29話
急遽代役が決まった、その日の夕方から。
私の怒涛の三日間が始まった。
まず取りかかったのは、台詞だ。
ストーリーは頭に入っている。
ベルの台詞も、稽古を見てきたからおぼろげには覚えている。
でも、『おぼろげ』じゃ、舞台には立てない。
一言一句、身体に叩き込まないと。
その言葉を言うのは、私であって私ではないのだから。
その晩、家に帰ってからも私は台本を片手に何度も何度も台詞をさらった。
……でも、一つ壁が立ちふさがる。
「……っ、だめだ。ここ……歌だ」
ベルには歌のシーンがいくつもある。
台詞はなんとかなる。でも——歌は。
スーツアクターの仕事に、歌はない。
声を出さない私には、一番縁遠い領域だった。
* * *
翌日。
私は目覚めて支度を終えると、すぐに家を飛び出し、大学へ向かった。
電車を降りて大学に向かって歩いている間に凛からのメッセージが届く。
彼女もまもなく大学の最寄り駅につくらしい。
道中のコンビニで自分と凛の分のスポドリを購入し、練習場所の空き教室へとやってくる。
まだ誰もいない教室はいつもより広く感じ、ちょっぴり埃っぽい空気を吸い込んでから空調の電源を入れた。
準備体操で身体を伸ばし、発声練習を済ませたあたりで教室のドアが開かれた。
「ごめん理子っ! 遅くなった!」
朝方でも、夏の日差しは厳しい。
荒い息を吐きながら、火照った身体を冷やすように胸元を扇ぐ凛。
(走ってきてくれたんだ……)
きっとそうだろうと、スポドリを買っておいてよかった。
「おはよ、凛。朝からありがと」
スポドリのペットボトルを渡すと、凛は感謝の会釈の後、一気に中身を半分飲み干した。
「ふぅ……生き返ったよ。ありがと、理子」
「ううん、こちらこそ」
凛が落ち着くのを待ちながら、台本を繰る。
「台詞……どう?」
「台詞はなんとか。……でも、歌がね」
「だと思った」
凛も鞄から取り出した台本をめくりながら、淡々と言った。
「歌は私も専門じゃない。だから、音楽科の子に頼んで、後で見てもらえるようにしてあるよ」
「……え、もう?」
「昨日のうちにね。理子、絶対そこで詰まると思ったから」
……さすが、凛だ。
私が壁にぶつかる場所を先回りして、潰してくれている。
「とりあえず、今は台詞と動きを固めよう。歌は、その後でね」
「うん。……よろしくお願いします!」
こうして、凛との特訓が始まった。
凛は、野獣として、付きっきりで私に付き合ってくれた。
ただ台詞を合わせるだけじゃない。
「理子、そこはもう少し前に出ていい。野獣を恐れてるけど、芯は強い子だから」
「……こう?」
「うん。それと目線。さっきの劇団の話じゃないけど、目で語って」
私が凛にしたアドバイスを、今度は凛が私に返してくれる。
演者として、対等に。
時に厳しく、時に的確に。
「理子ならできる。私がそう言ったんだから」
凛のその一言が、何度も私を支えてくれた。
* * *
途中、講義で中断しつつも、空いている時間は稽古稽古稽古。
講義中ですら台本をノートの隣に置き、脳内で動きをシミュレーションする。
実際に身体を動かすに越した事はないが、何もしないよりはマシなのだ。
夕方、休憩中にスマホが鳴った。
美月先輩からのメッセージだった。
『理子ちゃん、代役引き受けてくれたって聞いたよ。ありがとう。本当にごめんね、迷惑かけて』
『私のベル、好きにアレンジしていいからね。理子ちゃんのベルを、作って』
その言葉に、じわ……と胸が熱くなる。
怪我をして、一番悔しいのは、美月先輩のはずなのに。
それでも私に恨み言をいう所か、背中を押してくれている。
『ありがとうございます。先輩のベル、しっかり受け継ぎます。……でも、私らしいベルも、ちゃんと作りますね』
『うん。楽しみにしてる。……怪我には気をつけてね』
最後の一言を胸に刻み、もう一度しっかりと柔軟をしてから稽古を再開する。
……先輩のためにも。みんなのためにも。
絶対に、成功させるんだ。
その後も、凛と二人で遅くまで練習を続けた。
途中衣装のサイズ変更の打ち合わせも急ピッチで進められ、気が付けば日が長いはずの夏空も、すっかり暗くなっていた。
「理子、今日はもう遅いよ。明日は一日使えるし、そろそろ……」
「あと一回。あと一回だけ、通させて」
「……理子は、ほんと、無理するなぁ」
凛が、呆れたように、でもどこか嬉しそうに笑う。
「わかった。じゃあ最後にもう一回だけ。付き合うよ」
「……ありがとう、凛」
二人で最後の通しを始める。
ベルと、野獣。
向かい合って、本番同様に台詞を交わす。
……不思議だった。
あんなに焦っていたのに、凛と芝居をしていると、少しずつベルが私の中に降りてくる。
