23話
ピピピ、ピピピ、とスマホのアラームが起床の時を喧しく知らせてくれる。
でも、このアラームが鳴る前から、私の目は覚めていた。
ゆっくりとベッドから起き上がり、窓の外を覗く。
まだ空は暗く、街は人口の光が道を照らしていた。
今日はいつもより遥かに早く起きた。
……正直眠ったという感覚があまりなく、ただ目を閉じて身体を休めていたという方が近いかもしれない。
簡単に言えば、緊張でよく眠れなかったのだ。
何故なら今日は——ステラ☆フォースの大型ライブイベント本番の日だから。
他にも言い訳をするなら、久し振りのビジネスホテルへの宿泊で、枕が変わった事も眠れなかった一因だろうか。
部屋の固定電話から規則的なコール音が鳴り響き、私はノロノロと受話器を持ち上げ、耳に当てる。
『おはようございます。モーニングコールです。本日も良い一日をお過ごしください』
ノイズの混ざる、古い自動音声が鼓膜を震わせる。
(そうだ、少し時間をずらしてセットしておいたんだっけ)
受話器をそっと元に戻し、軽く伸びをしてから洗面所へと向かう。
顔を洗って、髪を結んで、軽く身支度を整える。
朝食は昨日買っておいた固形栄養食と、バナナ。胃に優しいものだけをゆっくりと胃に入れていく。
全部、いつも通りの手順を進めているはずなのに、手が……震えている気がした。
機械的に身体を動かしながら、ふと昨日の夜のことをぼんやりと思い出していた。
寝る前に、凛から電話がかかってきたのだ。
『や、理子。……明日でしょ、本番』
「……うん。ついに、明日……なんだよね」
『ん……』
電話越しの凛の声は、いつも通り淡々としている。
でも、そのいつも通りが今は何よりもありがたかった。
私が明日のライブイベントで、ブレイブ役を勝ち取ったこと。
それを知っているのは、両親と、凛だけ。
あのオーディションの日から、ずっと近くで見てきてくれた凛だからこそ、言える言葉だった。
『緊張してる?』
「……してる。めちゃくちゃ」
『ふふ。理子でも緊張するんだ』
「するよ。当たり前でしょ」
『でも、大丈夫』
凛の声が、少しだけ柔らかくなった。
『理子がどれだけ頑張ってきたか、私は知ってる。あれだけやったんだから、自信持っていいよ』
「……うん」
『理子のブレイブ、きっと最高だよ。……観に行けないのが、残念だけど』
その一言が、じんわりと胸に染みた。
「ありがとう、凛」
『どういたしまして。……ちゃんと寝なよ?』
「善処します」
『……しなさそう』
どちらともなく、ぷっと吹き出して穏やかに笑い合い、「おやすみ」と言って電話は終わった。
もうスマホの画面は暗く、ただ情けない顔をした自分の顔が反射して映っている。
でも、凛の「大丈夫」という言葉が、今もまだ胸の奥で温かく灯っていた。
そして——もう一件。
凛との電話を切った後、高坂君からも、立て続けにメッセージが届いていた。
『いよいよ明日ライブ本番ーっ!!!』
『楽しみすぎて眠れる気がしない!!』
『前から三列目!! マジで神引きすぎて……ブレイブが近くで見られる……!! 幸せすぎる……!!』
『よし、早く寝て体調整える!! 星野さんもお仕事頑張ってね!!』
ブレイブが拳を突き上げているスタンプが、何個も並んでいた。
(……前から三列目)
思わず、苦笑が漏れる。
彼は知らない。
彼が「近くで見られる」と喜んでいる、そのブレイブが——私だってことを。
三列目なら、きっとハッキリ見えるだろう。
マスク越しの私の動きが。指先が。視線が。
(……見ててね、高坂君)
心の中で、そっと呟く。
(あなたが大好きなブレイブを、私が——最高の形で、届けるから)
言えない秘密が、また、胸を締めつける。
でも今だけは——その秘密が、私の背中を押してくれる気がした。
* * *
チェックアウトの準備を終え、最後にもう一度洗面台の鏡の前に立つ。
そこに映っているのは、まだ少し強張った顔の、星野理子。
「ふぅ……」
高鳴る胸を落ち着かせるように、何度か深呼吸を繰り返す。
吸って、吐いて。吸って、吐いて。
……それでも、鼓動は完全には収まらない。
だから私は、鏡の中の自分をまっすぐ見つめて——。
パンッ!
