21話
九月に入っても、まだまだ夏の暑さは容赦がなかった。
カレンダーに描かれているイラストには、中秋の名月や梨・葡萄等の果物が並び、季節はもう秋だと視覚では訴えかけてきているが、体感はまだまだ夏も真っ盛り。
鰯雲よりも、入道雲。それに夕方涼しくなればゲリラ雷雨が来るのが、まだ夏が終わらない事を感じさせる。
そして稽古場の中の熱気も、外の猛烈な暑さに引けを取らなかった。
――十月の大型ライブが、もう目前に迫っているからだ。
「もう一回、頭から! ブレイブ、入りのタイミングずれてるよ!」
「はいっ!」
指導の声が飛んで、私は息を整えて立ち位置に戻り、入りの姿勢を取った。
最近の稽古は、いつもの私が通う劇団のスタジオではなく、都内の大きなスタジオで行っている。
今度の大型イベントには、オーディションを突破した他劇団のアクターも集うオールスターで挑む。
合同稽古も早いうちから幾度か済ませているが、本番が近付くにつれて厳しさは増していく。
ステージで披露するのは、殺陣だけじゃない。
オープニング、エンディング、キャラクターソング——そして今回は、公開中の劇場版の主題歌も。
声優さんと歌手さんの生歌に合わせて、私達アクターが踊る。
一糸乱れぬ動きを、ブレイブとして。
その振り付けを、もう何百回繰り返しただろう。
手の角度。足の運び。視線の送り方。
身体が勝手に動くようになるまで、ひたすら反復する。
「——そう、それ! 今の良かった! その感覚のままもう一回!!」
「ありがとうございます……っ!」
汗が、顎を伝って落ちる。
息は上がっているけれど、動きが噛み合った時の高揚は、何物にも代えがたい。
あと少し。あと少しで、本番だ。
* * *
稽古を終えて、更衣室で着替えていると、スマホが鳴った。
画面を見ると——やっぱり高坂君だった。
『おつかれー! いきなりだけど、ステラの劇場版もう観た??』
(……劇場版)
もちろん、内容は知っている。……というより、知りすぎている。
劇場版の主題歌は、今まさに私がライブで踊っている曲だし。
劇場版限定のブレイブの新しい動きだって、資料で何度も確認した。
でも——映画館で、お客さんとして観たことは、まだなかった。
忙しくて、その時間が取れなかったのだ。
『まだ観てないです』
『えっ、マジで!? 絶対観た方がいいよ!! めちゃくちゃ良いから!!』
『そんなに?』
『そんなに!! 俺もう7回観た!!』
(七回……)
相変わらずの熱量に、思わず笑ってしまう。
そして、続けて届いたメッセージに——私は、手を止めた。
『もしよかったら、一緒に観に行かない?? まだ観てないなら、ぜひ!』
……いつもなら『その日は仕事で……』と言って断っていた。
別に、彼と出かけるのが嫌だったわけじゃない。彼が誘ってくるイベントは、私が出演する現場ばかりだったから、受けるわけにはいかなかった。
でも、これは映画。アニメの方の話だ。
私が出るわけじゃない。だから、行こうと思えば、行ける。
それに——正直に言えば、観たかった。
自分が今、必死に身体に叩き込んでいるブレイブが、本家ではどう動いているのか。
一人のお客さんとして、スクリーン越しにちゃんと確かめてみたかった。
(……これは、勉強。そう、勉強のため)
自分に言い訳をしながら、文字を打つ。
『……高坂君が良ければ。行きたいです』
『やった!! ほんと!? 嬉しい!!』
ぴこんぴこん、と立て続けにスタンプが飛んでくる。
ブレイブが飛び跳ねて喜んでいるスタンプだった。
『じゃあ次の土曜とかどう? 一日空いてるから時間は合わせるよ!』
『土曜の午前中なら、私も大丈夫です』
送信してから、ふと気付く。
これって、映画デート……?
