48話
「ね、ねぇ陽向君。今日どこ行くとか話してなかったけど、大丈夫なの?」
人混みを抜けて歩きながら、私は隣の陽向君に尋ねた。
「ふっふっふ。もちろん!」
彼は得意げに胸を張る。
「まずはお昼! ちょっといい感じの老舗の洋食屋さんに行こうと思って!」
「老舗の洋食屋さん……」
……なるほど。
ちょっといい感じの洋食屋さん。
私の頭に浮かんだのは、駅ビルの上の階にありそうな、こぢんまりとした落ち着いたお店だった。
ハンバーグとか、オムライスとか。
少しお高めだけど、大学生でも背伸びすれば手が届く——そんなイメージ。
「楽しみだね」
「でしょ! ちゃんと調べたんだから!」
嬉しそうに笑う彼を横目に、私達は地下の通路を歩いていく。
年末の新宿は、地下通路も相当な人出だった。
地下鉄の改札口から次々と吐き出され、思い思いの方向へと行き交う人の波を避けながら、私達は並んで歩く。
「そういえば、レポート終わったの?」
「もちろん! 昨日の夜、爆速で仕上げたんだ~!」
「本当に爆速だ」
「言ったでしょ? 星野さんに会うために終わらせるって」
あっさりとそう言われて、私は思わず言葉に詰まった。
……この人は。本当にそういうことを、なんの気負いもなく言う……。
「ふふ。ちゃんとした内容になってる?」
「……たぶん?」
「たぶん」
「い、いや大丈夫!! たぶん通る! ……はず」
自信なさげに目を逸らす彼に、私は思わず吹き出してしまった。
「もう、ちゃんとやりなよ」
「うっ……返す言葉もない」
そんなやり取りをしながらも、人の流れに乗ってどんどん通路を進んでいく。
両側には大きな広告がズラリと続き、地上出口の案内看板がデカデカとその存在を主張していた。
「あ、そういえば!」
ふと、陽向君が思い出したように口を開いた。
「星野さん、辛いの平気な人?」
「え? うん、平気だけど」
「ならよかった!」
ぱっと、彼の顔が明るくなる。
……洋食屋さんで、辛いもの?
(……あ、もしかしてカレーとか!)
オムライスやハンバーグと並んで、カレーは洋食屋の定番。
(……なるほど、そういうことか! なら行き先は……!)
私は勝手に納得しながら、彼の後を追った。
人の流れが少しずつ変わって、周囲の雰囲気も変わっていく。
そして、人の流れを横切るように曲がった先にあったのは――
(やっぱり、ここだよね)
日本の洋食史を語る上で外せないような——誰もが名前を知っている、あの老舗の洋食屋の入るビルだった。
「……陽向君」
「ん?」
「……ここ?」
「うん! ここだよ!」
彼は、当たり前のようにそう答える。
……いやいやいや。
待って。
(……ここって、あの)
創業から百年以上。
日本に本格的なインドカリーを持ち込んだと言われる、あまりにも有名なお店。
「え、あの、ここって……その、けっこう」
「あ~……うん。ちょっと高いんだけどね」
陽向君が、少し照れたように頬を掻いた。
「ここのカリーさ、レトルトじゃない本物。一回食べてみたかったんだ! それに……」
そこで彼は一度言葉を切った。
「せっかく星野さんと来るんだし。……ちゃんとしたところがいいなって、思って」
頬を搔きながら、少し視線を泳がせながら呟いたその一言に、私は何も言えなくなってしまった。
(……そんな理由で、このお店を選んでくれたの?)
胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚。
思わず私も視線を逸らし――メニュー表の値段が目に飛び込んで来て、現実が全力で後ろから追いついて来た。
(……か、カレーで2000円……!)
顔に出さないようにポーカーフェイスに努めるが、僅かな表情の強張りを見られていたのか、陽向君がニッと笑みを見せた。
「あ、大丈夫大丈夫! バイト代入ったしここは任せといて!」
「いや、そういうわけには……!」
「いいの! 俺が誘ったんだからさ!」
きっぱりとそう言われて、私は言葉に詰まる。
……この人は、本当に。
「……じゃあ、次は私が出すからね」
「え?」
「次会う時のご飯は、私が出す。それでいい?」
私がそう言うと、陽向君は一瞬きょとんとして。
それから——嬉しそうに笑った。
「……うん! じゃあ、また次の約束の時によろしくね!」
「……あ」
言ってから気付いた。
(……私、今……次会う時って……。まるで次も会いたいって言ってるみたいじゃん……!?)
