラ達が、その子のために一緒に泣いたんだよ」
「……」
「その子の両隣に座って、その子の手を握って一緒に泣いてたんだ」
その言葉に、私は息を呑んだ。
「それでね、こう言ったんだ。『きみが泣いてるなら、私も泣くよ。でもね、きみがもう一度立ち上がるなら、私も一緒に立つよ! だって、友達だもん!』って」
『ふたつのステラ』——シリーズの原点にあたる、初代の物語。
私も幼い頃毎週欠かさず見ていたし、今も映像資料として何度も見返す事もある。
女の子の憧れで、輝く一等星だ。
「……それを見た時にさ。うわ、かっこいい……! って思ったんだ。別にステラ達が強いからじゃないんだよ」
彼はそう言って首を振った。
「必殺技がすごいとか、変身がかっこいいとか、そういうのじゃなくて。……誰かのために泣ける人。誰かのために、立ち上がれる人」
カップを見つめながら、彼は言葉を続ける。
「そういう人になりたいって思ったんだ。……本気で」
……その言葉に、私は胸がズキリと痛むのを感じていた。
私だって……あのステラ・シャイニーの言葉がずっと残っている。
私も、ステラになりたい。シャイニーのようにカッコよく、トゥインクルみたいに可愛くなりたいって。
その憧れから、今の道を選んでいる。
つまり……陽向君は……。
「だから俺、ステラごっこがしたかったんだ」
「……ステラごっこ」
「うん。みんながヒーローの変身ポーズやってる横で、俺はステラのポーズがやりたかった」
そう言って彼は、手だけシャイニーのキメポーズを取る。
「ヒーローごっこをやってる時にさ。どさくさ紛れでやっちゃったんだよね。みんなの前で」
「……どうなったの?」
私が尋ねると、彼は肩をすくめた。
「そりゃもう、大爆笑だよ」
「……」
「『ひーくんなにそれ?』『なんで女のやつやってんの』『気持ち悪ー』って。……まあ、悪意があったわけじゃないと思う。子供って、そういうもんだしさ」
その言い方が、あまりにも軽くて。
……だからこそ、彼がその時どれだけ傷ついたのかが、伝わってきてしまった。
「……そっか」
「うん。でもそれで学んだんだ」
彼は紅茶を一口飲んで、寂しげな笑みを浮かべた。
「ああ、これは——外では、やっちゃいけないんだなって」
ふと、店内の音楽が変わった。
クラシック曲の静かなピアノの旋律が二人の間に流れる。
「……それで、諦めちゃったの?」
私が聞くと、陽向君は——首を横に振った。
「ううん。諦めなかった。……ただ、やり方を変えたんだ」
「やり方を……?」
「うん」
彼がまっすぐに私を見た。その視線には、どこか探るような、不安の色が混ざっていた。
「ポーズとか、衣装とか、そういう外側は封印した。……やったら、また笑われるから」
「……うん」
「でもさ。ステラの、かっこいいところって——別に、ポーズじゃないじゃん?」
――その言葉に。私は何かが繋がった気がした。
「だから、決めたんだ。俺がなりきるのは——ステラの中身にしようって」
彼は、そう言って少しだけ照れたように笑った。
「……中身?」
私が聞き返すと、陽向君は頷いた。
「うん。ステラ達ってさ、どんな子だった?」
「……どんな、って」
「いつも笑ってて。誰にでも優しくて。困ってる子がいたら、絶対に放っておけなくて」
指を折りながら、彼は数え上げていく。
「誰かのために泣けて、誰かのために怒れて。どんなに敵にやられたって……最後は必ず、立ち上がる」
「……うん」
「それって、変身しなくてもできることじゃん? 衣装がなくても、必殺技がなくても。……そういう風に生きることは、できるでしょ」
ニッと歯を見せて笑みを浮かべる。その顔はどこまでもまっすぐで、曇り一つなくて……。
「だから、そうしようって決めたんだ。小学校の……確か三年生くらいの時かな。でもさ、それがめちゃくちゃ大変だったんだよね」
「……そうなの?」
「うん。だって俺、もともとそんなに社交的じゃなかったし」
「……えっ!?」
思いがけず大きめな声が出てしまった。
だって……あの陽向君が?
大学中の誰もが知っている、あの陽キャの塊みたいな人が??
「う、嘘でしょ?」
「ほんとほんと。むしろ、けっこう人見知りだった! 知らない子に話しかけるとか無理だったし。目立つのも苦手だったし」
「……信じられない」
「でしょ? まあ、今の俺しか知らないもんね」
くすくすと彼が笑う。
……本当に、想像がつかない。
いつも人の輪の中心にいて、誰とでも自然に話せて。
その彼が、人見知りだった?
