20話
稽古、仕事、稽古で埋め尽くされた日々はあっという間に過ぎ去って、長いようで短い夏休みが終わり、後期の講義が始まった。
久し振りに訪れるキャンパスは、相変わらず人で溢れている。
すれ違う学生の顔は良く日焼けしており、楽しい夏を過ごして来たんだぜと、口では物言わずとも雄弁に語っている。
「あっ! 理子ー!! おひさーっ!!」
教室に入るなり、私を見つけた奈央が大きく手を振り、その隣で由美も笑いながら軽く手を振っていた。
私も軽く手を振って応えながら、二人が取っておいてくれた席へ足早に座る。
「席ありがと。 ……二人共、ちょっと焼けた?」
声をかけると、奈央が得意げに腕を見せてきた。
「えへへ、分かる? あれから家族でもう一回海行ったんだー!」
「私は何か焼けちゃった。日焼け止めしてたのにー……」
由美が苦笑する。
ほんのり日焼けした二人を見て、私は思わず笑ってしまった。
「楽しかった?」
「もちろん!! 理子こそ、夏どうだった?」
「……まあ、それなりに?」
稽古と仕事しかしてない――なんて言えるわけもなく、私は曖昧に微笑んだ。
まもなく講義開始のチャイムが鳴る中、ギリギリ滑り込んだ凛が、息を切らしながら席へとやってきた。
「はぁっはぁっ……おはよ、みんな」
「おはよ~凜~! ギリセーフだね!」
「おはよう凜ー。伊豆振り~!」
凜は奈央、由美と軽くハイタッチを交わしつつ、私の隣の空席に座った。
まだ容赦ない夏の日差しの熱を吸った服と、走ってきて上がった体温の熱を、彼女の近くの左腕に感じていた。
「お、おはよう凛。 初っ端から寝坊?」
「ふふ、バレたか。目覚まし夏休みのままでさ」
「あー、なるほどね」
短い挨拶。でも、それだけで何だか安心する。
夏の旅行のことには、お互い触れなかった。
あの夜のことも、何も。
ただ、いつも通りの距離感で、凛は隣の席に座っている。
それが、心地よかった。
* * *
夏休みが明けて後期の講義が始まっても、私の生活は基本的に変わらない。
講義に出て、サークルにも顔を出して、夜は稽古場へ向かう。
秋の公演が近いから、むしろ夏よりも忙しいくらいだ。
ただ一つ、変わったことがあるとすれば——。
「星野さーん!」
講義の合間、選択講義でいつもの三人と別れて廊下を歩いていると、聞き慣れた声が飛んできた。
振り返ると、高坂君が小走りで近づいてくる。
周りに友人がいないことを確認すると、彼の目がいつものようにキラキラと輝いた。
「ねえねえ、昨日のステラ見た!?」
「……見ましたよ。すごかったですよね」
「だよね!! あの戦闘シーンの作画、神がかってたよね!! 劇場版かってくらい!」
夏を挟んでも、高坂君は何も変わらない。
いつも通り、私の前では楽しそうにステラの話で目を輝かせている。
でもそれ以外の所では、キラキラの陽キャの権現。
……つくづく、器用な人だ。
「あ、そういえばさ。今度の——」
彼が身を乗り出してスマホを見せてくる。
その距離が、ほんの少しだけ近くて。
私は——なんとなく、目を逸らした。
「……星野さん? 聞いてる?」
「あ、うん。聞いてます」
「ならいいけど! でね~!!」
高坂君は気にする様子もなく、また楽しそうに話し続ける。
私は相槌を打ちながら、彼の顔を、まっすぐには見られずにいた。
(……どうしてだろう。夏の前までは、普通に話せていたはずなのに……)
彼の楽し気な話し声がどこか遠く聞こえ、その内容は全く頭に入ってこない。右耳から左耳に引っ掛かる事なく抜けていく。
視界に入っているはずの彼のスマホの画面の情報も、読み取る事が出来ない。
「それでね。このイベントの――」
彼が言いかけた、その時だった。
「お! 陽向じゃーん! なにしてんの?」
廊下の向こうから、高坂君の友人らしき男子が数人、こちらに歩いてくるのが見えた。
その瞬間、高坂君の顔がすうっと切り替わる。
さっきまでステラの話で少年みたいに輝いていた目が、嘘みたいにいつもの高坂陽向の爽やかな笑みに戻っていた。
「おー、お疲れ! いや、ちょっと友達と話しててさ」
伺うその横顔は、キラキラした陽キャそのもの。
何度見ても、見事な早変わりだった。
「まーた陽向が女の子と話してら。 羨ましいなぁこのこの!」
