32話
舞台の左右。それぞれに設置された大道具のY階段の上に、スポットライトに照らされながらゆっくりと登場する。
ドレスを纏ったベルと、正装した野獣。
サービスの為に最初の数秒間は観客席側へと微笑みながら視線を送り、観客からは思わずため息が漏れてしまったような、静かな騒めきの波が寄せては返していく。
私達はゆっくりと一段、また一段と階段を降りていく。
ゆったりした優雅なワルツのBGMがホールに満ち、ロマンチックな暖色系のライトが舞台を照らし出す。
そして——階段の交わる踊り場で、野獣と向かい合った。
野獣がうやうやしく一礼し、エスコートするように差し出してきた手を、そっと取る。
ダンスをする為に身を寄せ合った――その時だった。
「……綺麗だよ、理子」
不意に、マイクには決して拾われないように……凛が私の耳元で囁いた。
(……えっ?)
『ベル』ではなく、『理子』と凛は呼んだ。
思わず驚いて目を瞬かせてしまう。
……でもすぐに、私は自然と微笑んでいた。
凛のその言葉が、あんまりにも優しくて。
おかしくって……。
「……ありがと、凛も素敵だよ」
同じくらい小さな声で。
マイクに乗らないように、そっと礼を返す。
きゅっと握る手の力が強まり、凛の野獣メイクの奥から覗く瞳が、ほんの少しだけ揺らいだ気がした。
凛は……土壇場の本番ですら、こういう心遣いができる人なんだ。
ベルを一番美しく見せようと、相手役の私にそっと魔法をかけてくれる。
(……本当に凛は、素敵な役者だよ。……敵わないなぁ)
そんな考え事をしながらも、優しい笑みを湛える野獣と舞台の中央へと進んでいく。
その途中。
ふと——客席の方に視線が流れた。
最前列の席で奈央と由美が、うっとりした顔でこちらを見ている。
そして、その少し後ろ――高坂君はというと。
(……あれ?)
彼の様子がいつもと違った。
ぽかん……と口を半分開けて。
完全に呆けたような顔で私をじっと見ている。
いつもの爽やかな余裕のある高坂君の顔じゃない。
まるで、時間が止まったみたいに固まっていた。
(……なに、その顔……!)
あんまりにも、間の抜けた表情で。
あんまりにも、無防備で。
目が合って……つい、笑ってしまった。
ベルとしての、微笑みじゃない。
思わずこぼれてしまった——素の、笑み。
高坂君がビクッと肩を跳ねさせた。
そして、みるみるうちに、顔を——真っ赤に、染めて。
慌てたように、視線を、逸らす。
(……ふふ、なにあれ)
いつも余裕ぶってる彼のあんな顔、初めて見た。
なんだか、おかしくて。
……ほんの少しだけ、くすぐったくて。
キュッ……と繋いだままの野獣の手に力が篭る。
野獣は何も言わないが、目がどこかギラギラしていた。
(……ごめんごめん)
私は湧き上がる笑みを、そっとベルの微笑みに変える。
そして視線を野獣だけへ見つめ、二人だけの舞踏会を始めた。
衣装なしでも完璧に息の合っていた私達のダンスは、大勢の視線を注がれていても、熱い熱を帯びるスポットライトに照らされていても、崩れる事はなかった。
* * *
――幸せな時間は長くは続かなかった。
舞台は暗転し、物語は一気に終幕へと向かう。
一度化粧を落として、再び村娘のベルの顔と衣装に変えている間。
ナレーターによって場面変換の説明が語られる。
ベルの帰りを待つ父の危機を受け、城を出ることを決意するベル。
引き止めようとして——しかし、彼女の幸せを願って送り出す野獣。
二人の間に芽生えた想いが、すれ違い、引き裂かれていく。
そして——村人達が武器や農具を掲げて城へと押し寄せるシーンへと移り変わっていく。
「「化け物を、討ち取れーっ! 野獣を殺せーっ!!」」
狂気に駆られた村人達と、家具の姿をした召使の激しい攻防戦。
扇動する狩人がその狂乱した戦場を潜り抜け、野獣の場所へとやってきた。
「ベルはオレの物だ!! 野獣風情にくれてやる女じゃない!!」
「ウオォォォッ!!!」
舞台の上で野獣と狩人の殺陣が繰り広げられる。
舞台を大きく使った、爪とナイフの攻防戦。
ベルが見守る中、高台に駆けあがった高所での攻防戦で、ついに狩人が体勢を崩して命乞いをした。
「わ、分かった!! 諦める……! もうあの女なんてどうだっていい!! だから命だけは……!」
「……失せろ。二度と現れるな……!」
低く唸るような声で狩人を威圧し、その爪で彼を引き裂く事なく、背を向けた。
ほっとしたような表情を浮かべ、力を抜き私の元へと歩み寄ろうとする野獣の背へ――不意を突いた狩人がナイフを突き立てた。
「グオォォッ!!」
野獣が狩人を振り払うと、高台から舞台裏側へと狩人が落下して姿を消した。
「ああっ……!! 何てこと……!」
よろよろと数歩進むも力尽き、崩れ落ちる野獣。
その姿に、客席から悲鳴のような声が上がった。
私は倒れた野獣の元へと駆け寄り、傍らに膝をついてその身に縋りつく。
「——っ、いやっ……!しっかりして……! お願い、目を開けて……!」
ぐったりと力を失った、野獣の身体。
