4話
朝。
枕元に置いてあるスマホからけたたましいアラームが鳴り響く。
意識を深い水底から引き揚げ、目を開けぬまま停止ボタンをタップする。
私の一日は、大体いつも同じだ。
朝無理やりに起きて、さっとシャワーを浴びて、髪を一本に結ぶ。
洗面台の鏡に映る自分を確認して、ほんのりと軽くメイクをして頷く。
それだけで準備は終わりだ。
大学の講義が終わった後、稽古場以外にどこかに寄り道する予定も、誰かに見せたい自分も、今のところ特にないから。
「……いただきます」
朝食はサラダチキンとバナナとヨーグルト。
一限の時は固形栄養食で済ます事もあるが、基本はしっかり食べておかないと稽古の時にバテてしまう。
演劇は身体が資本。だから風邪も引けないし、夜更かしだって出来ない。
演技に繋がるからと格闘技も習っているが……。そんな日々を送れば、おちおち遊んでいる暇もない事は、わざわざ言わずとも分かるだろう。
「ごちそうさまでした」
何も考えていないと、あっと言う間に食べ終えてしまう。
良く噛んで食べれば、ちょっぴり物足りない量でも満足できるようになったが、それでもお腹はすぐに空腹を訴えて来る。
(……お昼は学食でしっかり食べよ)
食器を洗って、鞄を肩にかける。
玄関で一度だけ振り返って、部屋を確認する。
「……よし。いってきます」
誰が見送ってくれるわけでもないけど、これは身体に染みついた習慣だから。
しっかりと鍵を閉めて、階段を下りた。
* * *
私の暮らす家は都心からは少し離れた安いマンションの一室。
多少セキュリティが甘いところもあるが……無い袖は振れない。
本当はアルバイトもしなければならないが、夢を応援してくれる両親からの仕送りもあり、何とか今の生活を許されている。
……本当に感謝してもしきれない。
だからこそ、大学まで少し遠かろうが文句を言うつもりはない。
……毎朝、恐ろしいまでの満員電車に揺られるのも、この一年間で随分慣れてしまったから。
駅のホームに着いた時、ちょうど電車が滑り込んでくるところだった。
駆け込み乗車はしない。次の電車で充分間に合う。
次の乗車列に並び、スマホで今日の稽古の段取りを確認する。
「……理子」
低めの声。
顔を上げると、凛が鞄を肩にかけたまま立っていた。
「あ、凛。おはよう」
「おはよ。今日も稽古?」
「うん。大学終わったらそのまま」
「そっか。頑張ってね」
それだけ言って、凛は隣に並んだ。
余計な言葉がない。それが凛との居心地の良さだった。
「理子って今ガワ物やってるんだよね。暑くない?」
「……暑い。めっちゃ暑い」
「だよね。これから夏本番倒れるなよー?」
「……頑張るけど、多分倒れるんじゃないかなぁ~。野外ショーとかは絶対死ぬもん」
カラカラと笑う凛に、私もつい笑みを溢す。
奈央や由美とは違う、友達なんだけど……同業者特有の仲間意識が湧いて、不思議と親近感が沸く。
だからこそ、凛といるのが一番気が楽でいいのかもしれない。
間もなくやってきた次の電車に乗り込む。
朝のラッシュには少し早い時間帯で、今は吊革を掴めばそれなりにゆったり立っていられる。
並んで揺られながら、しばらく二人とも黙っていた。
窓の外を流れていく街並みを眺めながら、私は過去の稽古を頭の中でなぞっていた。踏み込みをもう半歩。あの感覚を、もう一度再現できるだろうか。
「……理子」
「ん」
「最近、動き変わった?」
唐突な問いに、少し驚いて凛を見た。
「美咲さんにも言われた。なんで?」
「なんとなく。サークルの稽古の時、集中の仕方が違う感じがして」
凛は窓の外を見たまま、淡々と言った。
「良い意味でね」
(……そうかな)
「自分ではよくわからないけど」
「そういうもんだよ。変わってる時って、本人が一番気付かないもんさ」
それだけ言って、凛はまたスマホに視線を落とした。
会話はそこで終わりだったけれど、なんとなく悪い気はしなかった。
大学のある最寄り駅で降りて、凛と二人で大学まで並んで歩く。
初夏とは名ばかりで、もう夏本番並みの暑さが漂うコンクリートの道を、多くの人に混ざって歩いていく。
「そうだ、凛。次のサークルの方の稽古スケジュール出たけど、全部出る?」
「うん、役当たってるし一応。思ったより予定詰まってるよね」
「……だよね。まあ、やるしかないか」
「ね、やるしかない。でも理子は本業メインでいいんじゃないの?」
「……ううん。せっかくやらせてもらえるんだもん。どっちも頑張る」
