50話
午後になり、更に行き交う人々の増えた歌舞伎町を足早に抜けて、靖国通りを少し歩く。
向かうのは再び新宿三丁目方面。
百貨店のあるあたりまで来ると、歩く人々の雰囲気も空気も、どこか落ち着いたものに変わったような気がした。
「もうすぐだよ」
陽向君がそう言って指差した先には、一階が店舗になっている落ち着いた佇まいの建物があった。
まるでフランスの店を切り取ってきたかのような、素朴な木を基調とした外観に、金色の文字で店名が記されている。
「……また素敵なところに」
「ふっふっふ。ここね、紅茶の専門店なんだ」
「あ、でもこのお店の名前見た事あるかも……?」
「やっぱり? 有名なお店だからね~! ここ、一階で茶葉を売ってて、二階が喫茶になってるんだって」
「へぇ……! 楽しみ……!」
彼が扉を開けて、先にどうぞと微笑みかけてくれる。
会釈しながら先に店内へ一歩足を踏み入れた瞬間、ふわりと豊かな紅茶の香りに包まれる。
「……わぁ」
店内には、無数の紅茶の缶が並んでいる。それに棚には茶葉だけでなく、茶器から小物まで。
息を吸い込む度に、甘い香りや爽やかな香り。深く苦みのある落ち着いた香りなどなど、いくつもの茶葉の匂いが混ざり合って、店内を満たしている。
「……すごい。いい匂い」
陽向君が店員さんに二階の喫茶を希望する旨を伝えると、丁寧に階段へと案内された。
階段を上がった先の喫茶スペースは、一階とはまた違う空気だった。
オシャレな木製のテーブルとイス。壁には異国を思わせるような絵画がかけられており、いつの間にか海外旅行にでも来た気分になれそうなインテリア。
大きな窓からは午後の柔らかい光が差し込んでいて、談笑する他のお客さんを優しく照らしていた。
「二名様、こちらへどうぞ」
案内されたのは、偶然空いていた窓際の席。
向かい合って腰を下ろすと、思わず息を吐いてしまった。
「……落ち着くね、ここ」
「はは、 さっきまでとギャップすごいよね」
「ふふ、確かにね」
あの歌舞伎町の喧騒から、たった数分歩いてきただけなのに、まるで別世界だ。
まもなく運ばれてきたお冷とメニュー表。
ただし、これはメニュー表というより――
「本……?」
「本……だね」
紅茶図鑑のようなメニュー表は、ページをめくってもめくっても、ずらりと紅茶の名前が並んでいる。
産地別、フレーバー別、ブレンド。
その一つ一つに、丁寧な説明が添えられていた。
「これ、全部紅茶なんだ……。いやでも、ウーロン茶とか緑茶とかもあるみたい……?」
「すごいよね。俺も何がなんだか……。あ、アールグレイは分かる!」
二人で真剣にメニューと格闘すること数分間。スマホで調べたオススメメニューも参考にしつつ、結局私はアールグレイ。それも色んな種類がある中の一つを選んだ。
陽向君も何度もページを行き来して、ようやく決めたのはバニラフレーバーの紅茶。
それに加えて、ケーキも一緒に注文する事にした。
ショーケースに並んでいたものの中から、私はモンブランを。陽向君はチョコレートケーキを選んだ。
注文を終えて、私は改めて店内を見回した。
落ち着いた雰囲気の中、お客さんたちも静かに会話をしている。……なんだか、大人の空間だ。
「陽向君、こういうお店よく来るの?」
「まさか! 今日が初めてだよ」
「え、そうなの?」
「うん。……その、調べてて、ここも良さそうだなって思って。友達にオススメ聞いたら、結構冷やかされちゃったんだけどね」
彼が、少し照れたように頬を掻く。
「甘いもの食べるなら、ちゃんとしたところがいいかなって」
……まただ。
ちゃんとしたところ。今日、彼は何度もそう言っている。
(……そんなに、気を遣ってくれてるんだ)
くすりと笑みが零れ、誤魔化すように視線を窓の外へと向けた。
* * *
やがて、紅茶とケーキが運ばれてきた。
銀のポットから店員さんが丁寧にカップへと注いでくれる。
白い湯気と共に、ふわりと甘い香りが立ち上った。
「ん……いい匂い」
一口飲むと、口の中いっぱいに、優しい香りが広がる。
「わ……美味しい! 普段のアールグレイと違う気がする……! 言語化は難しいけど!」
「うわ、こっちも美味しいよ! バニラの香りが最後に抜けて……あぁ、いいなぁ」
紅茶に感動しながら、モンブランへと視線を移していく。
良く見る形とはちょっと異なる巻貝のようなマロンクリームに、メレンゲの土台。
底までフォークを突き立てると、ザクッという手応えと共にメレンゲが割れて崩れる。
溢さないようにそっと一口食べて、思わず目を見開いてしまった。
栗の風味が濃厚で、甘さは上品。クリームにほのかな紅茶の風味も感じて、ストレートで飲む紅茶に良くマッチしている。
……確かにこれは、頭を使った後には最高のご褒美だ。
「はぁ……幸せ」
思わずそう呟くと、陽向君が笑った。
「星野さん、すごくいい顔してる」
「……っ、そ、そうかな?」
「うん! 美味しそうに食べてるのを見てると、こっちも嬉しくなる!」
そう言って彼もチョコレートケーキを頬張り、表情をゆるめて笑みを浮かべた。
窓の外では、冬の日が少しずつ傾き始めている。
静かな音楽と、温かい紅茶。
……不思議と、心がほどけていくような時間だった。
このまま終わらなければいいのに。この時間が、ずっと続けばいいのに。
そんな叶うわけがない我が儘な願いが、私の頬をツンツンとつつくくらいには、楽しかった。
私は……。またこんな時間を彼と、陽向君と過ごしたい。
だからこそ、一つだけずっと気になっていた事を、二人きりの今こそ、彼に聞いてみようと思った。
「……ねえ、陽向君」
「うん? どうしたの星野さん」
「……ずっと、聞いてみたかった事があるの」
私はカップを両手で包みながら、そっと彼の目をまっすぐに見つめて、静かに切り出した。
「陽向君って、どうしてそんなに——ステラのこと、好きなの?」
陽向君は私からの質問に少し目を丸くした。
それから困ったように笑って、手元のカップへ視線を落とした。
「……やっぱり、気になるよね。いつかこれも星野さんに話したいと思ってたんだ」
その声は、さっきよりも、少しだけ静かだった。