その頭をそっと抱き寄せる。
一本のスポットライト以外の舞台照明が落とされ、暗闇の中——私と野獣だけが浮かび上がる。
客席からの固唾を飲むようなたくさんの視線が私達へ注がれている。
……でも、今。
私の世界には、私の目の前に倒れ伏すこの人しかいなかった。
三日間、ずっと向かい合ってきた凛の野獣。
その野獣の命が今、私の腕の中で……消えていこうとしている。
……胸が締めつけられる。
これは、演技だ。お芝居だ。……そんな事は分かっている。
それでもこの胸に込み上げてくる切なさは、まぎれもなく本物だった。
「お願い、私を置いていかないで……!」
声が震え、涙が頬を伝う。
ベルの——いや、私の心のままに。
「愛しているわ……!」
その言葉を囁き、客席から見えぬ様に野獣の顔を自分の身体で隠した。
――私達を照らすスポットライトも細く薄くなるように消えていく。
その瞬間に凛は野獣の特殊メイクのマスクを脱ぎ捨て、舞台裏へと放り投げる。
マスクの下には、人間の姿に戻った野獣——アダム王子のメイクをした凛の顔がある。
呪いが、解けた。
スポットライトと照明が眩く私達を照らし、劇的な音楽と共にアダム王子がゆっくりと身体を起こす。
「……ベル。僕だよ……!」
人間の姿に戻った——アダム王子。
その声に、私はゆっくりと顔を上げる。
目の前にいるのは、見知らぬ青年。
でも——。
「……あなた、なの?」
その瞳。
そのまなざし。
荒々しくて、孤独で。でも優しかったあの野獣の面影が、確かにそこにあった。
「……そうだ。僕だ、ベル」
王子がそっと私の頬に手を添える。
……間違いない。
この人が、あの野獣だ。
私が心を通わせ、そして——愛したあの人だ。
「……よかった……! 本当に、よかった……!」
込み上げる想いのままに、私は王子にすがりつく。
客席は静まり返っている。
誰もがこの瞬間を見守っている。
そして——物語はクライマックスへ。
愛を確かめ合う、二人の口づけのシーン。
台本では、ここも「フリ」だ。
顔を寄せ合い、客席からはキスをしているように見せる。
でも、実際には唇も頬も触れさせない——寸止めの演技。
私は王子の——凛の顔に、そっと手を添え、自分の顔を近付けていく。
ゆっくりと目を閉じて、いつもの練習通りにキスするフリをしようとした。
「……ッ!?」
頬にやわらかい感触と、チュッと軽いリップ音。
――凛の唇が私の頬に触れていた。
フリじゃない。
凛は本当に、私の頬に口づけをしていた。
思わず驚いて目を開けると、すぐ目の前に凛の顔があった。
王子のメイクをした、驚くほど美しく、麗しい素顔の凛。
その瞳が、まっすぐに私を見つめていた。
いつもの飄々とした凛じゃない。
何か——熱を帯びたような。切なく痛みの混ざる、そんなまなざしで。
……ダンスの時に見た、あの揺らぎ。
それが今はっきりと熱を持って、私を射抜いていた。
(……凛?)
……凛の唇が離れ、至近距離で互いの肩と腰に腕を回したまま見つめ合う。
その瞳の奥にある、複雑な感情の色が何かを問いかけようとした——その時。
舞台の照明が一斉に眩く弾けた。
祝福の音楽が高らかに鳴り響き、城にかけられた呪いがすべて解けていく。
家具にされていた、召使い役も人間の姿となって舞台へ駈け込んで来て、喜びの言葉のセリフを上げながら舞い踊る。
舞台の上が歓喜と祝福に包まれて――ゆっくりと緞帳が降りて行く。
そして——。
「「「わあぁぁぁぁーっ!!!」」」
割れんばかりの拍手と歓声がホール全体を、揺らした。
……その大歓声に、私の抱いた小さな疑問はあっけなくかき消されてしまった。
凛が——いや、アダム王子が私の手を取って立ち上がる。
「ベル、行くよ」
「う、うん」
そのまま二人で高台から降りて、出演者の他部員達と共に横一列になってカーテンコールに応える配置につく。
緞帳の向こう側では鳴り止まぬ拍手が続いている。
その拍手に応えるように、今一度緞帳が上がっていき、歓声と拍手がまた一段と大きくなった。
微笑みを浮かべながら客席を見回すと、スタンディングオベーションをしてくれているお客さんの姿も見えた。
その中に、最前列で顔をぐしゃぐしゃにした奈央と由美の姿と、満足気に頷きながら大きな拍手を送ってくれている美月先輩の姿。
そして、感動に目を潤ませ、ぼろぼろに泣いている高坂君の顔も見えた。
(……さっきのは、なんだったんだろう)
頬にまだ残っている、やわらかなキスの感触。
そして、至近距離で見た凛のあのまなざし。
……多分、凛のアドリブだ。
舞台を最高に感動的に締めくくる為の、凛なりのアイデアだったんだろう。
そう思うことにした。
だって——それ以外の理由なんて私には思いつかなかったから。
……違う。
本当は、思いつく前に考えるのをやめたのかもしれない。
私はベルとして微笑んで、凛と——アダム王子と手を取り合い、客席に向かって深く深く礼をした。
こうして私達の『美女と野獣』は、大盛況の下に幕を下ろしたのだった。