凛の野獣が、私のベルを引き出してくれる。
「……理子」
通しが終わり、二本目のスポドリを空にした時、凛が口を開いた。
「ん?」
「やっぱり、理子と芝居するの、好きだよ」
その言葉を飲み込んで、無意識のうちに笑みが浮かぶ。
「……私も。凛と演技すると、やりやすいかも」
私が笑って返すと、凛は何か言いたそうな顔をするも、すぐにいつもの微笑みに戻った。
「……うん。明日も頑張ろうね」
「うん!」
その横顔が、少しだけ寂しそうに見えたのは——きっと二人共疲れているからだと、ぼんやりと思った。
* * *
翌朝、私と凛は大学が開くと同時に稽古場の空き教室へと飛び込んでいた。
いよいよ明日を本番に控える今日は、学園祭準備日として、講義は全て休講。
それぞれの部活やサークルでの出し物がある生徒が、自発的に準備を行う為に設定された日だ。
無論、私達の演劇サークルも、サークル棟にある大ホールへの大道具小道具の搬入や機材チェックを行う。
……そして、午後にはゲネリハが待っている。
それまでに、最後の調整を行わなければならない。
私達の焦りを嘲笑うように。時間は刻一刻と過ぎていく。
だからこそ、一分一秒たりとも無駄にする気はなかった。
まずは、最大の難関——歌だ。
約束通り、凛がアポを取ってくれた音楽科の外部生の女の子——七森さんが朝から付き合ってくれた。
役者として発声の基礎はある。音程だって、そう外さない。
人並みには歌える。そう自負していた。
……でも。
「……うーん。悪くは、ないんですけど」
七森さんが首を傾げながら、歯切れ悪く呟く。
自分でも分かっていた。
確かに卒なくは……歌えている。でも、それだけだ。
ベルの歌は、聴かせる歌。観客の心を掴まなきゃいけない。
なのに、私の歌は——無難にまとまっているだけ。
何かが、決定的に……足りない。
「……っ、もう一回、お願いします」
何度も繰り返す。
音程を整えて、リズムを合わせて。
でも、整えれば整えるほど、歌がこぢんまりと萎んでいく気がした。
(……だめだ。こんなんじゃ……!)
焦りと喉への負担だけが積もっていく。
悶々とする心を抱えながらも、喉を労わる為にハチミツ飴を舐めて小休憩を取る。
そんな私の隣に、凛がそっと立った。
「理子。上手く歌おうとしすぎ」
「……え?」
「音程とかリズムとか、そんなのはもう出来てるよ。テクニックとかになると……その道のプロには負けるけど」
「……悔しいなぁ」
「はは、理子はストイックだからね。……でも今回求められているのは、プロの声楽家や歌手じゃない」
凛がスマホを操作し、一本の動画を流し始める。
画面の中に映っているのは――美月先輩のベルが歌うシーンだ。
私も録画させてもらった、先輩の練習風景。このベルを目指して……練習してきたつもりだった。
美月先輩の歌は透き通るような高音と、優しい声色がプリンセスらしさをより引き出している。
正確な音程だけではなく、聞いているだけで『ベル』がウキウキしているのを感じ取れる、心が籠もっていた。
「ベルがその歌にどんな気持ちを込めてるか。それを感じ取って乗せればいい。……整えるんじゃなくて、心で歌うんだ」
その言葉がじんわりと脳に染み込み、溶けていく。
……そうだ。
私が今までやってきたのは、何だ? 美月先輩になろうと、ベルの歌ではなく、先輩の歌を目指していた。
スーツの中で、顔も声も封じて。それでも、身体一つで——感情を、想いを、伝えてきたんじゃないか。
歌だって、同じだ。
綺麗に歌う事だけが、目的じゃない。
ベルの心を届けることが——目的なんだ。
「……もう一回、お願いします」
もう一度、大きく息を吸う。
今度は、整えようなんて思わない。
ただ——ベルの気持ちだけを、声に乗せる。
野獣を想う、その切なさと、優しさを。
歌い終えると、七森さんが目を見開き軽く拍手を送ってくれた。
「……すごい。とっても感情が籠ってました! 今の感じで後何個か直せば……いけますよっ!!」
「本当ですか……!?」
黙って聞いていた凛が、ふっ……と笑った。
「うん。今のは——ちゃんと、ベルの歌だった」
凛からの最高の誉め言葉に、私もニッと笑顔で返した。
* * *
午前中の特訓を終え、午後はいよいよ、本番の舞台でのゲネリハ。
サークル棟の大ホール。
照明が組まれ、大道具が並ぶ本物の舞台。
美月先輩から引き継いで、急ピッチで直した衣装に初めて袖を通す。
鏡の前に立つと——そこには、ドレスを纏った「ベル」がいた。
星野理子でも、村娘Bでもない。
物語の中心に立つ、ヒロイン。
(……やるんだ。私が……この物語のベルを!)