「でも、ステラなら——絶対、話しかけるじゃん」
「……あ」
「困ってる子がいたら、放っておかないじゃん。一人でいる子がいたら、隣に行くじゃん」
彼の目が、少しだけ遠くなる。
「だから、一歩踏み出したんだ。……めちゃくちゃ心臓バクバクさせてたけどね。最初はさ、ほんとに大変だったよ」
紅茶をまた一口飲んで、彼は続けた。
「一人でいる子に話しかけるのも、勇気いるし。友達が喧嘩してたら、間に入るのも怖いし」
「……うん」
「でも、そのたびに自分に問いかけるんだ。『ステラ達なら、どうする?』って」
「……」
「そしたら、答えは決まってるんだよ。ステラなら、絶対に見て見ぬふりしないから」
……その言葉に、目の奥がじんわりと熱くなった。
……ああ、そうか。
この人はずっと、そうやって生きてきたんだ。
「で、そういうことを繰り返してるとさ。だんだん、慣れてくるんだよね」
「気付いたら、普通に人に話しかけられるようになってて。気付いたら、友達もいっぱいできてて」
「で、いつの間にか——今の俺になってた」
誰にでも優しくて、いつも笑顔で。
困っている人がいたら、放っておけないお人好し。
あの日、駅で。人混みから守るように、そっと隣に寄ってくれた。
あの日、学食で。落ち込んでいる私に、すぐに気付いてくれた。
……あれは、全部。
(……ステラなんだ)
彼が長い時間をかけて、自分の中に育て上げてきたもの。
「だから、俺にとってステラって、ただ好きな作品ってだけじゃないんだ」
陽向君が、静かにそう言った。
「……なんていうか。……恩人みたいな?」
「……恩人」
「うん。文字通り人生変えてもらったから!」
その言葉に、迷いはなかった。
「あのアニメがなかったら、多分今の俺はいない。……ずっと、教室の隅っこにいたと思う」
……私は、しばらく何も言えなかった。
言葉が出てこなかった。
だって……そんな理由があったなんて思いもしなかったから。
彼のステラへの想いは、単なる趣味じゃなかった。
推し活でも、オタク的な情熱でもなかった。
……生き方そのものだったんだ。
「……重い話、しちゃったかな」
私の沈黙をどう受け取ったのか。陽向君が少し慌てたように言った。
「ごめん、なんか変な話して。忘れて——」
「ううん!!」
私は強く首を振っていた。
「……全然。全然、そんなことない!」
「……そう?」
「うん。……話してくれて、嬉しい」
本当に、心からそう思った。
……誰にも話したことがないという話。
それを……私だけに。
「……でもさ」
ふと、陽向君が苦笑した。
「結局、隠してるんだけどね。ステラのこと」
「……」
「大学でも、みんなの前では言えないし。……昔と、変わってないんだよ、そこは」
その言葉が、少しだけ寂しそうで。
「グッズも見つからないように、こっそり買って。ライブも一人で行って」
「……」
「……まあ、慣れたけどね」
そう言って彼は笑う。
……でも、その笑顔があまりにも寂しそうで。
(……ずっと、一人だったんだ)
誰にも言えないまま。
誰とも分かち合えないまま。
彼は、ずっと——。
「……あ、でも」
その時、彼が顔を上げた。
そして——ぱっと、笑った。
「今は、星野さんがいるから!」
「……っ」
「星野さんの前でだけは、隠さなくていいから。……それが、すごく嬉しいんだ」
キラキラした陽向君からのまっすぐすぎる視線を浴びて、結局私は——何も言えなくなってしまった。
秘密の共有が出来た喜びを露わにすればいいのか、それとも彼に同情する言葉をかけるべきなのか。
だから私は、思った事をちゃんと言えるように、ゆっくりと深呼吸をしてから、彼の目を見た。
「えっとね、これは同情とかじゃないよ?」
「うん?」
「私も、分かる気がするの。ステラに憧れて、ステラみたいになりたいって思う気持ち」
陽向君の目が、少しだけ大きくなる。
「私も昔からステラが好きだったの。シャイニーみたいに強くなりたくて。トゥインクルみたいに誰かを笑顔にできる人になりたくて」
「……星野さん」
「だから、陽向君の話。変だなんて思わない」
言葉を選びながら、私は続ける。
「むしろ……すごく、素敵だと思う」
陽向君は何も言わなかった。
ただ、驚いたように私を見つめて。
それから、少しだけ困ったように笑った。
「……そっか」
「うん」
「話してよかった」
その声は、あまりにも小さかった。
でも、ちゃんと嬉しそうで。私は胸の奥がきゅっと苦しくなった。
「……星野さんはさ、最初から笑わなかったよね」
「え?」
「俺がステラ好きだって知っても、変だって言わなかった。ちゃんと聞いてくれた」
「……びっくりはしたよ?」
「はは……。それは、そっか……」
「うん。でも、変だなんて一度も思わなかった」
「ッ……そ、そっか」
じっと見つめ合っていたせいか、彼の瞳に微かに涙が揺らぐのが分かってしまった。
店の照明を反射して、ゆらゆらと光が揺れている。
「……嬉しいな」
「え、そ……そんな大層な事は言ってない……よ?」
「ううん。俺にとっては、それでもけっこう大きかったみたい」
そう言って彼は涙を誤魔化すように、何度も瞬きをして、指先で軽く目を擦った。
「だから今日、星野さんとこうして普通に歩けて、普通にご飯食べて、普通にステラの話ができて……すごく楽しかった」
「……」
また、胸がズキリと痛む。
陽向君は……自分の一番の秘密を私に打ち明けてくれた。
誰にも言えなかったこと。
笑われるのが怖くて、ずっと胸の奥にしまっていたこと。
それを、私にだけ。
なのに私は。
私にはまだ、彼に言えていない秘密がある。
ステラ・ブレイブの中にいるのが、私だということ。
彼が何度も会いに来てくれたステラが。
彼が涙を浮かべて「ありがとう」と言ってくれたブレイブが。
本当は、目の前に座っている私だということ。
「……星野さん?」
気付けば、私はカップを握ったまま黙り込んでいた。
「……ごめん、無理させちゃったかな」
私は慌てて首を振った。
「違う。そうじゃなくて……!」
言いたい。
そう思った。
今なら、言えるんじゃないかと思った。
私も、隠していることがある。
私も、あなたにちゃんと話したいことがある。
そう言えたら、どれだけ楽になれるだろう。
でも。
彼が大切にしてきたステラの光を。
彼の中でずっと輝いていた憧れを。
私の一言で、曇らせてしまうかもしれない。
「……星野さん?」
「……ううん」
私は小さく笑って、首を横に振った。
「話してくれて、本当にありがとう」
今の私に言えるのは、それだけだった。