自分で言ったくせに、急に恥ずかしくなって、顔が熱くなる。
でも彼はそんな私を気にする様子もなく、上機嫌で店の入り口へ向かっていった。
「じゃ、行こっか!」
「……うん!」
私は、まだ火照る頬を隠すように俯きながら、その後を追いかけた。
* * *
階段を降りた先の扉を開けた瞬間、ふわりとスパイスの香りが漂ってきた。
「……わぁ」
思わず声が漏れる。
落ち着いた照明。深い色合いの木のテーブル。
どこか懐かしさを感じさせる内装なのに、きちんと品がある。
年末とはいえ、平日の開店直後だからか、席には余裕があった。
「二名様ですね。こちらへどうぞ」
席に案内され、コートを脱いで向かい合って座る。
「……なんか、緊張するね」
「あはは、俺も」
二人して、少しだけ背筋を伸ばしてしまう。
……こういうお店に、二人共慣れていないのがバレバレだった。
運ばれてきたメニューを開いて、私は思わず唸った。
「……いっぱいある」
カリーだけでも、種類がいくつもある。
海老、野菜、本格的なスパイス系。
他にもボルシチやシチューまで美味しそうな料理の写真がずらりと並び、目移りしてしまう。
「どうしよう。全部美味しそう……」
「わかる。俺も迷ってる」
二人で真剣にメニューとにらめっこをする。
「星野さんはどういうのが好き?」
「んー……。何だかんだでシンプルなのがいいかなぁ」
「あーね! シンプルイズベストってよく言うもんね!」
しばらく悩んで、結局私が指差したのは、メニューの一番上。
「……やっぱり初めて来たなら、看板メニューかなって」
このお店の名前を全国に知らしめた、あの一皿。
骨付きチキンの、純印度式カリー。
「俺も! それにしようと思ってたんだ!」
陽向君がぱっと顔を輝かせる。
「やっぱり最初は王道でしょ!」
「うん。そう思って」
二人で顔を見合わせて、笑い合う。
……こういうところの意見が合うのは、なんだか嬉しい。
「すみませーん! 注文いいですか!」
彼が手を上げて、店員さんを呼ぶ。
「純印度式カリー、二つでお願いします!」
注文を終えて、少し手持ち無沙汰になる。
水の入ったグラスを手に取りながら、私は改めて店内を見回した。
壁には、この店の歴史を感じさせる写真や資料が飾られている。
「……ほんとに、歴史あるお店なんだね」
「そうそう! 百年以上前からあるんだって!」
「百年」
「凄いよねぇ~……俺達が生まれる前からあるお店が、今もこうして残ってるって。何かロマンあるよね」
彼が目を輝かせて語り始める。
どうやらこのお店の歴史まで、しっかりと調べてきたらしい。
「創業した人が、インドから来た人を匿ったのがきっかけで、本場のレシピを教わったんだって」
「へえ……!」
「日本のカレーって、もともとイギリス経由のやつだったから。本場のインドカリーを出したのは、ここが最初らしいよ」
「詳しいね」
「昨日、寝る前に調べた」
「……レポートの後に?」
「うん!」
(陽向君……元気なのか、無理してるのか。ちょっと心配になっちゃうな)
わざわざ調べてきてくれた事は嬉しかったが、同時に陽向君が心配にもなってしまい、浮かべる笑みは苦笑交じりになってしまった。
やがて、料理が運ばれてきた。
「お待たせいたしました。純印度式カリーでございます」
目の前に置かれた、その一皿。
「……わ」
琥珀色に輝くカリーの中に、堂々と鎮座する骨付きチキン。
付け合わせには、色とりどりの薬味が並んでいる。
そして——立ち上る強烈なスパイスの香り。
食べる前から、香りだけで心が遥かなるインドへ飛んでいったみたいだった。
これまで食べてきた欧風のカレーとは、明らかに違う。
「うわぁ……! やばい、匂いだけで美味しい!」
「ほんとだね……! 美味しそう……!」
二人して、しばらく皿を見つめてしまう。
「……いただきます」
「いただきます!」
静かに手を合わせてから、私達はスプーンを手に取った。
魔法のランプのような入れ物からカレーを掬い、ライスに少しだけかけて、まずはそのまま一口。
「……っ!」
複雑なスパイスの香りが、爆発するように口いっぱいに広がった。
遅れてやってくる辛さ。でも、ただ辛いだけじゃない。
いくつもの香辛料が重なり合って、深い旨味を作り出している。
喉を通った後も、余韻がずっと残る。
「……美味しい」
気が付けば、私は思わずそう呟いていた。
「だよね! やばいよね!!」
向かいで、陽向君も目を丸くしている。
「なんか、想像してたのと全然違う!」
「うん。……こういうの、初めて食べたかも」
もう一口、口に運ぶ。
……美味しい。
辛さで額に汗が滲むけれど、手が止まらない。
「あ、この骨付きチキン、めちゃくちゃ柔らかい!」
「ほんと?」
「うん! 骨からするって取れるけど、気を付けてね?」
「うん、ありがとう」
言われた通りにチキンにスプーンを入れると、本当にほろりと抵抗なく骨から肉が外れてスプーンの上に転がる。
「……すごい」
ほろほろの肉を、カリーと一緒に頬張る。
うん……美味しい。これは確かに二千円の価値がある。
夢中で食べ進めながら、時々顔を上げて陽向君の顔を伺ってみる。
彼も汗をかきながら、時々水を飲みながら、それでも手を止めずに夢中で食べている。
……その姿が、なんだか可愛くって。
「ふふ」
「え、なに?」
「ううん。……なんでもない」
「えぇ、気になるじゃん!」
「ふふ、内緒」
こんな風に美味しいものを、一緒に食べて。
同じものに感動して、笑い合って。
この時間が、たまらなく幸せだった。
(……ああ、そっか)
ふと、思う。
私は本当に……。この人のことが好きなんだなって。
スパイスの熱さのせいだけじゃなく、頬がじわりと熱くなった。