ぎゅっと固く拳を握り締める。
怖くないと言えば、嘘になる。
でも、それ以上に——この衣装を着られることが、この舞台に立てることが、嬉しかった。
「——じゃあ、ゲネ、頭からいきます!」
部長の声がホールに響き、数秒後に照明が落ち、音楽が流れ始める。
そして——物語が、動き出した。
王子アダムが野獣へと変えられてしまった過去。
そして――賑やかで平和な村のワンシーン。
ここから、私はベルとして舞台に立つ。
台詞を紡ぎ、歌を歌い、踊る。
付け焼き刃なのは、自分が一番わかっている。
所々、ぎこちなさも残っている。
でも——凛の野獣と向き合うと、不思議と身体が動いた。
この三日間、二人で何度も繰り返してきた芝居。
凛の低い声が、私のベルを引き出してくれる。
「……あなたは、本当は優しい人なのね」
あの日、即興で交わした台詞。
でも今はベルとして、心からその言葉を野獣に贈る。
凛の野獣が、はっと、息を呑む。
……二人の芝居が、噛み合っていく。
ホールの空気が物語の中に引き込まれていくのがわかった。
* * *
ゲネリハが終わる。
最後の台詞を言い終えて、私は深く息をついた。
……完璧じゃ、ない。
反省点は山ほどある。
「……っ、すごいよ! 星野さん!」
「たった三日で、ここまで……!」
部員達が口々に感嘆の声を上げた。
「美月先輩のベルとは違うけど……星野さんのベル、凄くいい……!」
部長が感極まったように、私の肩を叩いた。
「星野さん……ありがとう。これならいける!! 明日、絶対成功させよう!」
「……はいっ!」
ホールに希望が満ちていく。
中止寸前まで追い込まれた、私達の『美女と野獣』が。
明日、ついに幕を開ける。
片付けを終え、ホールを出る頃には、外はすっかり夜になっていた。
「理子、お疲れ様。……ほんと、すごかったよ」
隣を歩く凛が、しみじみと言った。
「ううん、凛のおかげだよ。凛がいなかったら絶対無理だった」
「……そんな事ない。理子が、頑張ったからだよ」
凛は自嘲気味に笑い、目を伏せた。
「……正直さ。最初はちょっと不安だったんだ。私が……無茶を言ったんじゃないかって」
「凛……」
「でも、理子のベルを見てて……ああ、間違ってなかったって、そう思えたんだ」
街灯の明かりの中で、凛が柔らかく微笑む。
「理子に、ベルをやってほしいって言って……よかった」
その言葉には、ただの安堵以上の何か温かいものが込められている気がした。
でも、私にはそれが何なのか、わからなくて……。
「……ありがとう、凛」
ただ、そう返すことしかできなかった。
* * *
家に帰って、さっとシャワーを浴びてからベッドに倒れ込む。
全身くたくただった。
でも、心は不思議と高揚していた。
明日は、いよいよ本番。
私の——星野理子の、素顔の舞台だ。
ふとスマホを見ると、高坂君からメッセージが来ていた。
『明日、いよいよ学園祭だね! 星野さんの舞台、楽しみにしてる!! 村娘でもちゃんと見つけるからね! 写真撮るよー!!』
……そうだった。
彼も、見に来るんだった。
客席から舞台の私を——素顔の私を見るんだ。
(……知り合いに見られるの、やっぱり……ちょっと緊張するな)
ライブの時とは違う緊張。
あの時は、マスクの中に隠れていられた。
でも、明日は——素顔で、彼の前に立つ。
ベルとして。星野理子として。
胸がトクンと高鳴る。
(……ううん。今は、ベルのことだけを考えよう)
高鳴りを抑えるように、簡単な返事だけしてから私は目を閉じた。
明日、最高のベルを咲かせるために。
「……おやすみなさい」
誰にでもなく呟いて、寄り添う眠気に委ね、意識を手放した。