(……いやいやいや、推し活の延長だから。前にも一緒に行ったし)
そう思おうとするのに、なぜか胸の奥が、そわそわと落ち着かない。
スマホをぎゅっと握って、私は小さく息を吐いた。
「……これは勉強、勉強なんだ」
誰にともなく呟いて、私は更衣室を後にした。
……その呟きが、自分への言い訳だって分かっていたけど、気付かないフリをした。
* * *
金曜日の夜。明日は約束の土曜日だ。
寝る前にしっかりとスマホのアラーム時間を確認する。
余裕を持てるように少し早めにセットされているのを二度確認し、充電プラグを刺して枕元に伏せて置く。
約束したのが先週の日曜日。
何となくそわそわと毎日を過ごして、何事もないように振舞っていた。
「今度の土曜、高坂君と映画行くんだ」なんて、言えるはずもない。
奈央や由美に知られたら、間違いなく大騒ぎになる。
凛には言いそびれてしまって……何となくまだ言えていない。
いつも通り、これも私だけの秘密。
……秘密だけが、また一つ増えていく。
そして、土曜日。
稽古が午後からの落ち着けるはずの朝は、目覚めた瞬間から妙に落ち着かなかった。
昨日これを着ていくと決めたコーデを今一度見て、また少し悩んでしまう。
(……いや、だから普通でいいんだって。前も普通だったし)
池袋の時のことを思い出しながら、結局シンプルな服を選ぶ。
でも、髪はまた下ろした。
メイクも……少しだけ、丁寧に。
(これは、別に。……うん、別に)
誰に言い訳しているのか、自分でもわからなかった。
待ち合わせは、映画館のある駅前。
約束の時間の少し前に着くと、もう高坂君の姿があった。
今日は痛バッグじゃなくて、普通のボディバッグ。
服装も、夏らしいシンプルだけど清潔感のあるシャツと長ズボン。
ただ、バッグの目立たない所にブレイブの缶バッジが一つだけ、こっそり付いている。
(……一個だけは我慢できなかったんだ)
その控えめな主張が、なんだかおかしかった。
「高坂君、遅くなってごめんなさい」
「あ、星野さん! おはよう! 全然! 俺もさっき来たところだから!」
そう言ってニッと笑う彼の笑顔は、陽キャモードだと猶更眩しい。推し活装備がない彼の輝く笑顔は、直視するのは中々勇気がいるものだった。
「今日はありがとね、付き合ってくれて!」
「ううん。こちらこそ、誘ってくれてありがとう」
「星野さんと映画見るの、楽しみだったんだぁ~!!」
心底楽しそうに笑みを浮かべる高坂君の笑顔から、私はスイと目を逸らす。
(こんな恥ずかしい言葉をスラスラと言えるって……)
もし、普段からこんな事を誰にでも言ってるのなら、きっと容易い言葉なのだろう。
でも……。
(何だろう……そう思うと、モヤモヤするかも)
恐るべし、高坂陽向。
「ねぇあの人……カッコよくない……?」
「えー! ほんとだ……! アイドルとかかな?」
遠巻きから熱の籠もった目で高坂君を見つめる女の子達からの視線に、彼は苦笑しながら被っていた帽子のツバを深く下げ、目元を隠すようにする。
「じゃ、いこっか。チケットも、もう取ってあるんだ! 良い席だよー!」
「えっ、私の分も? お金……」
「いいのいいの! 誘ったの俺だし! その代わり、感想いっぱい聞かせてね!」
そう言って、彼は嬉しそうに先に立って歩き出した。
池袋の時と一緒で、リードを持つ主人を無理やり引きながら歩く大型犬のような、ご機嫌な後ろ姿。
(……本当に、そういうところだよ、高坂君)
私は小さく笑って、その後を追った。
* * *
劇場に入り、指定された席に並んで座る。
ほどよく暗くて、ひんやりとした空気。
予告編が流れる中、隣の高坂君は、もうすでにそわそわし始めていた。
「やばい、何回観てもこの瞬間ドキドキする……!」
「七回も観たのに?」
「ふっふっふ、実はもう十三回観てまーす! だからこそだよ! 名作は何回でもいけるの!」
(……筋金入りだ)
そんなやり取りをしているうちに照明がさらに落ちて、ヒソヒソ声やポップコーンを食む音も鎮まっていく。
いよいよかな……? と姿勢を正すと、スクリーンに見慣れたビデオカメラの男が現れる。
(そうだった。コレがまだあった)
映画の不法録画への注意喚起と上映中のマナーを知らせる映像が流れ、いよいよスクリーンが漆黒に染まる。
今度こそ、いよいよだ。




