31話
——開演5分前。
客席は満席だと、誘導係の部員が嬉しさ半分驚き半分の様子で伝えてくれた。
ホールはざわざわと会話をする人の喧騒に包まれ、開演の時を今か今かと待ち受けている。
緞帳の降りた舞台では、部長が各所の指差しによる最終確認を終え、足早に舞台袖へと戻って来る。
「OK! 完璧だった!」
部長が裏方担当の部員達へサムズアップして問題ない事を伝え、無線係が音響室の部員へと準備完了の連絡を入れる。
舞台袖で出番を待つ私は、厚い緞帳の向こう側にいる沢山の人の事を思う。
あの人混みの中に、奈央も、由美も、美月先輩も。そして——高坂君も、いる。
自然と心臓が、早鐘のように鳴っていた。
何度舞台に立っていても、慣れる事はない。
果たして……いつか慣れる日がくるのだろうか。
(大丈夫大丈夫。私なら出来る)
もう何度も自分に言い聞かせた言葉を、もう一度飲み込む。
やがて——開幕を知らせるブザーが鳴り響き、ホールの照明がゆっくりと落ちていく。
ブザーが鳴り終わる頃には、客席はシン……と静まり返り、誰かの咳払いだけが妙に響いていた。
そして――神秘的な音楽と共に、物語の幕が上がった。
誰もいない舞台の暗幕にプロジェクターで映し出すのは、事前に撮っておいたシルエットの王子と魔女のやり取り。
ナレーターが語り部として、遠い昔の物語を紡ぐ。
傲慢な王子が魔女の呪いで醜い野獣の姿に変えられてしまったというプロローグ。
そして場面は暗転し――賑やかで平和な村の朝へと舞台が切り替わった。
パン屋や郵便配達員、村娘達が歌って踊り、いつも通りの穏やかな朝を演出する。
……いよいよ、私の出番だ。
すぅ、と息を吸って。
私はベルとして、舞台へ踏み出した。
「おはよう! 今日もいい天気ね!」
最初の一歩。最初の一声。
照明の眩しさと、無数の視線とカメラが一斉に私に降り注ぐ。
……でも、不思議と震えはなかった。
僅か三日間という期間で必死に積み上げた練習の土台。
何とかなれと一丸となって準備にあたってくれた部員のみんな。
そして、ずっと支え、励まし練習に付き合ってくれた凛。
その全部が、今私の背中を優しく押してくれている。
私は本を片手に村を軽やかに歩く。少しだけ夢見がちで、でも芯の強い村娘ベル。
台詞を紡ぎ、村人達と言葉を交わし、そして歌う。
最初の歌のシーン。
……ここが、一番不安だった場所だ。
(でも――!)
美月先輩の心のこもった歌のように。
ただ——ベルの気持ちだけを、声に乗せる。
この小さな村での、退屈な日常。
でも、心の奥ではもっと大きな世界を、夢見ている。
そんなベルの、憧れと寂しさを。
歌いながら客席に視線を巡らせた時に、前の方の席に見知った顔を見つけてしまっていた。
奈央と、由美。
二人共目を輝かせて、私を見つめている。
そして、その少し後ろに……高坂君がいた。
(……あ)
彼は食い入るように、舞台を——私を見ている。
いつものステラのショーを見る時と、同じ目で。
あの、まっすぐな……キラキラした目で。
一瞬ドキッと心臓が跳ねる。
でも——私はすぐに視線を戻した。
(……今の私は、ベルだもの)
高坂君が見ているのは、星野理子じゃない。
舞台の上の『ベル』だ。
だったら——最高のベルを見せるだけ。
彼にも。客席の、すべての人にも。
「ッ……!」
歌い終え、照明が暗転した瞬間——。
客席からあたたかい拍手が起こった。
本番でも、結局完璧じゃない。上手くもなかった……と思う。
でも、私の歌は——ベルの想いは、ちゃんと客席に届いたんだと、その手応えに胸が熱くなった。
* * *
物語はその後も順調に進んでいく。
ベルの父親が森で道に迷い、恐ろしい野獣の城へと迷い込んでしまう。
囚われた父を救う為、ベルはたった一人、その城へと向かう。
そして——父の身代わりとして、自らが城に残る事を選ぶのだ。
「私が代わりに残ります! だから、父を——お願い、逃がしてちょうだい!」
その台詞を、私は闇の中に身を潜めたままの野獣へと投げかける。
その言葉を受けて、舞台の高い場所。闇の中からゆっくりと姿を現す野獣——。
特殊メイクと衣装に包まれたその威圧的なシルエットに、客席から思わずどよめきが起こる。
「……いいだろう。だが、お前は二度とここから出ることは許さぬ。良いな?」
凛の低い声が、ホールにずしりと響く。
その迫力に、どよめいていた客が息を呑み、沈黙に変わっていくのが分かった。
(凛……凄い! たった一言で、場を制した……!)