両頬を、思いっきり叩いた。
頬がじんと熱を持って、強張っていた表情が、すっと引き締まる。
「……よし」
今日、私が立つのは、ずっと憧れて来た夢の舞台。
たくさんの子供達と、大きなお友達の見つめる舞台。
ブレイブとしてあのステージに立てるのは、一生に一度の今日一日だけ。
演じる自分自身にも悔いがないように。見に来てくれた多くの人達に楽しんでもらえるように。
「……いってきます!」
誰もいない部屋に、いつもの一言を残して。
私は、ステラ・ブレイブになるために部屋を後にした。
* * *
会場に入ると、昨日の緊張がそのまま空気に残っているようで、ぶるりと無意識のうちに身震いをしていた。
昨日のうちに、仕込みも場当たりも、本番同様のゲネプロも済ませてある。
だから今日は、もう本番を迎えるだけだ。
今日の会場は、普段のショーとは比べ物にならない大きさだ。
数千人を収容する大ホール。本格的な照明設備に、背後にそびえる巨大なLEDスクリーン。
ここで行うのは声優陣のトークに、主題歌歌手の生歌唱。
そして、ステラ達によるショーとダンスもある。
それを昼公演と夜公演。一日二公演。
体力的にも、集中力的にも、ごまかしの利かない一日になる。
楽屋で軽くストレッチをして、身体を起こしていく。
「星野さん、調子どう……?」
隣で支度をしていた檜山さんが、声をかけてくれた。
今日のステラ・ドリーム役で、一緒に舞台に立つ別の劇団の方だ。
「……正直、緊張で死にそうです」
「あはは、ですよね。私もです~」
檜山さんは私より少し年上の25歳のお姉さん。細身なのに引き締まっていて、殺陣の際もキレのあるキックを披露してくれていた。
後で空手の有段者と聞いて、少し格闘技の動きを見てもらった事から話すようになった人だ。
「むしろ緊張しない人いる? って感じですよねー」
そう淡々と告げながらゼリー飲料を飲み干すのは、ホープ役の横井さん。
彼女も私より年上で、元々バレエ界にいたらしく、動きにノビとキレがあるのが特徴のアクターさんだ。
「昨日のゲネ。星野さんも横井さんも完璧でしたよね、本物のブレイブとホープがいるって思っちゃいました。私もちゃんとドリーム憑依させないと」
「……っ、ありがとうございます! 檜山さんのドリームも、とってもカッコ良かったですよ!」
「ありがとう檜山さん。今日頑張ろうね」
「はいっ! ……じゃあお互いに、悔いのないお芝居しましょうね!」
ほわほわした檜山さんと、クールな横井さん。
二人との会話のおかげで、一人で自問自答ばかりして強張っていた肩が、ようやく少しだけ緩んだ。
* * *
最終の確認を終え、いよいよ支度に入る。
スタッフさんの手を借りて、スーツに袖を通していく。
インナーを着込み、アンコを入れ、ガワを纏う。
一枚一枚、ブレイブを重ねていくたびに——星野理子が、薄れていく。
最後に、マスクを被る。
視界がぐっと狭くなる。息苦しさと、独特の閉塞感。
でも、この感覚を、私はもう何百回も味わってきた。
鏡の前に立つと、そこにはもう、私はいない。
いるのは——ステラ・ブレイブだけ。
(……行ける)
マスクの奥で、静かに目を閉じる。
まずは、昼公演。
声出しが子供限定で、大人の声出しは禁止されているファミリー向けの公演。
昼は声優さんの出番よりも、ステラ達の出番が気持ち多くなっている為、人前に出ている時間が長くなっていく。
合間でも給水はもちろんできない。つまるところ――気合いと根性が大事なのだ。
「——まもなく昼公演、開演です。出演者の皆様、スタンバイをお願いします」
スタッフの声が聞こえ、心臓が大きく跳ねる。
……でも、もう怖くない。
深く息を吸って、私は——ステラ・ブレイブは、暗い舞台袖へと足を踏み出した。
幕の向こうから、子供たちの歓声が聞こえる。
……さあ、始めよう!