「てか陽向、次の教室三号館じゃなかったか? 時間大丈夫なん?」
「うん、まだ大丈夫。走れば何とかなるって!」
……そして、こういう時の私の動きも、もう慣れたものだ。
彼らの視線がこちらに集まる前に、私はそそくさとその場を離れる。
壁際を滑るように、すすす、と。
「あれ、あの子行っちゃったよ?」
「えっ……! ちょ、星野さん!?」
「おーおー。陽向もフラれる事あんだなー?」
背後で男子達の笑い声と、焦ったような高坂君の声が聞こえてきたけれど、振り返らない。
目立たないこと。波風立てないこと。
それが、彼との秘密を守る為の、私なりの処世術だった。
人混みに紛れて、私は次の講義棟へと足を向けた。
* * *
この日の放課後は、珍しくサークルの稽古に顔を出せる日だった。
学園祭で上演する『美女と野獣』。その通し稽古が、もう始まっている。
稽古場代わりの空き教室に入ると、部長が私を見つけて軽く手を上げた。
「お、星野さん来てくれたんだ! 忙しいのにありがとね」
「すみません、なかなか顔出せなくて」
「いやいや、プロが片手間に手伝ってくれるだけでありがたいって」
部長が冗談めかして笑いながら言った。
このサークルでは、私が外で劇団員の仕事をしていることは、みんな知っている。
知られてはいるけれど……だからこそ、私は端役を希望していた。
稽古にろくに来られない人間が、いい役をもらうわけにはいかない。
台詞が数行の村娘B。それくらいが、今の私には丁度良い。
「星野さんさー、ほんとは主役級できるのに勿体ないよねー」
「とんでもないです。スーツの中と舞台は、全然別物ですから」
これは、謙遜じゃなくて本心だった。
顔を隠し、声も出さず、身体だけで魅せる仕事と。素顔のまま台詞を喋り、歌って踊る舞台。
同じ『演じる』事でも、使う筋肉も能力もまるで違う。
「はーい、じゃあベルと野獣のシーン、頭から!」
部長の声に、二人の人物が立ち上がる。
ベル役は、三年の美月先輩。
サークル一の実力者で、声も表情も、もちろん演技も思わず目を奪われるほどの人だ。
そして、その向かいに立つのは——野獣役の、凛。
「……なぜ、ここへ来た。出て行け」
凛の低い声が、空き教室の空気をぴりっと張り詰めさせた。
いつものクールな凛じゃない。
孤独で、不器用で、それでもどこか期待を隠しきれない——そんな『野獣』が、そこにいた。
(……上手いなぁ)
思わず見惚れてしまう。
美月先輩も負けじと、怯えながらも芯の強いベルを演じ返す。
……二人の芝居は、見ていて引き込まれるものがあった。
「はい、OK! いいねぇ二人とも!」
部長の声で、ぴんと張っていた空気が緩む。
凛が、ふっと素の顔に戻って、こちらをちらりと見た。
私が小さく親指を立てると、凛は気恥ずかしそうに目を逸らした。
自分の出番——村娘Bの短いシーンを終えた後、私は教室の隅で凛と並んで、他の人の稽古を眺めていた。
「凛、野獣すごく良かったよ」
「……そう? まだ掴みきれてないけどね」
「ううん。あの低い声、カッコ良くてぞくっとした」
「……役者さんをぞくっとさせられたなら、光栄だよ」
二人でくすりと笑い合う。
舞台の上の凛と、隣にいる凛。
全然別人にしか見えないけれど、本当の凜を知っているのは、自分だけ。
ちょっとした特別感が、なんだか少しだけ……嬉しかった。
「……理子も、もっと主役級の役やればいいのに」
ふいに、凛がぽつりと言った。
「えっ」
「村娘Bが悪いわけじゃない。でもあまりに出番も短いし……。その役だって真剣にやってるのが、理子らしいけどさ」
「……当然だよ。部長にも言ったけど、私サークルは全然来れてないから。……それに、モブだからって手を抜いたら、絶対見てる人には分かっちゃうしさ。役を貰えたんだから、全力でやるだけだよ」
「……うん、ほんと……理子らしい」
「でしょ。凜なら分かってくれるって思ってた」
「……でも、正直やっていいなら主役やりたいでしょ?」
「……バレてた?」
「そりゃね。ずっと見てるから」
なんでもないことのように言って、凛はまた稽古する部員達に視線を戻した。
その横顔に、私は微笑みながらいじるように肘で彼女を突くのだった。