「……そっか。無理すんなよー?」
短い会話を交わしながら歩き続け、キャンパスへと到着する。
出席リーダーへ学生証を翳して教室へと入室すると、先に来ていた奈央が私達へ大きく手を振った。
「理子ー! 凛ー!! こっちこっち!」
しっかり教室の真ん中付近の席を確保してくれたのか、由美と一緒に手を振っている。
「今日も元気だな、あの二人」
凛が小声で呟いた。
「……ほんとに」
私も小声で返して二人して少しだけ笑い、奈央達の待つ席へと向かった。
* * *
午前すべての講義を終えて、四人で学食へ向かう。
今日のランチはしっかりめの日替わり定食。トレーを手に席を探していると、奈央が鞄からスマホを取り出した。
「ねえねえ、昨日の恋愛リアリティ番組見た? もうあの男の人最悪で——」
「ごめん、私見てない」
「理子に同じくー」
「えー! 理子も凛もなんで見てないの!! 今話題なんだよー!?」
「えっと……稽古あったから」
「あたしも」
理由が一致して、凛と顔を見合わせた。
由美だけが「私も見た!」と奈央に同調して、二人で話し始める。
私はそれを横目に、定食の味噌汁を啜った。
賑やかで、穏やかで、何事もないお昼ご飯。
これで充分だ。この日常が好きだ。
(……あ)
ふと騒めきが起こり、視線を学食の入り口付近に送ると、見覚えのある人影があった。
――高坂君だ。
今日も友人数人を連れ立って入ってきた彼が、空いている席を探してぐるりと学食を見渡している。
こちらと目が合った。
一瞬だけ、彼の目がぱっと輝いた。
……だが。
「陽向! あっちあっち! 席空いてるよ!」
友人の声に引っ張られて、彼は視線をこちらから外す。
引き連れられていく背中が、ほんの少しだけ名残惜しそうに見えた。
その姿にどこかリードを引かれ、無理やり家に帰らされる子犬の姿を見た気がした。
(……ヤキモキしてる?)
また話しかけるタイミングを狙っていたんだろう。
でも友人達がいる前では当然無理で、その悔しそうな背中が、なんとなく面白かった。
私はそっと視線を戻して、定食のメインの鮭に箸をつけた。
……次に二人になれる瞬間が来たら、話を聞いてあげよう。
それくらいは、してあげてもいいかな。
* * *
午後の講義を終えて、鞄を肩にかける。
「じゃあ理子、稽古頑張ってね」
「うん。みんなまた明日ね」
奈央・由美・凜と別れて、一人足早にキャンパスを出た。
ひとつ深呼吸をして、意識を切り替える。
大学生の星野理子から、アクターの星野理子へ。
稽古場に着くと、美咲さんがすでにウォームアップを終えていた。
「理子、今日は通し稽古から入ろうか」
「はいっ!」
着替えを済ませて、鏡の前に立つ。
髪を短く結び直して、動きやすいウェアに着替えた自分が映っている。
派手さも華美さも何もない。だがそれでいい。
ここでは見た目より、動きが全てだから。
「じゃあ最初のシーンから」
「はい!」
自身にステラ・ブレイブを降ろして動き始める。
先日美咲さんに指摘された踏み込みを、意識して深くとる。
一回目。重心が安定した。
二回目。回転につながる流れが出てきた。
三回目。
「——そう! それそれ!」
美咲さんの機嫌のよさそうな声が上がる。
動きが決まった時の感覚は、何度経験しても最高に気持ち良い。
息が上がっても、汗が滲んでも、この感覚のために来ていると思えるから。
二時間半の稽古が終わる頃、私はタオルで顔を拭いながら鏡を見た。
息は上がっていて、髪は汗で湿っていて、顔は赤い。
稽古前にメイクも落としているから、どこにも華やかさはない。
でも。
(これが……こうしているのが、やっぱり好き)
鏡の中の自分に向かって、小さく頷いた。
* * *
夜、シャワーを終えてベッドに座りながら、今日一日を静かに振り返っていた。
稽古の感触は悪くなかった。
踏み込みの感覚も、少しずつ自分のものになってきている気がする。
(……変わってる時って、本人が一番気付かないもんさ)
ふと凛の言葉を思い出した。
……そうなのかもしれない。きっと凛に言われなければ、気付いていなかった。
でも私は今、何かが変わっていくのを確かに感じている。
それが何なのか、まだうまく言葉にはできないけれど。
「……明日も稽古、頑張ろ」
ブランケットに包まりながら、目を閉じた。
全身に重くのしかかる疲れに誘われるように、眠気はすぐにやってきた。
それに抗うことなく、眠りの中へと沈んでいく。
明日も、実りのある一日でありますようにと。