孤独で、荒々しくて。しかしその奥に深い寂しさを抱えた悲しき野獣。
私はその野獣と対峙する。
怯えながらも、決して心を折らずに。
物語が進むにつれ、ベルと野獣は少しずつお互いの背を目で追うようになっていった。
最初は反発し合っていた二人が、衝突を繰り返しながらも、互いの本当の姿を知っていく。
野獣が一歩心を開けば、ベルがそれに応える。
ベルが優しさを差し出せば、野獣が戸惑いながらもそれを受け取る。
二人の足跡が、少しずつ交わっていく。
遠かった二人の距離が、少しずつ近付いていく。
――客席が静まり返っている。
しかしそれは冷めているからではない。
誰もが、物語の中に引き込まれている。
そして——最初は即興で演じた、あのシーン。
狼の群れからベルを守った野獣を、優しく手当てする彼女が、彼の本質に気付く場面。
「……あなたは、本当は優しい人なのね」
三日前、即興で交わしたあの台詞。
でも今はもう、即興じゃない。
ベルとして心から。目の前の不器用な野獣にその言葉を贈る。
野獣が戸惑ったように息を呑んだ。
「……なぜ、そう思う」
低く掠れたような野獣の声。
その声には、確かな揺らぎが滲んでいた。
怖いだけだった野獣が、今は少しだけ……寂しそうに見えたから。
私は微笑み、答えを返す。
二人の視線が絡み合い、自然と手を握り合う。
ベルと野獣の心がようやく交わった瞬間だった。
静かで優しいBGMと共に舞台が暗転し、背景の大道具の切り替えが行われる。
この次のシーンは――二人だけの舞踏会。
家具に変えられた召使い達がその準備に奔走するシーンを挟んでいる間に、急ぎ足で奥へ引っ込んだ私は、三人がかりでドレスへの着替えとプリンセスの為のメイクを施していく。
美月先輩のサイズから私のサイズへ変更されたドレスは、締まる所は締まり、それでも息苦しいとまではいかぬ絶妙な調整が成されており、裁縫技術の高さを肌で感じさせられた。
またメイクを担当してくれる後輩部員は、迷いのない手付きで村娘だったベルをプリンセスへと昇華させていく。
普段プライベートでは塗らないような濃い目のルージュで、唇には赤い薔薇が咲いたような色気と艶が。
目元もしっかりとマスカラやシャドウで彩り、パッチリとした星が零れるような瞳に。
「ふぅ……完成です! 綺麗ですよ! 星野先輩!」
「っ……ありがとう。……前も見た時思ったけど、何だか自分じゃないみたい」
……本当に、そう思う。
普段ならここまでは絶対にしない化粧に、美しいサフラン色に彩られたカラードレス。
耳で輝くイヤリングやネックレスに飾られた鏡の中の自分は、不安そうな顔をした知らない誰かに思えて仕方なかった。
「大丈夫です! とっても素敵ですから!! もっと自信持ってくださいよ、ベルさん!」
ニッと笑う後輩にぎこちない微笑みで応え、服装の最後のチェックを終えた私は、次の出番——野獣との二人きりの舞踏会へと向かう為に、舞台裏からゆっくりと階段を登った。




